折々の法話

仏教から見る死(下)

 

V.F.グナラトネ師 訳:出村佳子

 もうひとつ、「死」を理解するのに役立つ法則があります。
それは『有の法則』です。この有(bhava)は、12縁起の支の1つです。
 仏教によると、有の法則は、無常の法則に付随するもので、常に作用し、あらゆるものにあてはまるといいます。
「永遠不滅なものはない。常に変化している」というのが無常の法則であり、他方「絶えず他の何かに成っていく」というのが有の法則です。変化することだけが、無常の性質ではありません。常に次のものに成っていくプロセス ― そのプロセスが長かろうと短かろうと ― でもあるのです。簡単に述べると、成ること以外は何もない、このことを有の法則というのです。

 限りなく成り続けることは、あらゆるものの特性です。小さな植物の芽は、常に大きな木に成りつつあります。次の状態にならない瞬間はありません。

 いかなることも、始まった瞬間で終わりに成ると、Rhys Davids氏が言いました。

 海のそばで、波が揺れ動く様子を観察してみましょう。ある波が、次の波へと溶け込んでいきます。ある波が次の波に成ってゆく。ちょうどこのように、世の中も、次の状態へと成り続けてゆくものだということに気がつきます。

 もしできるなら、芽が花に成長するまで、目をそらさずにじっと観察してみてください。今の瞬間の芽と、次の瞬間の芽、またその次の瞬間の芽の状態に、何か違いを見いだすことができますか? 自分の目の前で、実際に変化が起こっているにもかかわらず、私たちはその変化をまったく認識できないでいるのです。プロセスはとてもゆるやかに、ある状態から次の状態へとかすかに変わっていきます。このことを「有」というのです。

 では、このプロセスを無視して、1日に1回ずつ、芽を観察するとしましょう。そうすると、変化していることがわかります。そしてそのとき私たちは、「プロセス」とか「成っている」という言葉ではなく、「芽」とか「花」という表現を使うのです。

 もしも10年間、休まずに赤ちゃんを見続けるとするなら、その赤ちゃんのどんな変化にも気づかないでしょう。午前10時に生まれた赤ちゃんは、11時、12時にも、まったく同じに見えてしまうのです。どの瞬間にも違いを見ることができません。しかし実際には、ひとつの状態から次の状態へと、少しずつ変わっているのです。絶えず成り続けること、これを「有」といいます。

 では、このプロセスを無視して、1ヶ月に1回ずつだけ、赤ちゃんを見ることにします。そうすると、変化に気づくことができるのです。このとき私たちは、「プロセス」や「成っている」という言葉は使わずに、「赤ちゃん」とか「男の子」という言葉を使うのです。

 時間の経過について観察してみましょう。文法学者は、時間を現在時制・過去時制・未来時制 と区分していますが、そのように実際の時間を、現在・過去・未来 に区分することができるかどうか調べてみてください。

 仏教哲学によれば、「時間とは一連のプロセスであり、どの瞬間も次の瞬間へと消えてゆく。そのようにして連続性が成り立っている。ゆえに、現在から過去、未来から現在の時間の流れに、境界線を引くことは不可能である」とみなしています。

 今、「この瞬間が現在だ」と言っても、それはすぐに過ぎ去っていきます。その言葉をすべて言い終わる前に、もう過去となって消えています。どんな場合でもかならず、現在は過去に、未来は現在に成っていきます。すべてのものは成り続けている。これは普遍的な法則であり、絶えず流れているのです。私たちが「働きの連続性」を理解しそこなったときに、ものごとを「プロセス」や「成っている」ではなく、「実体」としてとらえてしまうのです。

 生物学者によると、人体を構成している全細胞は7年ごとに入れ替わると言いますが、仏教では、それは一瞬一瞬入れ替わるとみています。同じ状態の身体は、二度と存在しないのです。身体とは、原子の流れのことであり、いくつかの種類の構成要素が、瞬間ごとに、生まれては消えていくものなのです。このように体内では、絶えず、死と再生が繰り返されています。つまり、生きているあいだ、瞬間瞬間「死」が起こっているというわけです。

