No.342(2023年9月号)
死王から解放される道
存在とは幻覚であると発見する Beyond boundaries of time and space
今月の巻頭偈
Dhammapada 4.Pupphavagga
ダンマパダ(法句)第四章 華の章
-
Pheṇūpamaṃ kāyamimaṃ viditvā
Marīcidhammaṃ abhisambudhāno
Chetvāna mārassa papupphakāni
Adassanaṃ maccurājassa gacche
-
この身は泡沫【うたかた】のごとくであると知り、
かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、
悪魔の花の矢※を断ち切って、
死王に見られないところへ行くであろう
※魔(死王)の華やかな幻覚世界
- 日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば感興のことば』岩波文庫より
死王
経典には時折、maccurāja【マッチュラージャ】(死王)という単語が出てきます。この言葉について、私たちは誤解してしまう可能性があります。インド文化的な諸宗教では、「森羅万象に関わるすべての出来事は、担当の神々によってそれぞれ管理されているのだ」という考えが普通です。それに対して、アブラハム系の宗教は唯一神を崇める一神教です。しかし、人類の歴史を眺めてみると、世界中の多くの人々がもともと多神教を信じていたのです。多神教では、それぞれの仕事を担当する神々がいます。たとえば、学問の神、音楽や芸術の神、豊作の神、雨など自然現象を司る神、太陽の神、月の神、国家の守護神、戦争の神、悪人を裁く神、幸福を司る神、財産の神、怒りの神、などなどです。人間の希望、要求などは無数にあるので、それに合わせて神々の数も増えていきます。やがて神々を数え切れなくなったので、インドではおおむね三億三千万くらいの神がいるとしているのです。日本でも八百万【やおよろず】の神々がいますね。
そうなると当然、人間の「死」を担当する神も存在することになるのです。事実、死神【しにがみ】という概念は、洋の東西を問わずあります。皆、死ぬことを嫌がるので、死神は人の恐怖感を掻き立ててきました。インド文化的には、死とはすべての終わりではなく、森羅万象の循環の一つの現象です。それでも、生まれた命は死で終わらなくてはいけない。その現象を担当する神は、死神ではなく、「死王」と呼ばれます。日本仏教には、閻魔大王という概念がありますが、彼は決して悪人扱いされていません。原語では、yamarāja【ヤマラージャ】と言われるキャラクターです。Yama【ヤマ】とは時間を意味します。昼のyamaと夜のyamaの二つに分けて数えることもあるし、さらに詳しく分ける場合もあります。つまり、yamarāja閻魔大王とは、「時間の担当者」なのです。
仏教の死王
仏教の真理を説明する過程でも、死王という単語を使います。すべての現象は、時間の流れのなかに成り立つものです。要するに、「一切現象は無常」という真理です。しかし、人々は無常を理解しようとしないのです。無常の流れに乗って、さまざまな計画を立てて、行動して、生きています。無常という事実がなければ、希望は叶えられません。貧乏な人が豊かになろうと期待する。その目的を目指して努力する。やがて豊かになる。成功したと喜ぶ。これは、かつて貧乏であった自分の状況が徐々に変わっていった、ということです。これを極言するならば、「貧乏人が死んで、富豪が生まれた」のです。文学的に言い換えれば、「閻魔様(死王)が担当した」ということです。死(時)が無ければ、現象は何ひとつとして成り立たないのです。
