根本仏教講義

4.死んだらどうなるか 3

「人間らしく生きる」とは?

アルボムッレ・スマナサーラ長老

来世があろうとなかろうと、人間らしく生きることがまず重要だというお話を、前回しました。

それから「人間らしく」生きていない人が意外に多い、ということもお話ししましたね。そこで今日は、どうやって人間らしく生き、人間としてのレベルアップをはかれるのかということから話を始めましょう。

まず、自分で仕事をし、ごはんを食べて、家族を養って、平和に生活する、それは普通の人間の生き方です。でも、「自分には少々余分なお金がある。それでどこかへ行ってくだらない遊びをするのではなくて、これは人のために使おう」「世の中には困っている人がいっぱいいる、たとえば障害者の方たちのために使おう」また、「自然を守るために使おう」「生命を守るために使おう」と考えることができるようになったなら、それはちょっと人間のレベルが高くなったということです。自分のお金があれば、そのお金でどこかへ出かけて遊ぶことは自由であるし、すごく高いパブなどに行ってお金がなくなるまで飲むこともできるし、自由なんですね。自由なのにやっぱりそれを人のために使いましょうと考えられるということです。

隣の人が急に病気になって大変困って泣いているとします。それでも今はみんな核家族で近所づき合いも少ない、だから「人のことに、口出しはしない」「隣は隣、どうなってもウチとは関わりはない」と、自分勝手に生活することもできるのです。でもそうじゃなく、「困っている人がいるなら助けてあげよう」という考えで接する。「いかがですか。お元気ですか」と声を掛け合う。もし老人がひとりで住んでる家があるならば、よく行って面倒を見て様子を聞いてあげる。そんな風に、少し人のために何かすることで、人間性が少しあがります。

また、たとえば、誰かに悪口を言われたとします。するとどうなりますか?

普通は怒るのではありませんか?

批判されると、すごく腹が立ってしまいます。それは自然なことです。批判した人を恨むのは、人間の自然法則なのです。「自分はもうカンカンに怒っている。なぜならあの人は私のことをよく批判するんだ。私を馬鹿にしているんだ」と、言われるならそれはよくわかるのです。人間どのような状況であろうがそうなるのが普通です。そこで、人間性というものを超えてほしいんです。馬鹿にされても批判されてもけなされても怒らないこと。それは難しいことですが、「なるほど、そうですか。すみませんでした。これから気をつけます。私の未熟なところを教えていただいて、本当にありがとうございます」と、正直な心で、謙虚な心で言えるならば、その人は普通の人間とは少し違うのではありませんか。

たとえば、男性の場合は、結婚していても、美人が目につくとやっぱり頭の中でいろんな考えが生まれるんですね。「あの人は美人だなあ。あの人もすごくきれいだなあ」とか、「ちょっと話でもしてみようか」とか。それはごく普通です。女性はお怒りになるかもしれませんが、生理学的にそういう遺伝構造なんですね、男性というのは。美しい女性を見ると、すぐちょっかいを出しちゃうんです。それで、ある人はこう考えます。「私は結婚して、家族をもっている。私が自由に遊び回ってしまったらどうなるか。相手の女性の機嫌を取るために色々プレゼントをあげたりものをあげたりしなくちゃならない。そうするとお金がかかる。そのお金は家族の幸福のために使うべきものであって、余計な欲は禁物だ」と。そこで「あの人は美人かもしれないが、自分には関係ありません」と、他人に対して欲の心は作らない。しかしそれはやっぱり、男性なら、がんばらなきゃできないことなんです。ですからその人は、普通の男性よりは高いレベルにいるんです。

そのように、人は、猿から進化してまず人間になって、それから人間性をできるだけ高いレベルにもっていく。その究極のレベルまでレベルアップする方法は、仏教のお釈迦様の教えなんです。特に初期仏教の教えはそういうことなんです。

今まで述べてきたことはほんの一例であってまだまだ色々なことがあるわけですが、心に怒りや憎しみやねたみがわずかにでも生まれないところまで、心を磨いておく。真理がありのまま見えるところまで心を磨いてみる。そして人間や神々を超えて脱世間的な境地まで心を持っていく、それが仏道なんですね。神々を拝むのではなくて乗り越えてしまうのです。梵天など、とても高次元の生命がいるのです。皆さんの分かる言葉で言うと、観音様もいて、お不動様もいる。
私が言うのは「拝むな、乗り越えよ」ということです。「観音様、どうか助けてください」などと、そんな弱い心では人間はだめなんですよ。「よし、私は観音様を乗り越えるんだ」というくらいの力強い生き方が必要なんです。神社を拝まなくても大丈夫、観音様を拝んで「お願いします、お願いします」と懇願しなくても大丈夫だと、そういう強い心を作って欲しいんです。

つまり、大切なことは、「死後、来世はどうなるか」ということではなくて「我々はどう生きているか」ということなのです。人間として生まれたわけですから、その仕事を果たしたかどうかです。仕事を果たさずに死んでしまったとしたら、それはかわいそうなことなんです。良いことになるはずがありません。

