根本仏教講義

21.損得勘定の智慧 7

最高の徳は解脱

アルボムッレ・スマナサーラ長老

(前号から続きます)

四.損を避ける方法

損をしない人生を送るためには、与えることをモットーにすることです。社会に対し、自分は何ができるだろうかと考えて、役に立つように生きるのです。そういう人は当然、社会に必要な人間になるでしょう。必要な人間なら、社会はその人を放っておきません。あなたがいなかったら困ります、と言って生かしてくれるのです。つまり自然に生かされるのです。そうなれば、もう他人と競争する必要もなくなりますし、敵もいなくなりますから、生きることはとても楽になります。ですから自己中心的な欲望を捨てて、皆が幸せでありますようにという慈しみの心を育ててください。慈しみがあれば、絶対に損をして苦しむことはありません。得だけの、徳に満ちた幸福な生き方ができるのです。

五.倒産しない秘訣

お金が欲しい、物が欲しい、地位が欲しい、名誉が欲しいなど、私たちはたいてい何かを求めながら、社会のなかで生きています。しかし人が何かを欲しいと思うとき、それはほとんど自己中心的であり、周りのことは考えていないものです。言い換えるなら、欲しいとばかり思っている人は、周りを軽蔑して侵害しているのです。何かを貰うときは誰から貰うのですか? 相手からでしょう。なのに、その相手を軽蔑していれば貰えるはずがありません。相手つまり社会は、次第にその人を疎んじるようになり、ついには捨ててしまうのです。捨てられたらもう何も貰えません。これで倒産するのです。

そこで倒産する前に、いまの生き方を転換しなければなりません。他人から貰おう、取ろうとするのをやめて、自分が持っているものを皆と分かち合おうという優しい心で生活するのです。そうすれば人生は絶対に倒産しません。これが倒産しない秘訣なのです。

最後に、忘れてはならない重要なポイントをお話いたしましょう。慈しみの心で、幸福に生きることだけが、私たちの最終目標ではありません。輪廻のなかで生存している限り、完全な幸福は得られないのです。生きている間中ずっと「しっかりしなくては」と気を張っていなければなりません。少しでも怠けたり、不注意になれば、足元の土台がガタガタと崩れて、幸福が壊れてしまうのです。これは大変危険なことです。

そこで私たちの最終目標を「心を清らかにして悟りを得ること」と設定しなければなりません。解脱こそが、最高の得であり、究極の幸福なのです。

終わりに

~在家者が豊かに生きるために~

●破滅行為とは?
仏教では、財産を失い、自己破滅につながる行為として、次の六つの項目を挙げています。

①酒や麻薬に溺れること。
酒を飲むと、人は酔っ払って自分の行動や言葉を管理できなくなります。
病気の原因にもなりますし、お金も浪費します。
②夜遅くまで町を遊び回ること。
③踊りや歌、祭りやパーティなどの集会に 熱中すること。
④賭け事をすること。
勝てば相手に怨まれますし、負ければ悔しくなります。
⑤道徳を守らない人や悪影響を与える人たち とつきあうこと。
⑥怠惰に耽ること。

世の中にはこのような破壊行為があることを理解して、損を免れたい人は、これらを避けるべきでしょう。

●財を管理する
在家者は、財の収入と支出によく気をつけて、それを管理するだけでなく、収入の一部を貯金することも、仏教は薦めています。人生では何が起こるかわかりません。事故でけがをしたり、病気で入院したり、災害に遭うかもしれません。このようなことが起こったときのために、あらかじめお金を貯めておくのです。万一、家族や自分に何か起きたときには、貯金をパッと使って借金しないようにするのです。仏教は借金には反対です。借金をしなくても、あるもので満足すればいいと考えているのです。また、貯金をするといっても、お金に執着して、やたらに貯めこむのはよくありません。あくまでも非常時の備えのために、収入の一部だけを貯金するのです。