人の命も、森羅万象の流れも、因果法則によって生じるものです。因縁の世界では、インチキ・誤魔化し・騙しなどが介在する余地はありません。「行為に結果が現れる」という因果法則の流れを、一般人が完全かつ明確に理解することは不可能です。そこで、「悪行為をしても、騙して逃げることは可能だろう」などと、「善因善果、悪因悪果」の法則を疑ってしまう場合もあるのです。しかし、因果法則は精密に、正確に働いています。仏教では、この話を一般人の信仰であるyamarājaと関連づけてみるのです。Yamarājaは、生命の行為について完璧に正しく、なんのバイアスもなく判断を下すのだ、とされていました。そこで、yamarājaには「世に存在する完璧な裁判官」という意味も込められたのです。閻魔様には、dhammarāja【ダンマラージャ】という称号も与えられています。この場合のdhamma【ダンマ】は、法則という意味です。
仏教では、真理を解明する目的で、一般人にもよく知られる神話や信仰をあえて利用します。しかし、これはけっこう危険な試みでもあります。説法を聴く人々が神話のほうに惹かれたら、ブッダが説く真理を誤解しかねないからです。真理において、人間の行為を死後に審判する裁判官など要らないのです。行為に応じた結果が生じるのは、あくまで自然の流れです。火を触ったら火傷をする。その結果をもたらすために、「火傷させる」担当の神などお呼びではありません。つまり、お釈迦さまは「すべての現象は因果法則によって成り立つ」という一般人に理解が難しい真理を、彼らの信仰対象の一つであった「死王」に入れ替えて解説しただけなのです。
時間という大海
すべての現象は無常です。変化し続けて、停止も安定もしないのです。ものごとには、瞬間的な存在があるだけです。時間はすべての現象のベースです。地球上にあるものは、すべて地球の引力によって引っ張られています。空を飛ぶ飛行機も、引力を使用しているのです。このように、すべての現象は時間により生じ、時間により変化し、時間により壊れます。地球も太陽系も宇宙も、「時の法則」のなかで成り立っているのです。
では、すべてを支配して管理する、「時間」とはなんでしょうか?
そもそも時間など存在しないものなのです。すべての現象は無常であり、つねに変化し続けています。この変化を計算したくなった人々が、地球の自転公転をベースにして、時間という概念をつくったのです。その概念に基づいて計算すると、太陽は約46億年前に誕生したことになります。「ビッグバンと同時に時間が現れた」という考えもありますが、時間とは現実ではなく、人間の頭のなかに現れる概念なのです。無常が現実です。「無常だから、変化するから、すべては成り立っているのだ」ということが客観的な事実なのに、人間はそれに興味を抱かないのです。海に住む魚たちが、海のなかにいることに気づかないようなものです。海という現実に気づかないで、安全に生きているのだと漫然と思っている。無常によって成り立ち、無常のなかに生きている生命も、その無常には気づかないのです。
無常に逆らう
生きるとは、無常に逆らってみることです。生命は「死にたくない」と思っているのです。死を避けるためになんでもやります。死を避けて、元気で幸福に長生きしたい、という目的に向かって努力しても、助けになるのは無常なる現象です。お腹が空いたらご飯を食べる。ご飯が無常だからこそ、変化するからこそ、肉体の栄養になる。ご飯より遅く変化する砂利を食べたところで栄養にならないし、内蔵がいかれて長生きする希望も潰【つい】えてしまいます。無常でなければ、勉強しても知識人にはなれません。無常でなければ、運動しても体力が付かないのです。生きるという営みのすべては、無常だから成り立っています。家を買ったり、経済活動したり、家族をつくったり、ものごとを開発したり、寝たり、起きたり、遊んだりなどなどの様々なことをして生きているのです。それらはすべて、無常に逆らう行為です。それでも、現象が無常だからこそ、努力次第で希望が叶うのです。無常だから、叶った希望もさらに維持管理しなくてはいけない。無常に逆らうのは苦しいことです。「生きるとは無常に逆らうことだ」とするならば、「生きることは苦」にもなるのです。
真理の世界
客観的に、ありのままに、「自分のこと」と「外の世界」とを観察してみます。物質とは、実体として「有る」ものなのでしょうか?
