あなたとの対話(Q&A)

先祖供養と霊のはなし

パティパダー2010年9月号(157)

守護霊、霊は存在しますか?
・亡くなった方は、お寺さんに戒名をつけてもらい、お経あげしてもらわないと成仏できないのでしょうか?
・ご先祖様は子孫を見守ってくれるのでしょうか? お経あげしてあげないといけないのでしょうか? お供物は受け取れるのでしょうか?
・先祖供養は本来どういう風にすればよいのでしょうか?

守護霊、霊は存在しますか?

仮に霊が存在するとしても、人を追って勝手に守るほどのヒマ人なのでしょうか? 人間の例で考えれば、ヒマ人とは仕事のできない、役に立たない人物なのです。ヒマ人の霊に守られても、役に立たないですし、面白くないでしょう。自分の人生は自分で守るものです。
 
 霊は存在しないと断言できません。しかし霊能力者などが語る霊の話も、あまりにもウサン臭くて信頼できないのです。生命は解脱に達するまで、輪廻転生するのです。生命の次元がたくさんあるのです。ですから日本で言う「霊」に似ている生命の次元もあります。それは仏教で、餓鬼道(がきどう)と言うのです。地球上に生命がいると、ひとことで言っても、多種多様なのです。科学者はいまだに地球に住んでいるすべての生命のことを把握していないのです。同じく、餓鬼道と言ってもひとつの次元で、そちらに住んでいる霊は多種多様なのです。
 
 放っておいたほうがいいでしょう。例えば、森にクマが住んでいるとします。放っておけば良いでしょう。自分の家にクマが入らないように、自分で気をつけることです。基本的に霊は人間に邪魔しないのです。邪魔したくなっても、ほとんど無理なのです。愚かな人間が熊のなわばりに入り込んで攻撃を受けても、それは熊のせいではないでしょう。嫉妬、怒り、憎しみ、後悔、我儘などの感情で心が汚れている場合は、同類の霊が仲間だと思うかも知れません。一緒に嫉妬しましょう、怒りましょう、憎みましょう、悩みましょう、という波動を出す可能性もあります。それにしても、それもその人間のせいなのです。霊の祟りだと、霊に濡れ衣を着せることは止めましょう。

亡くなった方は、お寺さんに戒名をつけてもらい、お経あげしてもらわないと成仏できないのでしょうか

成仏とは、日本人だけが考える概念です。外国で死ぬ外国人は、どうなるのでしょうか? 日本のお坊さんがいて、お経をあげて戒名を付けないから、成仏できなくて霊になって、生きている人を虐めるようになっているのでしょうか? それなら、外国では霊たちがうじゃうじゃ居ることになるでしょう。そんな話は聞いたことがありません。イギリス人にはキリスト教を導入する以前からも、妖精、悪霊などの迷信があったのです。いまだに現実に目が覚めていないから、イギリスでは霊が出ると大騒ぎしている家などがいっぱいあるのです。アメリカ人も、結局はイギリス人の流れなので、霊やお化けなどを信じる人がいるのです。イギリス人もアメリカ人も、ただの人間なのです。迷信に縛られているのです。
 
 すべての生命は、輪廻転生するのです。死ぬ間際の心の力に適したどこかに転生するのです。輪廻転生を止めたければ、解脱に達するしかないのです。日本であろうが、外国であろうが、人間であろうが、他の生命であろうが、法則は皆に同じです。自分の行いによって、また、心の状況によって、死後の転生が決められてしまうのです。
 
 死体の前でお経をあげても、聞こえないと思います。生きている間は仏教にまったく興味がなかった人の遺体の前で、意味不明のお経をあげても理解しないに決まっているのです。もし仏教を嫌いな人が亡くなって、葬式の時、霊になってそばにいると仮定しましょう。その霊は、誰が自分を見送りに来ているのかと興味があるかも知れません。しかし、自分が嫌いな仏教のお経をあげているのを聞いたら、嫌になって腹を立てる可能性もあります。葬式でお経をあげること、戒名をつけることなどは、日本人が長きにわたって行なってきた、亡くなられた人々を見送る習慣なのです。日本人の文化・習慣を守ることは、悪いことではないのです。しかし、成仏できる、という考えは間違いなのです。大乗仏教のどんな宗派でも、死んだら成仏できるという考えはないのです。もちろん、初期仏教にもないのです。一般人が作った考えです。その思考は、霊能者たちの餌場になっているのです。

ご先祖様は子孫を見守ってくれるのでしょうか? お経あげしてあげないといけないのでしょうか? お供物は受け取れるのでしょうか?