  清浄道論では、次のように説かれています。「究極的な意味で、生命の寿命は極めて短い。たった一心刹那の瞬間しか存続しない。それはちょうど車輪のようなものである。車輪が回転するとき、その一点だけが地面と接触する。それと同じように生命の寿命も、ほんの一心刹那の瞬間しか存続しない。一心刹那が消滅したとき、生命は死滅したと言われるのである」と。

 このように、生のどの瞬間を見ても、死と再生が起こっているのです。それなのになぜ、私たちはある特定の死(現在生の終わりの死)だけを恐れるのでしょう? 無数に死を経験しているというのに、どうしてある瞬間の出来事だけを心配するのでしょうか? それは、「瞬間ごとの死」を理解していないからなのです。その結果、臨終時の死だけを恐れてしまうのです。実際、臨終時の死というのは、次々に起こっている死の、ほんの一こまにすぎないのです。

 成る過程は、現在の生存だけにとどまりません。意識の連続性があるかぎり、次の生存でも何かに成り続けていくのです。死ぬ瞬間の識(cuti-citta)から、新たな生存の結生識(patisandhi-viññâna)が生まれてきます。あるひとつの識が、次の識を生みだすというプロセスは、絶え間なく続いていきます。ただ、それぞれの識が現れる場所が変化するのです。このとき因果の連続性が、距離によって妨げられることはありません。

 「生きること」とは、取ること(執着)と成ること(有)の過程であり、「死ぬこと」とは、取ったものに変化することをいいます。執着は、生きる者の特性でもあります。執着がもとになり「有」が生じているのです。

 では、執着の原因は何でしょうか? 渇きがあるところに、執着があります。渇愛(tanhâ)― 渇き、欲望、願望、生存欲、衝動 ― によって、執着が生まれているのです。渇愛がもたらす業のエネルギーは火事のようなものです。それは常に燃え続け、次から次へと何かを追い求めているのです。そうすることで、渇愛そのものを持続させているのです。つまり渇愛は、それ自身を存続させるために、限りなく何かを探し求めているということです。

 身体が死滅する瞬間には、予期せぬ渇愛のエネルギー、業の残余が、新たな燃料をとらえ、新しい物体を獲得します。こうして「執着」と「有」の果てしない流れが回転していくのです。これが「生きる」ということです。

 私たちが極度に恐れている死(現在生の終わりの瞬間)というものは、単なる次の生存の始まりにすぎません。このことについて、これから吟味してみましょう。

 死にゆく者の身体はひどく衰弱しています。意志の力も弱まり、死ぬ瞬間には、思考を選ぶ力はもはや残っていません。そして今生での行為や過去の生での行為の中で、強烈に印象づけられた重大な出来事の記憶が、死にゆく人の意識に余儀なく現れてきます。強引に浮かんでくるその思考に抵抗する力はもうありません。

 この思考は、臨終の速行(maranâsanna – javana)といわれています。これが滅したあとに、現在有の終わりである死心(cuti-citta)が生じるのです。臨終の速行には3種類あり、それらのうちの1つが現れてきます。

 まず1つめは、自ら積んできた様々な業のうち、特に印象の強い「行為」についての思考が現れてきます。これを業(kamma)といいます。

 2つめは、過去の行為のうち、強烈で印象的な行為をしたときの「象徴」が現れてきます。たとえば、かつて金庫からお金を盗んだことがある場合、その金庫が現れたりします。これを業相(kamma – nimitta)といいます。

 3つめは、自らの過去の行為の結果として、これから生まれ変わる場所を示す「兆し」が現れてきます。たとえば、偉大な慈悲深いことを実践した人には、この世のものではない美しい音楽が聞こえてくるかもしれません。これを趣相(gati- nimitta)といい、次に転生する場所を示す兆候のことをいいます。

 死の予兆として知られるこれらの思考対象を、自分自身で、意識的に選ぶことはできません。この3種類のうち何れか1つが、極めて力強く、鮮やかに、臨終の極にある人の意識に現れてくるのです。そしてその直後に、死心が生じます。死ぬ直前の思考は、それが来世の生を決定することから、最も重要なものであるといえます。それはちょうど寝る直前の思考が、目覚めたときの最初の思考となりうるようなものです。自分の外側の力によって、思考の対象が決定されることはありません。死にゆく人が、いわば、無意識的に行っているのです。

