根本仏教講義

21.損得勘定の智慧 6

幸福の見積書

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人に何か物をあげたときには、与えたことの喜びを味わって、充実感を深めることが大切だということを、先月お話しいたしました。 (前号から続きます)

何を、誰に、与えるか

人にものを与えるとき、私たちはさまざまなものを与えることができます。お金を持っている人は、それを必要としている人にあげられますし、知識のある人は、役に立つ情報や知識を教えることができます。電車の中で座席を譲ることも与えることですし、町に落ちているゴミを拾ったり掃除をしたりするなら、それはきれいな環境を与えたことになります。健康な人は献血をすることもできるでしょう。病気で体を動かせない人でも、面倒を見てくれる人に対して優しい言葉や気遣いの言葉をかけることができます。これらはすべて与えることなのです。ですから「与える」という善行為は、裕福な金持ちだけでなく、子供でも、お年寄りでも、健康な人でも、病気の人でも、誰でもできる行為なのです。

次に、それを「誰にあげるか」ということも考えなければなりません。自分が与えたいからといって、むやみに誰にでもあげていいというわけではないのです。たとえば砂糖がたっぷり入った甘いケーキを、糖尿病を患っている人にあげても仕方がないでしょう。相手にとっては大変な迷惑です。それでは与えたことになりません。ですから何を与えるにせよ、相手に必要なもの、役に立つものを与えるべきです。この点に、よく気をつけてください。

与えるものは最大に

それから与えるときには、自分にできる最大のものを与えることが大切です。物惜しみをしてはいけません。たとえば人に何か仕事を頼まれたとしましょう。頼まれるということは自分にできるということですから、そのときはいい加減で中途半端にやったり、手を抜いたりしないで、精一杯のことをやってあげるのです。いちばん良いのは、相手が期待している以上のことを行うことでしょう。そうすれば相手は「あなたに頼んで本当によかった!」と喜んで、満足してくれますし、自分も「役に立ててよかった」と充実感を感じることができるのです。

他方、得るものの方は「適量」でいいのです。最大ではありません。なぜなら「得る」ということは「欲」と同じで際限が無いからです。たとえば、いくらお金が欲しいですかと聞かれると、皆さんはどうお答えになりますか? お金が無いときは一万円でいいと言うかもしれません。しかし一万円が手に入ると、今度は二万円、五万円、十万円、百万円……と、どんどん膨らんでゆくのです。結局いくらあっても「もうちょっと欲しい」と望むことになるでしょう。欲にはきりがありません。止まることなくどんどん膨らんでゆきます。しかし不幸なことに、自分が欲するものをすべて獲得するのは不可能です。また、たとえ獲得しても、それは一時的なものですから存続しません。この「欲しいものが手に入らない」ということから生まれる不満感で、私たちはずっと苦しみ続けるのです。

そこで仏教は「得るものは適量」ということを教えています。無制限に「いくらでも欲しい」と考えるのではなく、「自分が幸せに生きるためにはこのぐらいで充分」という適量を計算し、知っておくことが大事なのです。

慢性的受難症

「受難症」という病気があります。現代医学では未だにこの病気を発見していませんが、お釈迦さまは今から約二千六百年も前に、すでに発見されていました。受難症とは仏教で言う「苦」のことです。なぜ私たちは苦しんでいるのかと言いますと、それは少量しか与えていないのに多くのものを得たいと期待しているからです。ろくに仕事をしていないのに「こんな安い給料ではやっていけない、給料をあげてくれ」とか「昇進させてほしい」と文句を言うでしょう。これは受難症です。こう言う人たちに逆にお聞きしたいのですが、あなたはどのぐらい仕事をしていますか、どのぐらい会社の利益に貢献しているのですか、と。自分は少ししか与えていないのに、会社から多くのものを貰おうと期待しても、それは所詮無理な話です。このような不平不満の性格では、一生、苦しむことになるでしょう。

