12.お経に何が書かれているのか 1
お釈迦様が正しい理解について語る
今月から新しい話題に入ります。お釈迦様のお経のひとつを説明したいと考えています。お釈迦様のお話を、昔の形で聞く機会は少ないのですが、テーラワーダ協会の皆さんにとっては日常茶飯事かもしれません。
お釈迦さまがおっしゃった教えとは何なのかといいますと、ものすごく幅広くいろいろなお話をなさっているのです。人が政治のことを問えばそれに答える。家族の問題について質問したら、それに答える。夫婦はどうやって仲良くすればよいかと聞かれれば、また答える。商売しながらも立派な人間として生きていきたいのだがと言えば、それならこうしなさいと答える。さまざまなことを教えておられるのです。私が教えるのはこのひとつだけ、これしか教えませんよ、ということはないのです。
でも何を話しても、人間に幸福の道を教える、ということからははずれていないのです。解脱までの道のりを教える、ということだけはメインテーマで、このテーマがなくなることはありません。今日は私がたまたま選んだひとつのお経についてお話しします。お釈迦さまの性格も見えるお経です。
魔術、呪いはあり得るか
お釈迦さまの時代にヴェーサーリー(Vesālī)という国がありました。この国は、王様の独裁ではなくて国の知識人をみんな集めて政治をやった国なんですね。いわゆるリパブリック、共和国家というのでしょうか。国会のようなものがあって、そこにみんなを集めて審議したりしたのです。その国会のために大変立派な建物がありましたが、そのような行事のないときにはお釈迦さまが使ってもよいということになっていました。そんなわけでお釈迦さまは、その国に行ったときはその建物に泊まっておられたのです。お釈迦さまが来られると、ヴェーサーリーの王様たちも国会の仕事はさておいて説法を聞いたりしました。だいたい三ヵ月くらい滞在するだけなので、国の政治にも支障なくそれほど問題はありませんでした。
お釈迦さまがここに滞在中のあるときのことです。バッディヤ(Bhaddiya)という国会議員のひとりが来てお釈迦さまに挨拶し、こんな風に質問するのです。バッディヤというのはわりあい若い人だと思います。 「私はこういう話を聞きました。お釈迦さまはマジシャンのような人で、何か特別な能力を持っていて、いろいろな人を魔力で自分のところに引き寄せるのだと。何か呪文のようなものを知っていて、来る人、来る人をみんな自分の弟子にしてしまう。それで他宗教の人達もみんなどんどん仏教徒になってしまうという。私はそれが本当なのかどうか知りたいのです。もしそういう能力を持っておられるのなら、それは正しいものなのかどうか知りたい。なぜなら、私は釈迦尊について、根も葉もない作り話を広めたくはないのです。事実無根のぬれぎぬを着せられることは許せない。正しくないことを話して、失礼なことはしたくないのです」
インドという国では、そのようなマジックというのでしょうか、魔術みたいなものが今も昔も信じられているのです。ブラックマジックとかホワイトマジックとかいろいろあって、インド文化と一緒になって根付いているのです。人を呪う呪文、自分のまわりに人を呼び寄せるマジック、そんなものが数限りなくあるのです。ヒンドゥー教関係の王様たちは、国民に愛され尊敬されるためにいろいろな儀式を行うのです。仏教の世界では最初から何の意味もない、非科学的だと否定しているのですが、それでもインド人はそれを捨てたくない。
日本の社会を見ても同様ですね。いくら科学が発達しても、このようなものは意外にも心の深いところで信じているのですね。呪いがあるとか、縁起が悪いとか、人間の心から消えない迷信ですね。でも何の意味もない迷信は迷信なのです。わかりやすく言えば、誰かがあなたの目の前にわら人形を持ってきて、「呪ってやる」と言って人形にくぎを打っても何の意味もないのです。しかしもしあなた自身が気にすれば、自分で自分に呪いをかけることになってしまいます。それはまったく「あなたの」心次第なのです。あなたに呪いをかけようとする相手やその儀式の問題ではなく、あなたの心の問題なのです。心が明るければ、何の問題もありません。
常識どおりに信じるな
さて、バッディヤさんの質問に対するお釈迦さまの答えはこのようなものでした。
「バッディヤ。何かを知ろうとするときにはこのように考えてください。伝統的に、あるいは我々の文化でこれまで信じてきたからと言ってそれが正しいと思う必要はない。あるいは、我が家では、代々伝わってきたからという理由で信じる必要はない。また、(現代でいえば新聞に出た、テレビにも出たなど)ニュースになったというだけで信じる必要はない。さらにはテキストにあるから、聖典にあるからというだけで信じる必要はないのだ」と。
