あなたとの対話(Q&A)

離欲と慈悲/少欲知足と人間関係/嫌悪と厭離の区別

パティパダー2012年10月号(182)

離欲と慈悲

「離欲」と「慈悲」の心は関連していますか?

物質さえも互いに関係があって成り立っているので、精神的なことになれば当たり前だと想います。関係とは、ただ仲良くすることだけではありません。敵対関係もあります。精神の場合は、悪を犯していた人が反省して悪を犯さない人間になったり、反対に良いことばかりしていた人がストレスを溜めて悪を犯したりということもあります。これも敵対関係です。ですから、離欲と慈悲も関係があります。
 
 しかし、離欲はとてもレベルの高い精神状態です。「病気だから、身体が衰退したから、世間的な遊びをやめました。欲から離れました」と言われても、それは離欲だと判断するのは難しいのです。心の欲を戒めるために、欲を刺激するものから意図的に離れることが、離欲なのです。

 自分の役に立つならば、自分が可愛いと思うならば、その生命に対して慈しみを抱く、という場合は、大した慈しみにはなりません。自分は他の生命に何も期待しないで、見返りは一切期待しないで、「幸福でありますように」と思うときは、ある程度で離欲も入っている慈悲の実践になるのです。以前よりも優れた慈悲なのです。逆に慈悲の実践を始めて、徐々に心が成長していくと、離欲の状態に達することもあり得るのです。

 慈悲の実践で、エゴという錯覚を戒めます。エゴとは、離欲の正反対です。自分に対して強欲なのです。たくさんものごとを他人に期待するのです。慈悲の実践でエゴの錯覚が薄くなっていくのです。冥想に成功したら、自我の錯覚がなくなるのです。ということは、強欲の自分が離欲の精神に変わった、ということです。というわけで、慈悲の心と離欲は深い関係にあるのです。


少欲知足と人間関係

「少欲知足」の実践の対象として、人間関係も該当しますか?

確実に関係があるとも、まったく関係がないとも、言えないのです。これは分析して理解しなくてはいけない問題です。

 まず、少欲知足とは、ある特定の精神状態だと理解してください。自分のこころの問題です。自分のこころが多欲と不満で汚れているのです。堕落していくのです。悪行為をするのです。苦しみを感じているのです。財産をいっぱい貯めても、遊びたいほうだい遊んでも、多欲が満たされることはあり得ないと理解します。欲に欲を与えれば与えるほど、さらに欲が増えるだけだと理解することです。いくら金が入っても、金銭欲は無くなりません。ですからこれは、金の問題ではなく、自分のこころの問題であると理解するのです。少欲知足を実践して、精神的な安らぎに達するのです。従って、少欲知足には、人間関係は絡まないのです。

 多欲・不満の精神で生きていた自分の生き方のせいで、たくさんの人々に迷惑をかけたことがあるとしましょう。人間関係が危うい状態になっていたとしましょう。他人も自分から逃げることばかり考えていたとしましょう。多欲者なので、仲間からも非難を受けていたとしましょう。そこでその人が、少欲知足を実践します。性格が穏やかになります。その結果として、人間関係がスムーズに進むようになり、皆に慕われる人間になるのです。このような場合は、少欲知足と人間関係はつながっています。たくさんの人々とつながっていること、毎日、仲間とわいわいと遊ぶことに耽っていた多欲者がいたとしましょう。その人が少欲知足を実践すると、たくさんの人々とさまざまな関係を結ぶことを控えるのです。この場合は、社交的であった人が、主に一人で生活する人間に変わったのです。これも少欲知足に関わる人間関係なのです。


嫌悪と厭離の区別

物事に対しての「嫌悪」と「厭離」は感覚的には似ている所もあるように感じます。このふたつをどのように区分けすればいいのでしょうか?

嫌悪は煩悩から生まれる衝動です。厭離は智慧から起る衝動です。嫌悪する人は悩み、苦しむのです。厭離の人は安らぎを感じる。推測だけをしてみると似ているように感じますが、まったく違う心の働きです。

 嫌悪は怒りの感情の変形です。ものごとは嫌だ、キライだ、などと思うことです。ですから、同時に慈悲などが生まれるはずもないのです。自分以外のことに激しい嫌悪感を持つと、犯罪者になってしまう可能性もあります。自分に対して激しく嫌悪感を持ち続けると、自殺してしまう可能性もあります。

 厭離とは、「一切のものごとは執着に値しない」という智慧から現れるこころの変化です。智慧の程度によって、厭離の程度も変わります。一切の現象は無常・苦・無我であると正しく知っている人に、完全な厭離の変化が起こるのです。要するに、解脱に達するのです。ブッダの教えを学んで、ある程度で真理を知っている人には、その程度に合わせた厭離が起こるでしょう。

 真理を学んだからといって、必然的に厭離が生じるわけではないのです。「ものごとに執着すると苦が生じるので、厭離の気持ちにならなくては!」と、自分を戒めなくてはいけないのです。時々、冥想実践は進んでいるのに、集中力も進んでいるのに、心が解脱しないという問題を抱えている実践者もいます。この実践者たちは、無常であると知っているのに、厭離の方にこころを傾けていないのです。厭離の気持ちは、解脱への鍵です。気づきの実践(ヴィパッサナー冥想)をおこなう時は、最初から「何が起きても一切を放っておきます」という基準で実践するでしょう? それは厭離の能力が現れるためなのです。