まず、ご先祖は子孫を守ってあげることはあるとしても、祟りはあり得ません。現実的に生きている時も、祖父祖母にも両親にも、自分の孫や自分の子供を守ることは、大変難しいのです。死んで霊になって守るというのは、論理的には成り立たない話です。しかし、祖父祖母、父母は、自分のことをよく心配してくれたのです。必死で自分を守り育ててくれたのです。知らないことを教えてくれたのです。困っていたときには慰めてくれたのです。善いこと、悪いことの区別を教えてくれたのです。自分が一人で頑張るとき、喜んでくれたのです。応援してくれたのです。それで充分ではないでしょうか。ですから、亡くなられた先祖、両親に対して、つねに感謝の気持ちを抱きましょう。

 文化的に、お仏壇、お墓などがあってもよいのです。(無くても悪いわけではないのです。)お墓の前にお供え物をすれば、人々が先祖供養しているのだと理解するだけです。先祖はそれを食べません。お墓が汚れるので、早く片付けてください。

先祖供養は本来どういう風にすればよいのでしょうか?

輪廻転生する場合は、業が決定権を持っているのです。悪業は心を暗くする行為です。善業は心を明るくする行為です。生命は誰であっても、業によって転生するのです。人間は亡くなられた親しい人々のことを忘れたくはないのです。亡くなったことも悲しいし、寂しいのです。できることならば、何とかしてあげたいという気持ちになるのです。これが人類共通の気持ちなので、様々な形で世界の人間は葬式儀礼などを行うのです。仏教徒だけが先祖供養するのだとは、言えるものではありません。一神教のヒンドゥー教も先祖供養するのです。しかし、一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、先祖供養をしないような気がします。あの人々は、最後の審判まで待っているようです。それは勝手に待てばいいでしょう。
 
 人間なら、先祖供養したい気持ちになる。それは亡くなられた方々に対する愛情、感謝の表現でもあります。「親父が死んじゃって、土になりました。知ったことではありません」と忘れてしまうよりは、高く評価すべきよい性格です。ですから、お釈迦様も先祖供養の正しいやり方を教えてあげることになったのです。輪廻転生の決定権は業が握っているので、それは変えられません。お釈迦さまは、先祖を偲んで善行為をして、功徳を積んで、廻向(えこう)しなさい、と説かれたのです。先祖が廻向を受けたいと思っているならば、たちまち幸福になるのです。もし自分が偲ぶ先祖が廻向を受けられない次元に転生しているならば、その廻向は届かないのです。その場合は、その功徳は別な先祖に届くのです。無始なる過去から、人は輪廻転生しているので、先祖も無数にいるのです。ですから、善行為をして、功徳を積んで、廻向すると、それを受けて幸福になる先祖が必ずいるので、先祖供養は無駄な行為になるかも知れませんと思う必要はないと、お釈迦さまはジャーヌッソーニ・バラモンに説かれたのです(増支部経典ジャーヌッソーニ章)。
 
 自分にできる範囲の善行為をしてください。おおげさなことではありません。自分の心が明るくなる行為、良識的な人々が賛成する行為、人々や他の生命の役に立つ行為、すべて善行為なのです。金がかかることだけが善行為ではありません。金がかかっているにもかかわらず、善行為にならない行為もあります。
 
 このように善行為をして、「この功徳が先祖に届きますように。先祖が幸福でありますように」と唱えてください。それで廻向の儀式は完了です。どこで行っても、どんな時に行っても構いません。毎日、何かの善行為をして、毎日、廻向しても構いません。そのようにするならば、先祖供養は毎日、行うこともできるのです。
 
 功徳の中で、最高な功徳は冥想を実践することです。その冥想の中でも、『慈悲の冥想』は誰にでもすぐ始められるので、ぜひ実践してみてください。