人間として生まれたのは、鮭のように生活するためではないはずです。鮭は、川に生まれ、川を下り、海で3年間くらい、無茶苦茶に食べるんですね。結婚もしない、遊びもしない、ただひたすら食べるんです。それで生まれたときはほんの小さなものですけれども、3年経つとかなり巨大になります。そこまで大きくなるまで、食べて食べて、もう食事は終わりましたと、生まれた川に戻るんですね。戻って、必死で川をのぼる。のぼって何をするかといえば卵を産む。産んでどうするのかといえば死ぬ。それだけなんですね。たったそれだけのために生きているんですよ。卵を産んで死ぬためにね。なんて悲しいか、なんてくだらないか、そういう風に見て欲しいんです。美しいというのではなく。

「ああ、美しい。この鮭たちは自分の子孫を残すために我が身を犠牲にしている。愛情があって素晴らしい」なんて、テレビのドキュメンタリーでは取り上げていますが、まったくのデタラメです。嘘ばっかりです。テレビでは、詩的・文学的なテロップ、美しい言葉、美しい音楽とともに流されていますからついだまされてしまいますが、よくよく見なければなりません。鮭は必死で川をのぼっていきますね。途中で怪我をするし、クマに捕らわれるし、ありとあらゆる危険があるんですね。その危険をかいくぐってようやくゴールまでたどり着いた鮭が卵を産む、産んで死ぬわけです。自分の子供の顔さえ見ないんですね。それでその子供が何かやってくれるならいいのですが、その子も同じく、やっぱり川を下り、海へ行って3年間食べて、また川をのぼってまた卵を産む。一体何をやっているのか。それをずーっと繰り返すんです。

人間も同じことですよね。鮭と、何ら変わりはありません。決まったパターンで生まれ、決まったことをして生きる。小学校に行って、中学校に行って、高校に行って。就職して、結婚して、子供を作って、歳をとって、ゲートボールやって死んじゃう。それだけのことで威張っているんですね。「我々は人間だ」と。威張るようなことではありませんよね。鮭と全然変わりがないのですから。鮭と同じように、ゲートボールまででき、寝たきりになって死ぬというところまで行ける人もいるし、途中で落第したり仕事を首になったり、ガンや病気になってそれで終わりという人もいるし、事故やなんかに遭って消えてしまう人もいるし。どこが違うでしょうか、鮭と比べて。

人間には、何か鮭にできないことができるはずなんですね。それをやって生きよう、ということなんです。それは何でしょうか。

愛の心を作ること、怒りを無くすこと、欲を消すこと、心の汚れを断つこと…何度もお話ししてきましたように、いわゆる「解脱」を体験することなんです。生まれてから、パターンどおりに生き、死ぬという、繰り返し繰り返しの人生、そんなくだらないことはやめた方がいい、ということなんです。

ですから、「死んでからどうなるかはわからない」というはっきりした知識に基づいて、そういう生き方を作ることが重要だと思います。

死後の話を話すことはできるのですが、そういう話は皆さん、聞いても「信じる」しかないんです。本当か嘘かを、実証する術がないわけですから。いろんな宗派のいろんな宗教家が、死後のことを述べていますが、実際見た人はいないのですから誰も知らないというのが本当のところでしょう。ですので、第一部では、「死んだらどうなるか」という問いに対する答えは「わからない」ということにしておきたいと思います。

しかしご不満の方もおられるでしょうから、少しお話ししてみますと、「生命が死んだらそこで消えることはない」とだけ申しましょう。皆さまもそのことだけは知っておられるんですね。しかしそのことはうれしいことでしょうか。鮭のように同じことを繰り返し繰り返し生きて死ぬ、それが幸せでしょうか。

ところで死んでも消えないというのはなぜか。お聞きしますが、「死にたい」という方はどこかにおられますか。人生いくら苦しくても死にたいということはないでしょう。ご馳走を目の前にして「いただきます!」というように、「じゃあ私はこれから死にます!」と、気持ちよく死にたい人はひとりもいません。自殺する人も自分でやっていること、生きていることが嫌で嫌でどうしようもなくなって自殺するんです。「楽しいな、死にたいな」と思って死ぬ人はひとりもいないんです。それはものすごいエネルギーなんです。そこに死んでも消えないわけがあります。

鮭は一体誰の命令であんな馬鹿なことをやっているのでしょうか。鮭だけじゃありません。ペンギンは飛べないので、ものすごく長い距離を歩いて餌を探して食べて、卵を温めるんです。そんな苦労をするなら産まなきゃいいのに産むんです。
あれは、何の試練でしょうか。誰の命令でしょうか。どんな衝動でしょうか。

すべて、先ほどお話しした「死にたくない」という衝動がもとにあるのです。それで一生懸命がんばっているのです。のんびり昼寝でもしながら楽に生きていればいいのにそうはできない。すべて生きていくためなんですね。すべての働きは、「死にたくはない」という衝動から来ているんですね。これはすごいエネルギーなんです。

すごいエネルギーを持っていると、エネルギーは何か結果をもたらします。そのまま消えるわけにはいかないのです。それは因果の論なのです。
この息苦しい21世紀の世界を我々が作ったのも、我々が「生きていきたい」と必死でやってきたからなんですね。この「生きていきたい」「死にたくない」という強烈な衝動がある限り我々は止まれない。…そんなサガのなかで生きることについて次回、お話をしたいと思います。(以下次号)