観察する人は、物質とは瞬間に消える現象に過ぎないことを発見します。すると、「物質は実際に存在する」とは言えなくなります。とはいえ、「物質は存在しない」とも言えなくなるのです。そこで、物質を「無常で変化する波の流れ」として認識します。物質世界を観察するために、宇宙を調べる必要はありません。自分の身体を観察すればいいだけです。身体ならば、疑いなく直感できます。身体とは、あるとも言えない、ないとも言えない、波なのです。波にはトップ(山)とボトム(谷)があって、認識できるのはトップのほうだけです。仏教用語では、この二種類の波を「生」と「滅」と名付けます。生は認識できますが、滅は認識できません。そのため、私たちの総合的な認識は「物質はある、存在する」という誤解に陥ってしまうのです。なぜならば、波のボトム(滅)を認識していないからです。仏道の人は、集中力を高めて、思考・妄想を消して、身体を観察することで、「身体とは生滅の流れなのだ」と認識するのです。
お釈迦さまは易しい喩えを使っています。「身体は泡沫【うたかた】のようであると知る」のです。身体とは、現れては弾け、現れては弾けるバブルです。泡沫を観察すると、弾けることも見えるような気がします。しかし、弾けること(滅)は見えないのです。「有ったバブルがいまは無い」ということを観て、弾けることを推測するだけです。身体を泡沫のように認識することができたならば、瞑想を実践する人は「身体は実体として有る」という誤解から離れます。もはや身体は、勢いよく現れては弾ける泡沫です。執着に値しない、計画を立てたり実行したりする価値のない、変化が止まらない、実体のない、中身がない、空っぽな現象として、我が身を認識するのです。
修行者がさらに実践を続けると、「認識次第でものごとは変わるのだ」と発見します。身体が硬いと思えば硬く感じる。泡のようでなんの硬さもないと思えば、身体ではなく空【くう】を感じます。そこで達する結論は、「存在とは、こころが作り出す陽炎【かげろう】である」という事実です。私たちが認識する自分のこと、他人のこと、宇宙のこと、すべてはこころがつくりだした陽炎なのです。最近では、「宇宙とは、こころがつくりだすホログラムなのだ」と主張する人々もいます。さらに言葉を換えるならば、修行者はquantum【クォンタム】(量子)世界を発見するのです。わかりやすい言葉に入れ替えると、「すべては幻覚だ、幻想なのだ」ということです。「わたし」は幻覚であり、幻想なのです。(これは解脱に達する人のこころの状況です。)仏教では、この発見に「智慧が顕れた」と表現しているのです。
死王からの解放
人は死王の管理下で生きています。死王=時間=無常の管轄から誰も抜けられないのです。眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れる。眼耳鼻舌身意は無常で、瞬間しか存在しない。色声香味触法も無常で、瞬間しか存在しない。にもかかわらず、集中力も観察能力もない人々は、「見えた」「きれいだった」と勘違いして喜びます。自分自身の誤認識に執着するのです。それから、「聴こえた」「楽しかった」と勘違いして、喜ぶ。誤認識に執着する。他の感覚でも、同じことが起きるのです。思考して、妄想して、喜んだり悩んだりするだけではなく、その思考・妄想に執着もします。これが普通の人間の生き方になっているのです。すべての現象は無常なので、「死王の管轄」です。死王(無常)が、眼耳鼻舌身意を通して華やかな幻覚の世界(mārassa
papupphakāni)をつくります。人々を悩ませるすべての煩悩は、幻覚の世界で成り立っているのです。
仏道を歩む人は、観察能力を活かして、「幻覚が成り立つ仕組み」を発見するのです。「長生きしたい」「永遠になりたい」「死にたくない」などなど、すべての希望、すべての期待、すべての努力は、無常に逆らう行為です。無常に逆らうのは、「自分とは幻覚である、こころが作り出すホログラムに過ぎない」と、発見していないからです。その発見をすることなく、人が何をやったとしても、それらすべては死王(無常)の管理下で起きていることになります。死王から解放されていないのです。確固たる存在だと勘違いしてきたすべては幻覚であると、蜃気楼であると発見する人は、死王の管理下から解放されているのです。この状況を表す言葉はありません。俗世間の単語を使って、「解脱」と名付けられているだけです。「解脱とは何か?」ということは、一般認識過程に嵌っている人々には理解できないのです。
今回のポイント
- 死王は信仰世界のキャラです
- 人の営みを管理する神々はいないのです
- 仏教の死王は「一切現象は無常」という真理のことです
- 人は無常に逆らって生きることに執着します
- 無常を発見する人は幻覚を破ります



