「お酒はほどほどに」は成り立つのか?/なぜ十悪のリストに「飲酒」が入っていないのか?
パティパダー2015年7月号(213)
「お酒はほどほどに」は成り立つのか?
五戒のひとつに「お酒を飲まない」ということがありますが、お酒をまったく飲まないということでしょうか? 酔わないくらいの適度なら飲んでもいいということなのでしょうか?
「テキトー、そこそこ」では生きられない
まず、私に適度のお酒という意味を教えてください。酔わないくらいの量とはどれぐらいでしょうか?
うーん、わかりません。
そうでしょうね。私が言いたいのは、そういうことです。私たちは曖昧で中途半端で生きています。しかし、実際には曖昧・中途半端では生きていられません。天ぷらを揚げる場合は、具材が温まればいいということではいけません。カラッと揚がる温度がしっかりとあるのです。具材を放り投げて、気づいたら取り出すということはしません。天ぷらを揚げることも、結構精密にやらなければいけないのです。ですから、私たちは家でお母さんが作る天ぷらより、お店でプロが作る天ぷらの方が美味しいと感じるのです。
また、車を運転するときでもテキトーでいいですか? いいえ、しっかりと運転しなければいけません。ですから、人生も曖昧・中途半端ではなく、しっかり明確に行わなくてはいけないのです。ここで理解してほしいことは、人生にテキトーとか、そこそこということは成り立たない、ということです。
私たちは毎日、しっかりと生きていくのです。例えば、薬の服用がテキトーとか、治療の注射はテキトーとか、そんなことはないでしょう。医者が注射をするにしても、薬の量は世界的に決まっているのですが、本当は自分の体重を測って、どれぐらいの細胞を持っているのか計算して、きっちりと量を決めなくてはいけません。
「テキトー、そこそこ」と誤魔化しているものを、はっきりさせないといけません。質問の答えとしては直接的な回答ではないかもしれませんが、「人生をどう生きるべきか?」ということを、お釈迦さまがしっかりと教えています。世の中は曖昧でいい加減で「こうではないか?」「こうだと思います」というように生きているでしょう。ですから、ぐちゃぐちゃになっているのです。なにひとつ真面目ではありません。真面目でなければ、上手くいくはずがありません。
しっかり行動すると、はっきり結果が出る
ですから、しっかり行動すると、はっきり結果が出るのです。そうすると世の中から失望ということが消えます。例えば、世の中は平和がいいでしょう。しかし、世の中に平和がありますか? 面白い現象でしょう。平和が嫌いな人間を探してもいないのです。すべての人類は平和が好きで、平和のために生きている。平和を期待している。平和になるために何でもする。ですが、歴史上一度たりとも平和な世界はなかったのです。これは、どういうことでしょうか?
なんでもいい加減、テキトーでしょう。だから、平和がないのです。ブッダの教えを聞いてみてください。すぐに世界が丸ごと平和になります。人類だけではなく、地球に棲んでいるすべての生命が平和になります。お釈迦さまは、きちんと教えています。個人が「オレは偉い」と自我を張るのです。それが問題です。ですから、個人の個性、個人が個人であることをしっかりと守りつつ、自我を張らないことが平和の道なのです。
あなたには個人として生きる権利がある、私は個人として生きる権利がある。私はあなたの生きる権利は侵害しませんし、あなたも私が生きる権利を侵害しません。そして、私は私の個性を守って楽に生きられるように、あなたは協力してほしい。私もあなたの個性を守って成長して生きられるように何か協力できることがあればしてあげる。そうすると生き方は、はっきりしています。それが平和な生き方なのです。政治も要りませんし、経済学も宗教も何も要りません。神様や信仰も何ひとつも要りません。人間一人ひとりが自分の命に責任を持って生きるだけです。
そのように、しっかりと生きて、誰でも期待・希望する幸福を目指して生きる道をお釈迦さまは教えているのです。それで幸福とは何かと言うと、また自我を張るのです。自我で決める幸福は幸福ではなくて破壊なのです。ということで、「テキトー、そこそこ」ということを人生全体に対して止めてください。
例えば、料理で塩を入れる場合、その時の気分でテキトーに入れますか? 今日はいい気分だから大さじ4杯入れるぞとか、今日は機嫌が悪いから塩の容器をそのまま投げ入れるとか、それではダメですね。料理によってきちんと塩の量があるのです。そういうことで、料理を作るときにでもテキトーではいけません。
そのように身近で些細なことからでもテキトーということを止めて、適度を保ってみればどうでしょうか。歯を磨くこと、お風呂に入ること、洗濯することなど、何からなにまで適度を知ってやってみれば頭がよくなります。
酒は人間が幸福になる能力を奪う
