根本仏教講義

11.幸せの分析 1

人生は充実していますか?

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月は新しいテーマでお話を始めましょう。幸せ、ということを考えてみましょう。
まず、仏教ではよく「こころ」という言葉を使います。私達には「こころ」がある。それは何かというと、怒ったり、笑ったり、楽しがったり、食べたがったり、食べたくなくなったり…そういうふうな感情をいっぱい積み重ねている働きのことを「こころ」と言います。何か特別な「こころ」という物体があるわけではないのです。
そんな私達には、幸せに生きて行きたいという希望があります。苦しみはいやですよ、せっかく生きているんだから幸福に生きていたい、そういう思いはどんな生命にもあるのです。

そうだとするならば、我々はちゃんと考えて生きていかなくてはならない。どのように生きていれば私は幸福になれますか、どのように生きていれば不幸になるのですか、という問題は我々の一生の課題であるはずです。自分が死ぬ瞬間まで、どう生きれば幸福であり、どう生きれば不幸なのか、その問題を常に頭において、その瞬間、その瞬間を、幸福になる方向で努力してみる。そうすると余計な問題は消えてしまいます。

幸福に向かって歩かず寄り道を続ける人

しかしみなさんは、それをしようとしないで人生にそれほど影響のないことを、私に聞くのです。人は死んでしまったら生まれ変わりますか。生まれ変わるときは、どこに生まれ変わるのですか。このような質問は、大変多い質問なのです。
誰もが思っている、一番単純な希望、私は幸福になりたい、不幸になりたくない、それは正直な気持ちなのです。たとえ80才になっても、病気になって体がぼろぼろな状態では生きていたくない、人々に悪く思われたくない…そういう気持ちは誰にでもあります。それなら、なぜそれが人生第一番目の課題にならないのでしょうか。輪廻転生はあるのですか、神様はいるのですか、世紀末はいつ来るのですかetc.etc.…
そういうことは、ちょっと自分の道からはずれた余計なこと、寄り道なのです。小学一年生の寄り道みたいなものです。

私はある日小学生を見たのですが、ものすごく可愛いんですね。一年生と二年生のグループが学校から帰ってくるんです。学校は町の中心にあって、みんなのうちは学校のすぐそば、五分も歩けば着くんですね。それに子供達は一時間以上かかっちゃうんですね。あっちにいって何かちょっといじったり、カバンはそこら辺においておいて、あっちからくぐったりこっちからくぐったり。水が流れている溝の葉っぱがたまっているところに行って、葉っぱをとってみたり、とにかく時間のかかることかかること。そこへ私が通りがかったのですから、私も見つかりましてつかまったのです。つかまえて質問はするわ、衣は引っ張るわ、歳は何才かと聞くわ、きりがないんです。そのとき私が考えたのは、この子供達というのは、思う存分寄り道をしてから家に帰りたがっているということなんですね。できるだけ遅くなりたがっているのです。一年生の子供たちがまっすぐ家に帰らないで寄り道するのは、人生を焦る必要がないからです。子供たちは小さいうちは幸せを感じて生きています。大人になってくると、幸せは「おまけ」にはついてこないことに気づくはずですので、より真剣に人生を考えるべきだと思います。寄り道も、一年生なら可愛いですし、問題はないのですけれど。

人間として我々の一番重要な問題というのはどうすれば幸福になるか、どうすれば不幸にならずにすむかということなんですね。しかし、そこは考えようともしないで、一年生のように寄り道ばかりしている。世紀末はあるか、戦争はすべきかどうか、神様はいるかいないか…そういう人生の重大事から目をそむけた寄り道。一番重要な問題を解決した人が、余裕があってこのような寄り道をするのはかまいませんが、このような質問をする人には、あなたにはもっと大事な質問があるのではないですか、と思うのです。私達は、やっぱり自分の気持ちに正直に、どのようにすれば自分が幸福か、どうすれば不幸にならないのか、ということを考えた方がいいのです。それは一生の課題ですし、仏教のテーマとしてもものすごく大きなテーマです。簡単には話せないことなので、ここではポイントだけ申し上げますけれど。

お金があれば幸福か

まず、お金があるからといって幸福にはなりません。マイホームを作ったからといっても幸福にはならない。非常に気に入った結婚相手が見つかったからといっても幸福にならない。立派な会社に就職できたからといって幸福にはならない。そういうことで、人間は幸福にはならないのです。そのような一見幸福に見える状況でも、悩む人は悩むし、困る人は困る。問題を作る人は作る。たとえ、東大に入っても卒業しないで中退する人もいる。せっかく入ったのだから、卒業くらいしなさいと言いたいけれど、それもできなくてやめる人もある。立派な会社に入ってもトラブルを作る人もあれば、気に入った人と結婚しても、うまくいく場合もあるしうまくいかない場合もあるし。
そういうものは幸福の定義ではありません。もしお金があることが幸福ですよと定義したら世の中で金持ちになれる人はひとにぎりしかありません。そうすると、その他大勢は不幸だと言わなくちゃいけない。仕事や学校についてもそうです。立派な大企業に就職している人なんてごく一部です。そいういう人が幸福だと言うなら、不幸な人が大多数になってしまいます。非常に健康な体のあることが幸福だと言うならば、幸福な人々は少数になってしまうのです。

