自我の錯覚について
パティパダー2016年6月号(204)
二つ質問があります。無我の話で、「自分というものはない、ただ流れに則した役割があるだけ」ということを教えていただきました。その流れに100%乗ってやると、当然ものごとが上手くいくと。よく科学者や社長が「私は成功を狙っていたのではなく、目の前に起こっていることをただやってきただけで、そうしたら成功しました」というようなインタビューを聞いたことがあります。
① この「流れ」ということは、仏教では五蘊ということだと思うのですが、その流れ自体に意志というか、「こうしたい」というような気持ちがあるのでしょうか?
② 長老は人格向上についての話を、何度も何度もされていると思うのですが、それは嫌にならないのですか?繰り返しすることが嫌にならない、自分はこの役割を果たしているだけと思えるのですか?
俗世間的にすごく成功している人たちは、目の前のことはしっかりやるのです。それは、おっしゃった通りです。成功している人たちを観ると、ものすごく活発で忙しい。忙しいとはどういうことかといえば、目の前にいつでもやらなくてはいけないことがあるということです。それを何の嫌な気持ちもなく、さっとやってしまう。終わった途端、目の前に次の仕事がある。それをやる。時間を延ばして結果的に観ると、「成功している」ということになってしまうのです。
それから、リーダーになっている人たちはあまりにも活発で、自分のことをしっかりとやっているから、周りも仕方がなく引きずられてしまいます。だからリーダーになっているのです。周りは断れなくなってしまう。そういうことです。私たち一人ひとりも、目の前にあることをやればいいのです。
現象の流れには意味がない
無我の説明で出した「流れ」というのは、ものごと(現象)の流れですから、そこに何か意味があるのか、という質問ですね。本当は何の意味もないのです。ただものごとは流れるだけです。なぜ流れるのかと聞いたら、お釈迦さまは「これは因果法則です。仕方がありません」と答えたのです。山の方でものすごく雨が降ったら、川の水が溢れる。それは仕方がない。川に何か目的があるのかというと、何もないのです。洪水になって家の中に水が入ってきても、川は人々に対してなんの怨みも持っていないのです。ただ因果法則に従って、そういう状態が起きているだけです。
太陽は燃えています。ものごとの流れとして、燃えるしかないのです。その太陽もいつかは消えてしまいます。宇宙も因果法則によって流れている(変化している)のです。また「流れ」ですから、終わりもないのです。ひとつの場面が終わったということは、次の場面が現れたということです。ですから、そこを管理する裏の誰かがいるとか、何か目的があって流れているとか、そういうことではありません。
心も目的なしに流れるもの
それで、仏教では物質とは違った心の流れもあるのだということも、強調して教えています。困るのは物質の流れではなく、心の流れの方なのです。先ほど出した例でいえば、洪水になったことは良いことでも悪いことでもありません。ビックリすることでもなく、ただ自然の流れなのです。洪水があった場所に、私が家を建てて住んでいた場合は大惨事だということになるのです。大惨事だと思うのは、心なのです。
心のことを観てみると、心も何の目的もなく流れるものなのです。何かに触れると嫌な気持ちになる。他の何かに触れたら良い気持ちになるとか、それぞれ何に触れたのかということです。例えば、私は明るくいるぞと思っても、因果法則ですからそうはできないのです。私は絶対怒らないと決めたとしても、何に触れるかわからないのですね。何かに触れたとき、心が怒りの反応をしてしまうということもあります。そのように、心もモノに触れる度に変化するものだと、心には何か目的があるわけではないんだということも、各自で発見しなくてはいけないのです。これは日常生活の知識とは違う世界を紹介しています。
私が寒くなりたくないと思ったとしても、これは成り立たないのです。体に触れるものによって、寒く感じたり、暑く感じたりする。寒くなりたくないのになぜ寒いのかと思うのは自我を張ることなのです。その人は苦しむことになります。心は適切に反応するだけだとわかっている人にとっては、寒く感じても暑く感じたとしても、別に苦しむことなくいられるのです。そこで、どうしたら苦しむことなく気楽にいられるのかというと、これは「自我がない」というスタンスだからです。
目的を追い求める
生きることに目的はないのです。なのに、人間は何か目的を探している。この目的を探すということにも二つあります。ひとつは、自我の錯覚の指令で探している場合です。それは絶対に叶いません。存在しないモノノケが指令しているのですから、何を指令するのかもわからない。私たちは政治家になりたい、音楽家になりたい、有名人になりたい、スポーツ選手になってボロ儲けしたいといろいろ思うのです。淡々とその場その場のことをやっていれば、叶わないわけではないのですが、かといって、それが人生の目的かというとそうでもない。
私たちは自我の錯覚によって、例えば「マイホームを持ちたい」とか、あれこれと目的を作っています。ほとんど下らない目的です。そういう目的を追い求めているうちに、やがて、バカをみて人生が終わってしまうのです。マイホームを建てたとしても、それを置いたままで死ななくてはいけない。いっぱい貯金をしたとしても、そのまま置いて死ななくてはいけない。
「幸福になりたい」のはなぜ?