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 先月は、臨終時に、死ぬ者の心に現れてくる死の予兆について説明しました。この臨終の心は、来世の生を決定するという意味で最も重要なものです。

 生きているあいだ、善であろうが悪であろうが、極度に重い行為をした場合、それが今生での最後の心になります。これを重業(garuka kamma)といいます。

 また、日常的に繰り返し行われた行為が、最後の心になることがあります。生活の中で何度も思い出される思考が、臨終時に鮮やかに現れるのです。この習慣的な業のことを、久習業(âcinna kamma)といいます。

 死にゆく者のために僧侶へ衣をお布施したり、そばでお経を唱えることで、死ぬ者の心が清らかになることがあります。この死ぬ間際に為される業のことを、近業(âsanna kamma)といいます。しかし、徳の高い僧侶がお経を唱えているにもかかわらず、死ぬ者の心には、これまでの癖で、悪い思いが浮かんでいることがあります。繰り返し為された悪行の記憶が、意識に押し寄せてくるのです。その場合、それが臨終の心となります。  またこれと逆のことも起こります。生きているあいだ善い行為を積んできたにもかかわらず、臨終のわずかな瞬間に、悪い思いが浮かんでしまう場合です。このとき習慣となっている善い業が、意識に現れている悪い業を阻止することがあります。

 これはコーサラ国のパセナディ王の妻、マッリカー王妃に起きたといわれています。マッリカー王妃は生涯、善い行為を続けてきたのですが、死の瞬間、わずかに為した悪行に対する後悔の念が心に現れてしまったのです。その結果、地獄に生まれ変わり、苦しみを受けました。しかしそれはわずか7日間で終わったのです。善い業の影響によって、つかの間で地獄から脱出できたのでした。

 4種類めの業は、前に述べた3種類の業がないときに現れてきます。無限なる過去のあいだに集積されてきた業の中のいずれか一つが、臨終時に現れてくるのです。これを己作業(katattâkamma)といいます。

 臨終の心が現れた後、その現れた思考対象を所縁として、法則どおりに路心が生じます。これを臨終路の速行(maranâsanna javana vîthi)といいます。完全な認識、または意識作用を司る速行心は、多くの場合7回連続して生じますが、臨終時においては5回しか生じません。ここで死ぬ者は、死の兆候を完全に理解します。この直後に、彼所縁心(tadârammana)が現れ、死の兆候が確認されます。これが、2心刹那生じて滅します。次いで死心が生じ、そして死ぬのです。これが今生での出来事です。

 それでは、来世ではどのようなことが起こるのでしょうか。すでに新しい生命が生まれる条件は揃っています。両親になる男性と女性がいます。以前にも説明しましたが、胎児が生起する条件として、心(識)の要素は欠かせません。この結生識が、得られるべき境遇(たとえば母親の胎内)に現れます。これら3つの要素が結合するとすぐ、母胎で「生」が始まるのです。結生識が生じるとき、時間の隔たりはなく、また意識の流れが途絶えることもありません。つまり、死心が消滅した直後にのみ、別の場所で結生識が生じるということです。しかし、現在の生から来世の生へと流転するものはありません。死心さえも流転しないのです。直前の心が、次の心を生起させるための影響を与えているだけなのです。

 誕生の瞬間には、母胎から分離して個別の存在となり、外界と接触します。外界と接触することによって、有分心(無意識、または潜在意識)の流れから、路心(表面的意識)の流れへと代わるのです。これより先は、次から次へと渇愛につき動かされ、再び行動が始まるのです。こうして渇愛に駆り立てられ、動機づけられて、人生が回転していくのです。

 さて、縁起の法則を理解することで、死に対するアプローチがどのように変わるのでしょうか?