次に酒の問題についてです。酒というのは、人間が幸福になる能力を奪うものなのです。酒(アルコール成分)は細胞に対して毒です。幸せになりたくて酒を飲んでいるつもりでしょう? しかし、毒を飲んでいるのです。飲んだ途端に死んでしまうものだけが毒ではありませんよ。飲んですぐ死んでしまう毒だったら苦しみは少ないのですが、ジワジワと細胞を壊して、健康を壊して、脳細胞を壊してしまうものなのです。それはあまりにも残酷なことです。
仏教でなぜ酒を禁止しているのかというと、理性を失うからなのです。正しい判断が出来なくなるからなのです。特に直接、脳細胞を侵すからなのです。「人間にとって宝物とはなにか?」と質問されたお釈迦さまは、「人間にとって唯一の宝物は智慧である」と答えたのです。皆様には智慧がない。智慧というのは、仏教を学んで修行して、精神的・人格的に向上するときの味方なのです。我々に今あるのは知識なのです。ですから、その知識を壊してどうなるのですか。生きていられなくなるでしょう。
生命には生きるために何か武器(能力)がついているのです。ですから、蛇の毒は蛇の能力なのです。馬も鹿もライオンも、それぞれの能力を持って生まれてきて生きているのです。人間はどんな能力を持って生まれるのかというと知識なのです。酒を飲むということは、その生きるための知識という能力を壊しましょうということなのです。
脳を開発する場合、酒は毒です。仏道は人間が持っている知識という能力ではダメで、しっかりと智慧が現れるように頑張ってくださいと言っている。知識からスタートして智慧が現れるまで人間を進化させるのです。その途中で物質的なもので障害になるのが酒なのです。仏教は「酒・麻薬は止めてください」とそれだけです。
酒を飲むか飲まないかということは、それは個人の自由でいいのです。仏教では飲むとどうなるのかということを説明しているのです。たとえ日本社会が酒を飲む社会であるからといっても、真理を変えることはできません。真理とは法則です。例えば、ある個人が気に入らないからといって、地球の自転スピードを変えることはできません。好き嫌いに関係なく、地球は地球のスピードで自転するのです。地震が怖いからといって、地震を止めましょうということはできません。地震は自然法則で起こるのです。ですから、自分で地震から身を守ればいいのです。
依存させるものは解脱の敵
法則を変えることは不可能です。私たちは法則に自分の生き方を合わせなくてはいけないのです。細胞を持って生まれてきたならば、酒は細胞の機能を低下させて壊す。だったら仕方がありません。文化的にどんな習慣があったとしても、それは法則違反になります。それで止めなくてはいけないということになるのです。しかし、仏教では個人の自由を認めますから、酒を飲むか飲まないかは個人で判断しなくてはいけないのです。
酒が毒であれば、毒をどの程度で飲めばいいのか? という質問になります。一般的に「酒は百薬の長」と言われているそうですが、それはまったく仏説ではありません。世の中のことは理性に基づいて判断してください。酒のアルコールもそうですが、中毒になるものは何であっても良くないのです。物質的に病みつきになるものは何であれ良くありません。
人間の生き方が間違っていて、正しい道があるのにその道を選ばないから、いろいろなトラブルがあるのです。会社で上手くいかないからストレスが溜まって酒を飲むことになる。だったら、会社で上手くいくように、もう少し知恵を働かせ、頭を使えばいいのではないでしょうか。会社の人間関係でくじけて「もう嫌だ」と言って、それで酒を飲んで更に自分を壊すことではなくて、どのようにして滑らかな人間関係を築くのか、いろいろと考えて決めてみればいいでしょう。それは自分の宿題です。
会社の人を皆しつけすることはできません。一人ひとりに個性があるのですからね。ですから、一人ひとり違う個性の中で、私は私の個性で、他の人の個性と私がぶつからないように、くじけないように、上手く生きるように、自分自身をどうやってプロデュースすればいいのかということは、これは自分の宿題なのです。それをやっていないのです。ですから、世の中はトラブルばかりです。
ですから、酒の量にしてもテキトーということは成り立たないのです。なぜかというと、毒・危険というものは、「少しならいい」というわけにはいかないからです。酒は肉体だけではなく精神にも影響を与えるのです。依存することにもなります。依存するものは良くないのです。依存するのはなぜ悪いのかということ、依存とは自立の反対だからです。仏教の解脱の意味は何でしょうか。完全たる自由です。完全たる自由を目指すならば、依存は一番の敵なのです。
私は強引に「酒を止めなさい」と言っているわけではありません。個人個人がどのように生きるかということは、それは個人が判断するものです。その判断を助けてあげるのがお釈迦さまの智慧なのです。今お釈迦さまはいませんから、その代わりに教えを紹介しているのです。判断するためにはデータが必要です。仏教はそのデータを与えているのです。
なぜ十悪のリストに「飲酒」が入っていないのか?
