パティパダー巻頭法話

No.330(2022年9月号)

身体は水瓶の如く脆い

気づきは如実に観る訓練 Attachment creates

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga
第26章 婆羅門の章

  1. Kumbhūpamaṃ kāyamimaṃ viditvā
    Nagarūpamaṃ cittamidaṃ ṭhapetvā
    Yodhetha māraṃ paññāvudhena
    Jitañca rakkhe anivesano siyā
  • この身体は水瓶のように脆いものだと知って、
    この心を城廓のように(堅固に)安立して、
    知慧の武器をもって、悪魔と戦え。克ち得たものを守れ。
    しかもそれに執著することなく。
  1. Aciraṃ vatayaṃ kayo
    Pathaviṃ adhisessati
    Niratthaṃva kaliṅgaraṃ
    Chuddho apetaviññāṇo
  • ああ、この身はまもなく
    地上によこたわるであろう、
    意識を失い、無用の木片のように、
    投げ棄てられて。
  • 日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば 咸興のことば』岩波文庫より

安穏に達するために

苦しみを乗り越えるために、ブッダは解脱に達することを推薦しているのです。解脱とは、あらゆる束縛から脱出することです。しかし、一般の人々は束縛を喜んでいるのです。束縛を喜ぶ人々は、「解脱に達する道など自分にとって関係ない話ではないか」と思うのです。しかし、人は揺るぎない幸福を感じて生きているわけではありません。生きることは、悩み、苦しみ、失望、落ち込みなどの連続です。人が束縛を喜んでいるかぎり、悩み苦しみから脱出することはできません。もしも束縛が苦しみの原因であるならば、人は「束縛とはいかなるものか」と明確に理解する必要があります。

財産・家族などを持つ人には、ある程度で喜びを感じることができます。しかし、「悩み、苦しみ、不安などが現れる時も、その原因は、財産、家族などである」と理解しなくてはいけないのです。人が亡くなったと聞いても、「そんなのは世にある普通のことだ」と思って気にしないものです。しかし、亡くなった人が自分の愛する家族のひとりであると知った瞬間、悩み苦しみに陥るのです。「世にある普通の出来事だから」と思って、落ち着くことは決してできません。人が死ぬという事実を冷静に受け止めることはできても、愛着を抱く人が亡くなることは耐え難い悩み苦しみを惹き起します。この事実は「悩み苦しみは愛するものごとから起こる」というフレーズにまとめられています。

こころの安穏を目指す人は、愛着について客観的に学ぶ必要があります。私たちには、好きなものが無数にあるかも知れない。好きなものは、それなりに自分に喜びを与えているかも知れない。財産、家族などは、自分に楽しみを与えるかも知れないが、それらは自分の所有物にならないので、自分の好きなように管理することはできないのです。無理に外の世界を管理しようとすると、楽しみの代わりに苦しみが起こります。結局は、人は自分のことを好きなのです。人にとっては、自分ほど愛しいものは存在しません。だから、束縛を喜んでいる人々は、強烈なエゴイストなのです。他人のことを心配する慈しみがないのです。好きなものが沢山ある人には、気づいていないもう一つのポイントがあります。自分は強烈なエゴイストなのに、自分の人生は好きなものごとに管理されて、支配されて、抑えられて、奴隷にされているのです。主人のつもりだったが、現実は奴隷です。奴隷には自由がありません。ゆえに、幸福を目指す人々は、束縛を破らなくてはいけないのです。

身体の束縛

人間は自分の身体に束縛されており、自分の身体に執着しています。だから、人は身体の奴隷なのです。身体が要求するものは、なんでもやってあげようと頑張ります。病気になること、老いることを嫌がり、死を怖がるのです。肉体に愛着があるから、いつでも肉体の指図に従って生きているのです。病に罹ること、老いることを避けるために並々ならぬ努力をしますが、その結果、並々ならぬ苦しみと絶望感を味わうのです。安穏を目指す人は、まず身体に対する愛着を捨てなくてはいけません。感情ではなく、理性でものごとを考えるならば、簡単なことです。肉体は病に罹ります。日々、老いていきます。機能できなくなった瞬間で死ぬのです。この流れは、決して逆転できません。これは明白な事実でしょう。素直に認めれば、こころが楽になるのです。