 「存在したいという渇愛に駆られて、生から生へと流転している」という事実を徹底的に納得することができるなら、現在の生も、来世の生も、その後に続く生も、単なる一つの連続的な流れであることに気がつきます。ですから生きることに比べて、死ぬことを悲しむ理由はありません。生と死は同じプロセスの要素です。「生」は執着、または存在欲の流れであり、「死」というものは、執着したものにおける単なる変化です。

 縁起の法則を理解する人は、この輪廻世界の中で、生によって死が、死によって生が引き起こされていることを十分納得しています。ですから死の瞬間、不安でおののくことはありません。生は死であり、死は生にすぎないのですから。

 縁起の法則を理解することで、正しく生きることの重要性を知ることができます。正しく生きることができれば、死ぬことは、今よりもさらに高い次元に転生するための大きな条件となります。このように死の見方が変わってくるのです。

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 『縁起の法則を理解すれば、死に対する見方が変わる』ということを、先月説明しました。正しく死を見る人には、もはや不安や恐怖は存在しないのです。

 死をどのように見るか、すべては見方で決まります。たとえば家には玄関が一つしかないとしましょう。さて、その玄関は入り口ですか、出口ですか? 道路側にいる人にとっては入り口であり、家の中にいる人にとっては出口になります。しかしいずれにしろ同じ一つの玄関にはかわりありません。ただ異なる角度から見ただけなのです。

 Dahlke氏が言っています。『死は生の裏面であり、生は死の表面にすぎない』と。

 実際のところ、生・死とは、絶え間ない欲望の2つの顔といえます。死は、この世を去ることでもあり、また輪廻転生して、新しい家族の一員になることでもあります。

 死か生か、それは見方によるのですが、我々はそのどちらか一方の面しか見ない傾向にあります。死を見る人には生が見えず、生を見る人には死が見えません。結局、生と死を、互いに関連し合う一つのプロセスとして、対等に見ていないのです。

 『死によって生があり、生によって死がある』 と、生・死の2つが密接に連続していることを知らないため、一方(死)なしにもう一方(生)が得られる、と錯覚しているのです。少なくともそう望んでいます。つまり、生きていたいが死にたくないと。

 ですが、これは不可能です。生に執着することは、結局、死にも執着することですから。生の特徴は執着(取)であり、その必然的結果が、縁起の法則に基づき、死ぬことなのです。

 もし死から逃れたいなら、生きることからも離れなければなりません。縁起のプロセスを完全に変えてしまわなければならないのです。これは、しがみつき、取ろうとする渇愛を断ち切ることでのみ可能になります。生に対する愛着を捨てること。生きる上でのさまざまなことに執着すれば、一時的な満足は得られるかもしれません。しかしその愛着したものは、必ず失われ、消えてゆきます。なぜなら、普遍的な真理である縁起の法則とともに、無常の法則が作用しているからです。ですから、喜びの対象は悲しみの対象になってしまうのです。

 ある詩人の言葉に、『この世における甘い喜びとは苦しみを偽装したものにすぎない』とあります。我々もこの詩に同感できることでしょう。

 愛着から生じる喜びは、離別という悲しみに変わってゆく。これは苦しいことではありませんか?心を躍らせて幻覚を追い求めた翌日には、嫌悪を抱いてそれを捨てる。意気揚々とした次の日には、落胆に沈む。うんざりしませんか?

 心が、まるでフットボールのように、あちこちに投げ飛ばされるのをどこまで放っておくのでしょうか?

 執着から離れて、より満たされ、落ち着き、安全に、智慧を持って生きることはできないものでしょうか?

 不幸なことは起こるし、病気にもなります。我々は人生に起こってくる諸々のできごとを変えることはできません。しかし、見方は確実に変えられます。

 ここで、無常の法則と縁起の法則が役に立つのです。これらの法則を理解することで、恐怖や悲しみは、希望や喜びへと変わってゆきます。冷静に人生を見つめ、穏やかに平安に生きる人には、死に対する不安や恐怖はありません。前向きに、恐れず、落ち着いて、安らかに、死という現象に直面できるのです。

 さて、愛する者と死に別れ、その途轍もない悲嘆に打ち克った2人の例を見て見ましょう。最初はパターチャーラー(Patâcârâ)です。

 ある日、夫が蛇にかまれて死にました。パターチャーラーはひどく衰弱し、2人の子供(生まれたばかりの赤ん坊と1歳の子)を抱えて、川を渡るだけの力はありません。そこで上の子をこちらの岸に残したまま、赤ん坊を抱いて水のなかを歩き、なんとか向こう岸までたどり着きました。そちらに赤ん坊を置いて、上の子を連れに戻ろうと川の真ん中まで来たとき、一羽の鷹が急降下し、赤ん坊を一切れの肉とみて、さらっていってしまったのです。それを見たパターチャーラーは、狂ったように両手を振って泣き叫びました。