五戒の中には「お酒を飲まない」ということがありますが、十悪のリストの中には「お酒を飲まない」ということが入っていません。それは、なぜなのでしょうか?
十悪は生命の法則
十悪というのは、生命の法則を語っているものです。生命の法則としての悪は心にあるものなのです。善悪は心の問題なのです。物質的なモノに善悪があるわけではありません。心というのは、すべての生命に似ているような働きがあります。それで心が悪になると言えば、どんなものなのかと十悪で教えているのです。
心というのは、体の行為・言葉・思考で発見するものなのです。心そのものを発見することは一般人には難しい。それはヴィパッサナー冥想をしなくてはできません。それで自分に心があるということは、行動していると心が行動させている。しゃべっていると心がしゃべらせている。考えていると心が考えさせている。そのように、すべての生命が身口意の行為をやっているのです。
それで「十善十悪」いうのは、身口意の行為に分けて善悪を区別し教えているところなのです。ですから、十悪というのは身口意の行為のことです。ということで、十悪には「酒を飲む」というのは入りません。なぜなら十悪が動物や神々など、他の生命に当てはまらなくなるからなのです。酒を飲むのは人間だけですから、そのように法則の場合は「酒を飲まない」というのは含まれません。
不飲酒は善悪の人間バージョン
私たちは人間ですから、人間としてどのように生きるべきか? というところで、人間が依存する五つの項目を止めてくださいと教えているのです。ですから、十善十悪は善悪を教える生命バージョンで、五戒は善悪の人間バージョンであると理解することもできます。
そこで「酒を飲む」ということは、十悪の中のどれに当てはまるのでしょうか。「酒を飲む」というのは十悪とは直接的には関係ありません。皆楽しいから酒を飲んでいるだけです。肉体を楽しませたいという程度のことです。直接的な罪にはなりません。しかし、酒を飲むことで、体が壊れて、脳が壊れて、正しく生きていられなくなるのです。
ですから、酒を飲んで酔っ払った人が十悪を犯す可能性が極めて高いのです。例えば、人の悪口を言いたいのですが皆言わないのです。酔っ払うと言ってしまいます。人を殴りたい気持ちがあっても普通殴りません。酔っ払ったら、手が出てしまいます。ですから、酒を飲むということ自体は、十悪を犯したことにはならないのですが、とても危険です。ということで、五戒の「酒を飲まない」という項目は善悪の人間バージョンということになるのです。
すべての生命の心は、身口意の行為として働いているのです。行為は善と悪に分けられます。生命が期待しない不幸な結果になる行為は悪です。生命が期待する幸福をもたらす行為は善です。身口意の行為を十種類に分けて、十善十悪が説かれています。それは一切の生命に当てはまる善悪なのです。しかし各生命の生きかたは、それぞれ違います。たとえば、水のなかに生活する魚たちに、言葉は語れません。言葉で悪を犯すことは不可能です。声を出す能力がある生き物たちは、自分の声で他の生命を脅したり恐れさせたりすることができます。人間には、身口意の行為がすべて出来ます。人間は、自分の身口意の行為が善になるように励まなくてはいけないのです。
五戒を守るならば十善を行う人になる
次の問題は、どうすれば十悪を犯さず、十善を行なって生活できるのでしょうか? ということです。それで人間は、自分なりの決まり・規則などなどを作ります。例えば、使ってはいけない単語があります。差別用語を使ってはならないと言われているでしょう。英語をしゃべる場合、「ニガー」は差別用語です。「ブラック」は普通の言葉です。「痴呆症」は差別用語です。「認知症」は認められている言葉です。差別用語を使うことは、言葉の悪行為です。このように人間は、善い人間として、善い社会人として生きるために、様々な決まり・規則を作るのです。
それらは普遍的な真理として見る必要はないのです。人間に普遍的な真理として規則を制定するならば、それはどのようになるのでしょうか? 各宗教は、それぞれの宗教に限った戒律を持っています。ヒンドゥー教は牛肉を食べない。イスラム教・ユダヤ教は豚肉を食べない。ジャイナ教は完全菜食主義。などなどです。それらには普遍性はありません。その宗教を信仰していない人が守る必要もありません。仏教で説く五戒が答えです。五戒に宗教の色はありません。信仰も必要ありません。人類が五戒を守るならば、悪行為をしない、十善を行なう人間になるのです。
十悪は身口意に分けられますが、飲酒は身口意の行為のなかでどちらに入るのでしょうか? ある液体を取って飲むことだから、身行為になります。十悪に飲酒が入ってないのは、酒を飲む行為は人間だけがやっていることだからです。十悪に飲酒も入れて十一悪にしてしまうと、人間以外の生命に適用できなくなります。ですから、このように理解しましょう。十悪はすべての生命に当てはまる教えです。五戒は人間が行なうべき、正しい決まりです。