お釈迦さまは、身体を水瓶に喩えています。昔の水瓶は素焼きの土器でしたから、簡単に割れたのです。この身体も、ほんの僅かな手違いで壊れて死にます。「どんな瞬間であっても、身体が壊れて死ぬことは起こり得るのだ」と、修行者は理解するのです。この世で確かなことがたったひとつあります。それは死です。「命は脆く、死だけは確かである」と、修行者は観察するのです。その人は肉体に対する束縛・執着から離れます。その分、世間が感じる膨大な悩み苦しみから解放されるのです。

こころの世界

一人ひとりに、こころの世界があります。それは、思考・妄想などで作り上げられるのです。お釈迦さまは、こころの世界を都市に喩えています。昔の都市は王が住む所でもありました。だから、兵隊や、商人、職人、その他の使用人たちも住んでいるのです。四方から人々がやって来ます。泥棒や詐欺師たちも住んでいるのです。都市とは、決して安全で安穏な場所ではありません。都市の外では、敵軍が狙っているのです。表面的にかっこよく見えるだけで、内部は混乱だらけで不安に満ち溢れています。落ち着き・安穏・平和などはまったく無いのです。

一人ひとりのこころの中は、この都市のようなものです。こころのなかで、思考・妄想が止まることなく荒波を作っているのです。こころには落ち着きも余裕もありません。こころはものごとを正しく認識する機関ですが、思考・妄想の渦巻のなかで回されているので、ものごとを正しく認識することができなくなっています。こころは自分本来の仕事をやっていないのです。病んで怯えているこころの認識は、正しい認識にならないのです。

安穏を目指す人は、「こころは都市のようなものである」と知って、正しく管理するのです。昔の都市は、城壁で囲まれていました。外から敵が入らないように、城門に警備員がいたのです。われわれの心には、眼耳鼻舌身という五つの門から情報が入り込みます。それによって、こころが乱れて、貪瞋痴という敵に負けるのです。修行者は、眼耳鼻舌身に色声香味触の情報が入っても、こころが貪瞋痴で乱れないように守るのです。

戦い

こころが乱れないように守ることは難しいのです。われわれは絶えず、思考・妄想しています。思考・妄想とは、捏造した概念をかき回すことです。こころが乱れないように守ることは、世にある一番難しい戦いなのです。そこで、智慧という武器を使います。眼に触れる色の情報に対して、「美しい」「気持ち悪い」などの感情を作らない。ただ「見えた」と認識する。それも瞬間の出来事だと理解する。眼に触れた色の情報も無常であり、瞬間の出来事だと理解する。耳に触れる音の情報に対して、「聴こえた」と認識する。そこで生じる耳識は瞬間の出来事だと理解する。このように、感情・煩悩・妄想が現れる前に、「一切の現象は無常である」という智慧の武器を使って、こころの安穏を保つのです。

勝利を守る

思考・妄想を智慧で管理することで、貪瞋痴が起きないように気づきを使うことで、こころが安穏・やすらぎを感じます。しかし、まだ完全に勝利を得たわけではないのです。こころがある程度で落ち着いたら、その状態を守らなくてはいけないのです。成功したのだと驚いたり、感動したりすると、それが新たな煩悩になります。またこころが乱れて、元の混乱状態に戻ってしまいます。妄想・雑念を制御する気づきの実践によって、こころは徐々に安穏に達していきますが、無執着の精神で、こころが完全に安穏に達するまで進み続けなくてはいけないのです。

身体の観察2

肉体に対する愛着は強烈です。それを破ることができるならば、人は速く解脱に達します。そこで、身体に対する愛着を捨てるために、つねに観察するべきブッダの言葉があります。自分の身体に対して、このように観察するのです。「この肉体から認識作用が消えた瞬間で、燃えた薪のように、地面に捨てられるだろう。」認識作用が消えた瞬間で、この身体はなんの役にも立たないものになる、という意味です。

今回のポイント

  • 人は束縛を喜ぶ
  • しかし、束縛が悩み苦しみを作る
  • まず肉体に対する執着を捨てる
  • それから、煩悩が生まれないように心を守る
  • こころを清らかに保つことが本当の戦いです