 ところが一方の岸にいた上の子は、母が自分を呼んでいるものと思い、川に駆け込み、あっという間に激流にのまれて溺死してしまったのです。
 一人ぼっちになったパターチャーラーは、涙を流し嘆きながら、父母のいる実家へと向かいました。

 その途中、両親が住んでいる町の方からやって来た男に出会い、父母と兄弟の消息をたずねてみました。男が言うには、前日の激しい嵐で家が倒れ、両親も兄弟も死んだとのこと。遠くに見える煙を指さして、「今、あなたの両親と兄弟の死体を火葬しているところです」と言いました。

 パターチャーラーは悲しみのあまり気が転倒し、衣服が身体から落ちたことにも気づかずに、裸のまま狂ったようにあちこちをさまよい歩きました。激しい苦痛で心がかき乱されたのです。その苦痛はこの上もなく耐え難いものでした。

 さまよい歩くうち、お釈迦さまのところまで来ました。そしてこれまでの苦境を打ちあけます。お釈迦さまはどのように説かれたのでしょうか?

 「パターチャーラー、落ち着きなさい。汝が夫を亡くし涙を流したのはこれがはじめてではない。また父母や兄弟を亡くし涙を流したのもこれがはじめてではない。この輪廻世界において、今日のように、汝は数えきれないほどの夫、子供、両親、兄弟を亡くし嘆き悲しんだ。その流した涙の量は、4つの海の水の量よりももっと多い」

 お釈迦さまが智慧と慈悲をもって話されると、パターチャーラーの悲嘆はしだいに薄らいでゆき、最終的にすべて消え去りました。

 この説法によって、パターチャーラーは悟りの最初の段階である預流果に達したのです。

 さて、パターチャーラーの心から悲嘆が消え去ったのはなぜでしょうか?
 それは『死の普遍性』に鋭く目が覚めたからです。この輪廻世界の中で、無数に生を受けてきたこと、幾度となく死別の苦しみに出会ってきたこと、そして死は常に起こるものだということを悟ったのです。

 このようにパターチャーラーは、自らが、無始なる過去から数限りなく愛する者と死別してきたことを知って、死の普遍性を悟りました。

 一方キサーゴータミー(Kisâ Gotamî)は、現在、自分のまわりの人々に起きている数えきれないほどの死別を知ることで、悟りを得たのです。

 キサーゴ-タミーのたった一人の子供が死にました。悲しみのあまり、子供の亡骸を抱きしめたまま離そうともせず、火葬しようともしません。これが愛する者を亡くしたはじめての経験だったのです。

 死んだ子をしっかりと抱いたまま、「この子を生き返らせる薬はありませんか」と、家から家へとたずね歩きました。
 お釈迦さまにもたずねてみました。すると、「芥子の粒をひとつまみ貰ってきなさい。ただし、一度も死人を出したことのない家からに限ります」と言われたのです。

 キサーゴータミーは、これで愛児が生き返ると思い、さっそく探しに行きました。芥子の粒など簡単に手に入ると思ったのです。

 最初に訪れた家で芥子の粒はもらえました。しかし、「この家で死人を出したことがありますか?」とたずねると、「何をおっしゃるのですか? 生きている人よりも、死んだ人の数の方が多いですよ」と言われました。

 となりの家でたずねると、そこでも死人を出しているとのこと。何軒もの家をたずねましたが、どの家でも父、息子、親戚、友人など、誰かが死んだと言われたのです。

 日が暮れました。キサーゴータミーは希望を失い疲れ果てました。どの家からも『死』という言葉が返ってきたのです。そして、死はすべての生命にやってくる、ということを悟ったのでした。森へ行って子供の死体を埋葬したあと、お釈迦さまのもとへ戻り、このように告げました。

 「愛する者と死に別れ、苦しんでいるのは自分一人だけだと思っていました。でも、どの家でも死人を出していることに気づきました。死んだ人は、生きている人の数よりも多いのです」と。