●見返りを期待しない
「与えるだけ」という最高の徳があります。これは、見返りを求めずに、困っている人や苦しんでいる人を助けることです。たとえば難民キャンプに行って、そこで苦しんでいる人たちに、飲みものや食べもの、医療など、必要なものを施すことがあります。しかし、そこの人たちは何もお返しはくれません。それを承知の上で、なんの見返りも求めずに奉仕することは、素晴らしい模範的な行為です。

しかし私たちはたいてい、このような善い行為をあまりやりたがりません。電車のなかでお年寄りに席を譲るぐらいの些細な行為でも、恥ずかしがったり、躊躇したり、あるいは寝たふりをして無視したり――。ところが昨年、新潟県中越地震が起きたときには、大勢の人たちが「なんとかしなければ」と立ちあがり、義捐金を送ったり、現地でボランティア活動をしたりなど、それぞれが自分にできる形で援助をしました。忘れかけていた「助け合う心」や「思いやりの心」を取り戻したのでしょう。この心が、与えるだけの素晴らしい行為なのです。

しかし、寄付をしたり奉仕活動をする人のなかには「俺がやってあげたんだ」とか「自分は偉い」などと威張ったり高慢になる人が、案外いるものです。それでは心が汚れます。そこで仏教では、行為よりも心を清らかにすることを優先するように、と教えているのです。災害に遭って苦しんでいる人がいたら、正直に、真面目に、純粋な気持ちで「この人たちの苦しみがなくなりますように」「早く町が復旧しますように」と念じて、自分の心を清らかにするのです。病気で苦しんでいる人を見たら「病気が治りますように」「痛みが和らぎますように」などと念じるのです。繰り返し念じることによって、心が少しずつ清らかになってゆきます。自分のことしか考えなかった自己中心的な心が、相手を思いやる優しい心に成長してゆくのです。このように仏教では、何を行うときでも、心を清らかにすることが優先だと考えているのです。

それから経典では、出家者にお布施することも薦めています。出家者たちは世俗の欲望を捨て、経済活動をやめ、在家生活を放棄しています。だからといって怠けているのではありません。人間として最も重要な仕事である「心を清らかにすること」にチャレンジしているのです。お釈迦さまは、悟りを開かれてから涅槃に入るまでの四十五年間、人びとに「偉大なる真理」を説き続けられました。なぜそれができたのかといいますと、在家の方々のお布施があったからです。またお釈迦さまには、大勢の出家の弟子たちがいましたが、彼らを支えたのも在家の信者さんです。出家者が修行をするためには、体を維持しなければなりません。食飲物や身に纏うもの、住む処が必要です。その、生活に必要な衣食住薬を、在家の信者さんがお布施して支えていたのです。そのおかげで、偉大なるお釈迦さまの教えは、二千五百年以上経った今日でも、色褪せることなく、脈々と生き続けています。そして現代に生きる私たちも、当時、お釈迦さまが説かれた真理を実践して、幸福を得ることができるのです。ですから出家者にお布施をすることは、仏教そのものを守る大変尊い行為であり、その徳は、ものすごく高いのです。
(完)

Q&A

(Q) 「善行為をするときは人に知られないようにやりなさい」ということをよく聞きますし、他宗教でもそう教えているようですが、募金などをするときは匿名にしたほうがいいのでしょうか。仏教ではこの点ついてどう考えていますか。

(A) 「人に認められたい、褒められたい」という目的で物を与える場合、それは純粋な与える行為だとは言い難いのです。「私はこれだけのことをやったぞ」と威張って宣伝すると、それはただの商売になります。キリスト教の聖書にも「右手のしていることを左手に知られないようにしなさい」という有名な言葉がありますが、そちらでも商売感覚や宣伝機能を断ち切るために、内緒で与えなさいと教えているのです。

しかし仏教では「○○さんはこんな善いことをしました」と周りの人が宣伝することは認めています。そうすると、それを知った人たちも善い影響を受けて、善い行為をするようになるでしょう。それで「徳」が広がってゆくのです。もし誰も知らないなら「徳を積んだ、良かった」という自分だけの満足で終わりかねません。仏教は、自分だけでなく他人も幸福になりましょうという大きな世界ですから、他人の善行為を皆で分かち合い、喜ぶことも大切に考えているのです。