仏教では、すべての生命、すべての人間が幸福になってほしいと考えています。そういう道があればそれが正しい幸福だと考えるのです。
もしある人が、ものすごい金持ちになって、身の回りの世話をしてくれる人がいっぱいいて…という状態が幸福だと考えるなら、その人にお金が入るために、社会からその人にお金が流れて来なくちゃならないんですね。また、この人の身の回りの世話をするために、奥さんや子供や他の人たちが、この人に尽くさなければならない。するとそのまわりの人たちは自分のことは何もできない。すると彼は、自分は幸福なんですが、まわりは不幸なんですね。このような生き方は、他人を不幸にして自分が幸福になるパターンなのです。このような幸福は「罪」であって、あってはならない。ひとりの人が幸福になるために、社会やまわりの人々が不幸になるならば、これは迷惑なのです。そういうのが幸福の定義であってはならないのです。幸福の定義は違うところにあるはずです。
私は幸福である、ゆえに私のまわりの人々も幸福である、そういう幸福を作らなくてはなりません。

幸福とは何か

ここで「幸福」とは何か、ということを考えてみると、簡単にいうならば「充実感」、英語では satisfaction、満足感、いわゆる、私は生きていることに意味があるんだという充実感なのです。それがあれば幸福なのです。
たとえばある人が、暇がなくて朝ごはんも昼ごはんも食べられなかった。お腹がすいていてつらい状態だけど、今やっていることは大事なことで、自分にしかできない仕事だと思い、朝ごはんも昼ごはんも食べられなくてもいいのではないかと思えるような仕事であるならば、そこに充実感というものがあります。

神戸で地震があったときには、みんな必死になって行動したんですね。誰も楽をした人はいません。ボランティアのかたがたも、被災者同士で互いに助け合ったかたがたも、火のなかに飛び込んで人を助けたり、寒いなか、ひとつひとつ瓦礫を取り除いて、埋もれた人を救出したり。そのときその人は、なんで私はこんないやな仕事をしなくちゃいけないのか、と思ったでしょうか。そうは思わなかったでしょう。ごはんもない、寝るところもない、それでもみんな必死になって行動したんですね。そのとき、みんなは、幸福を感じていたはずなのです。自分がやらなくちゃ、と思ってやった。これまで親を無視してわがまま放題に生きて来た子供達が必死になって親を助けたり、人を助けたり。地震は不幸なできごとですが、被災者も他の人たちも、人を助けなくてはならないという生きる充実感ができて、幸福を感じたのです。このように幸福というのは充実感であって、楽をしてのんびりして、贅沢をしているかどうかということではないのです。世界各地で、いろいろな悲惨なできごとが起こっています。雨が降らないとか難民が大量に発生したり、ひどい病気が流行ったり。そういうところに、物質的には恵まれた国々から大勢の人たちが行って手伝っている。病気も見たことのない人たちが、あちこちで人が死んでいるような大地へ出かけて行って、一生懸命治療したり食べ物を配ったりして頑張っている。自分の家で、よく食べて良く寝ていればいいのに、それでも行く。現地では、体もつらいし、自分も病気にかかるかもしれません。でもその人が、これは私がやらなくちゃいけない、私の今の仕事によって生命がわずかでも助けられているんだと思うと、生きている確実な意味が生まれてくるのです。私は一日でも元気でいた方がいい、なぜならこういう人々を助けるのだから。そう思うと、まずお腹いっぱい食べて体力をつけようと思う。そのときはお腹いっぱい食べることは幸福であって、太ったらどうしようとか、ダイエットしなくちゃなんて思わない。今の日本は、あまりに豊かすぎて食べるときも苦労するでしょう。これを食べちゃったらちょっと多すぎるとか、ダイエットしなくちゃとか、そういう感覚は不幸ですね。
そうじゃなくて、生きることには意義があります。私が生きることによって、多くの生命が助けられます。そういうふうな感じで生きられるならば、それは「充実感」があるといえる。

私達に必要なのは、生きる目的です。なぜ、生きていなくてはいけないか、なぜ勉強しなくてはいけないか、なぜ結婚しなくてはいけないか、なぜ子供を作らなくてはいけないか、そういう生きる目的をはっきりさせるとどんどん幸福を感じられるようになるのです。それを今忘れているのです。豊かボケなんです。あまりにも豊かになりすぎて、自分が何となく不幸に感じられる。

今私が説明した幸福というのは、自分が幸福になればなるほど他の人々も幸福になる。だから、自分がごはんを食べる権利がある、体を休ませる権利がある。
たとえば看病している。そうすると、寝なくちゃということがちゃんと出てくるんですよ。ちゃんと寝て体を休ませてあげないと、次の日の仕事ができない。それがはっきりしているとものすごく気持ちよく眠れるのです。寝ることは大変大事だと思えるし、食べるときも、ダイエットのことやいろいろ心配することなく、おいしく食べられるのです。なぜならその場合は食べることはすごく大事なんです。大事に食べて、体力をつけて、そこから充実感を目指して頑張ることができるのですから。そういうふうに人生哲学も変えていった方がいいのです。そこに、幸福というものが生まれてくるのです。(次号に続く)