 キサーゴータミーは、悲しみを克服しただけではなく、お釈迦さまの説法が終わると、預流果の悟りに達しました。 (次号に続く)

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先月は、パターチャーラーとキサーゴータミーが、それぞれ愛する者を亡くし、その悲嘆をいかにして乗り越えたか、という話しを紹介しました。

 今月は、田舎で暮らし、農業によって生計を営んでいた、ある農夫(ボーディサッタの前生)の例を見てみましょう。これはジャータカ物語・蛇前生物語に記されています。

 この農夫は、怠ることなく『死の念』を実践していました。『死はいつでも起こりうる』と、常に心に念じていたのです。ふつう我々は、死に向き合いたいとは思わないものです。農夫自らが死の観察を習慣にしていただけでなく、家の者たちにも、死を念じるようにすすめていました。

 ある日、息子といっしょに畑を耕していたときのこと。息子が蛇にかまれてその場で死んでしまいました。しかし父親は微塵も混乱しません。泣くことも嘆くこともなく、死体を木の根元まで運び、その上に上着をかぶせました。そして静かな心のまま、ふたたび畑を耕しはじめたのです。

 しばらくして、畑のそばを通りかかった人に、家の者へことづけを頼みました。昼食は二人分ではなく一人分だけ、それから香と花を持って来るようにと。

 その伝言が家に届けられたとき、妻は、息子が死んだことを察知しました。しかし嘆き悲しむことはありません。娘も、息子の嫁も、召使いも悲しみませんでした。

 父親の伝言どおり、香と花を持って、家の者全員で畑へ向かいました。そしてとても簡素に火葬をはじめたのです。このとき誰一人、悲しみで涙を流す者はいませんでした。

 神々の王、サッカが地上に降りてきました。そして炎の周りに立っている家族に、「動物の肉でも焼いているのですか?」と尋ねました。

 「動物ではありません、我々の息子です」と家の者が答えると、

 「それなら、あなた方は息子のことを大切に思っていなかったのでしょう」と、サッカ王が言いました。

 「とてもかわいい息子でした。」父親が答えると、

 「それでは」と、サッカ王が尋ねました。
 「なぜ、涙を流していないのですか?」

 父親は、次のような詩をもって答えました。
 『人は生の感受を失い、この世の肉体を捨ててゆく。あたかも蛇が古い皮を脱ぎ捨てゆくように。我々の嘆き悲しみは亡骸には知りえない。それゆえ私は悲しまない。息子は行くべき世界に行くだけである』と。

 死んだ息子の母親にも同じことを尋ねました。
母親はこのように答えました。
 『呼びもしないのにここに来て、告げもせずに去っていった。勝手に来ては勝手に去りゆく。それに嘆く理由があろうか?
 我々の嘆き悲しみは亡骸には知りえない。それゆえ私は悲しまない。息子は行くべき世界に行くだけである』と。

 「妹さんはお兄さんをとても尊敬していたでしょう。なぜ涙を流さないのですか?」 サッカ王は死んだ息子の妹に尋ねました。

妹はこのように答えました。
 『何も食べずに泣いていても、私には何の利益もない。親類縁者や友人たちに、さらに悲しい思いをさせるだけ。我々の嘆き悲しみは亡骸には知りえない。それゆえ私は悲しまない。兄は行くべき世界に行くだけである』と。

 そしてサッカ王は死んだ息子の妻に、なぜ泣かないのかを尋ねました。

妻は答えました。
 『子供が夜空に浮かぶ月をせがんで泣くように、人は愛する者を亡くして無益に嘆く。我々の嘆き悲しみは亡骸には知りえない。それゆえ私は悲しまない。夫は行くべき世界に行くだけである』と。

 最後にサッカ王は召使いに、なぜ泣かないのかを尋ねました。
召使いは、「ご主人様に厳しく扱われたことは一度もありません。とても慈悲深い方で、わが子のように私に接してくださいました」と言い、『地面に落ちて砕けた水瓶がもう元には戻らぬように、死者を思い悲しむことは無駄なこと。我々の嘆き悲しみは亡骸には知りえない。それゆえ私は悲しまない。ご主人様は行くべき世界に行くだけである』と。   (完)