さらにお釈迦さまは続けられます。「理屈が合っている、合理的だ、というだけで信じる必要はない。道義にあっている、論理が成り立っている、というだけで信じる必要もない」
ちょっと例を挙げて考えてみますと、火があると煙が出ますね。そこで、山の上に煙が見えるので山火事である。人は山火事だ山火事だと騒ぎ出す。AといえばBと決めてしまう。そのようなことが多々あるとお釈迦さまはおっしゃるのです。 だからといって信じる必要はないのだと。山を見て火が見えるならもしかすると山火事かもしれませんが、煙を見ただけで山火事かどうかはわからない。法則にあっているから、理屈にあっているからというだけで、信じる必要はまったくないとお釈迦さまはおっしゃいます。
また、人の話す言葉も、そのまま信じることはないとおっしゃいます。世の中には、ものすごく言葉巧みな人が多いのです。とても美しくしゃべるのです。そうするとみんな鵜呑みにして信じてしまうんですね。
私は政治に関係していませんから、どんな国の政治家のはなしもよく聞いています。するとどんな国の政治家も、自分だけが正しくて、他の人は皆とんでもなく悪い、国を裏切るものだというように話すのです。政治家たるもの、どこの国の人であってもどこの党の人であってもとにかく話すことにつけては、大変うまいのです。ですから、この人のいっていることが本当かどうかということが、我々にはなかなか理解できないのです。いろいろな国で、国民がそのような政治家の話を聞いて暴動を起こしたりテロに走ったりしている。政治家が他の政治家をさして「あの人に政治を任せたら大変なことになります」と言って、その人に政権が変わったとしても、別に大した変化は起きない。ですから話を聞いてなるほどと思っても、ちょっと気をつけなさいということなのです。
さらに、お釈迦さまは続けます。自分の意見にぴったり合う、何の躊躇もなく納得できるからといって信じる必要もない。また、当然だろうと思うことも信じる必要はない。たとえば地球は丸いとみんなが言っているので地球は丸いと思っているが、見たことがあるものはほとんどいない。当然だからとものごとを信じるな、とおっしゃいます。
そして最後に、私、つまりお釈迦さまが言うからと言って信じるなとおっしゃいます。お釈迦さまは仏陀であり悟っている人で、どんな国へ行っても尊敬されている人でしたが、それでも「私が言うからと言って、信じる必要はないのだ」とおっしゃるのです。
自分の智慧で理解して行動する
では、どうすればいいのかというと「証拠に基づいて、自分の智慧で理解するならば結構です」。たとえば、このような行いは、不善である、こういうことを実行すると、人間は不幸になって苦しみを味わう、それを続ければ、人間はありとあらゆる苦しみを味わって最終的には大変な目に遭うのだと、自分で理解すれば、その悪いことをやめてください、とおしゃるのです。
さらにお釈迦さまは、質問を続けて行かれます。「バッディヤ。もし人の心に貪り、欲が生まれたら、その欲張りの心は、本人のためになりますか。それとも、本人をおとしめることになりますか」するとバッディヤは、もし貪りの心が生まれて欲におぼれたら、その人のためどころか、その人をダメにしてしまいます、と答えます。
お釈迦さまは、欲におぼれた人はこうするのではないですか、と問います。あまりにも欲がありすぎて、生命を殺す、盗みをする、妻以外の女性を追っかけて邪淫する、うそを言う。それだけではなく、他人にも同様のことを勧める。ものすごく欲深いと、自分が盗むだけでなく、他人にもいっしょにやろうと話を持ちかけたり、貪ることはとてもいいことだと、他人に説教まで始める。そういうことをするとその人々のためになりますか、それとも苦しみを味わいますか、と問われるのです。バッディヤは「苦しみます」と答えます。
次にはお釈迦さまは、怒りのことをおっしゃいます。怒っている人が、ものすごく強烈な怒りを持ったままでいると、その人のためになりますかそれとも苦しみますか。怒りのかたまりになっている人は、また殺生したり、悪いことをしたり、不倫したりする。怒りで不倫することもあるのです。そんな風に生きていて、その人の人生は幸福になるのか、それともならないのか、とバッディヤに問うのです。その人は決して幸福にはならない、とバッディヤは答えます。
お釈迦さまのお話はまだまだ続きます。(次号に続く)