そこで仏教では、俗世間の考え方とは正反対の「与えるものは最大に、得るものは適量を」ということを教えています。これを実践することによって受難症という苦しみが消滅し、満足という幸福が得られるのです。

足るを知る

ある日、お釈迦さまは出家者に、このように教えられました。「病気になったら比丘たちは薬として牛の尿を飲んでください。それが適量です、満足しなさい。もしどなたかに塗り薬や飲み薬を貰ったなら、あなたは余計に得をしているのです」と。出家者は病気になったとき、名医に診て欲しいとか、良く効く薬が欲しいなど、わがままを言ってはなりません。牛の尿で充分なのです。お釈迦さまがそう教えられたのですから、お釈迦さまに対して敬意を払って飲めば、それで元気になると思います。ただ、医学が発展した日本では化学薬品は山ほどあるのに、牛の尿は手に入らないという状況になっていますが―― 。

それから衣についてお釈迦さまは「その辺に捨ててある布切れの縫い合わせで充分です。それで満足しなさい。もし誰かが布を一枚くれたなら、あなたは大変な得をしています」と言われました。食べものについても「托鉢に出かけたとき、信者さんが残りものや要らないものを鉢に入れてくれたなら、それで充分です。もし食事をつくってくれたなら、あなたは大変な得をしているのです」と。住む処についても「枝や葉を屋根にして、木の下で寝ればそれで充分です。屋根のついた家に住むというのは大変なことです」とおっしゃいました。

要するに、お釈迦さまは「必要最小限の生活で満足しなさい」と教えられているのです。これは在家の方も同じです。私たちが「最小限」という限度を知らないかぎり、受難症という病気は治りません。いくらあっても「足りない」と不満を感じ、苦しむことになるのです。

そこで、最小限のもので満足できるように心を育てたなら、他人からほんの少し何かを貰っただけで、楽しい気分になれるのです。不平不満もたちまち吹っ飛んでしまいます。これで人生を楽に過ごすことができるのです

三.正しい見積書と誤算

幸福の見積書

さて、これまで述べてきたことをまとめながら「幸福の見積書」を作成してみましょう。ポイントは、自分が貰うことでなく、与えることを念頭に置いておくことです。先ず「自分は何を与えることができるか」と考えてください。物でも、お金でも、才能でも、労力による奉仕でも、何でもよいのです。自分が持っているものや出来ることなど、与えられるものを見つけてください。そして次に、それを必要としている人に与えるのです。でたらめに誰にでもあげればいいというわけではありません。相手を選択すべきです。これは誰にとって最大に有効か、役に立つか、ということを考えて、そちらに与えるのです。そして、得るものの方は「適量」というところで満足するのです。これで幸福の見積書は完成です。あとはこれを実践すればいいのです。見積書を作っただけでは幸福になれません。実践を通して初めて私たちは幸福に生きることができるのです。

反対に、幸福の見積書とは逆の行為をしていると、誤算が生じ、苦しみの人生を送ることになります。つまり自分からは何も与えない、貰うことばかり考える、要らないという人に対して一方的に、強引に押しつける、得ているものに満足せず「足りない、足りない」と言って不平不満を抱くことです。

豊かさの悩み

「幸福の見積書」に従って生活していますと、たいていの場合、自分が思っているよりも多くのものが入ってくるものです。つまり仏教的に生きているなら「私は一万円でよかったのに五万円も貰ってしまった、どうしようか」とか「こんなにくれなくてもいいのに」と、貰った給料の一部を返したくなるような、そんな気持ちになるのです。皆さんはこのような豊かさの悩みを味わったことがありますか? 普通は「残業までしたのに一万円しか貰えなかった、やってられない」などと愚痴をこぼすでしょう。これは俗世間の価値観で生きているからです。仏教は、このような不満の状態を逆転させて、満足だけの生き方を教えているのです。そのためには、先ほど作成した「幸福の見積書」を実践することです。

(次号に続きます)