目的を探す場合のもう一つのケースは、わかりやすく言えば、「幸福になりたい」という気持ちから探すことです。仏教では、この「幸福になりたい」という目的(希望)を取りあげて、真剣・真面目に研究してみるのです。真剣・真面目に、「なぜ幸福になりたいのですか?」と問うてみるのです。答えは簡単です。「いま、幸福ではない」からです。それで、希望・期待(目的)が現れるのです。
そこで、お釈迦さまは第一の真理を発見したのです。「生きることは苦である」ということです。生きることは苦でないと、誰も幸福を目指しません。幸せになりたいと思いません。
生き物を観ると、みんな幸せを目指しているのです。ということは、「生きることは苦である」こそが現実なのです。そこでお釈迦さまは、「なぜ苦が生まれるのか?」と調べたのです。答えは、「私」という錯覚、いわゆる「存在欲」があるからです。
自我が割り込むと苦しみが生じる
洪水で家の中に水が入ってきて、「これは損害だな、困ったな」と落ち込む場合は、そこには自我が割り込んでいるのです。「こうあってはならない」という。自我がなければ「まあ仕方がない。自然のことだから」と落ち着いていることができます。
自我が割り込んでくると、「死にたくない」「年を取りたくない」とか、自然の流れに「嫌だ、嫌だ」という反応になります。自然の流れは変えられません。ですから、「自我」という錯覚を無くすというアプローチになるのです。それで、本当の安穏・安らぎ・幸福に心が達するのです。そのために「存在欲」を捨てなくてはいけない。そういう流れがあります。
自我の錯覚を破る
ということで、仏教では「良い人生の目的を作りましょう」と提案しています。作りましょうと言っているのは、そもそも決まった目的がないからです。生きる目的は何もない、ただものごとが流れるだけ。だったら敢えて目的を作る。それが、幸福になること、苦を乗り越えることになるのです。自我の錯覚を破ることです。これを目的にする。とても具体的ですよ。観念的な目的ではありません。いま錯覚があって、自分がいるのですからね。
そこで研究をするのです。この研究することを、仏教では「冥想」と言っています。本当は研究して、調べて、スタディするだけのことです。仏教の冥想は、宗教が教えているヨーガなどの神秘体験をするものではありません。ただ科学的に研究するのです。自分という実感を研究することですから、世間にある科学研究とはやり方は違います。道具は要りません。自分という実感は24時間、いつでもありますから。そこを研究するのです。
それで、苦しくなったら「自我が割り込んだ」と気づく、怒りが起きたら「自我があるから怒った」と気づく、あるいは「そうあってはならない」という自分の判断があって怒りが生まれたとか。人がしゃべったことに対して怒ったら、その場合は「そのようにしゃべってはいけない」と自分が決めていたのです。何か決めるのは自我があるからです。ものの流れは自分勝手には決められません。
研究を続けていくと、最終的に我々は「放っておく」という気持ちになります。それが覚りの世界です。
②の質問に対しての回答
質問が嫌になるケース
一応、その場その場で自分の役割を果たそうとしています。それでも、つまらなくなるというか、正直に嫌になるときがあります。それは「教えてください!教えてください!」と何度も繰り返して私に攻めるように言ってくる場合です。その人は実践をやるつもりは毛頭もない。ただ自我を張って、「こんなやる気のある私って偉いでしょう」と見せつけたくて、質問してくるのです。そういう見栄を張ったりする世界には、関わりあいたくありません。
また、一回か二回アドバイスしても話を聞かなかったら、私は「もう聞かないでくれ」ということになります。なぜなら私が人に会える時間はものすごく短いのです。人生も先は、ほんの僅かしかありません。それで結果もないことに、時間を2、3時間も無駄に使う必要がありますか? ですから、そういうときはいろいろと工夫して、相手に帰ってもらいます。
どんな人間にも同じ問題が現れる
しかし、真剣にやっている普通の人たちから、同じ質問を繰り返し受けたとしても、私には何の嫌気も起きません。毎回、だいたい同じような質問があるのはわかっています。みんな通る道は同じですからね。しかし、真剣に答えます。それは、冥想実践する本人に現れる問題であって、これはどんな人間にも現れる同じ問題です。その場合は、どうしても同じ答えを繰り返すことになります。
例えば、医者の所にインフルエンザの患者さんが50人来たら、同じように繰り返して診察と治療をするでしょう。一人ひとり真剣に。面倒くさいと「みんなインフルエンザだからこの薬を持って帰れ」とは言わないのです。診察は一人ひとり真剣に一人ひとりに真剣に診察して、体温や血圧や具合をチェックする。アドバイスは同じになるのです。なぜなら、一人ひとり真剣だからです。その人が病気になっているのですから。そのように仏教の指導をしています。
みんな同じ「存在欲(自我)」という病気で悩んでいるのです。それで微妙に質問が変わるのですが、誰だって質問する内容は、ほとんど同じことなのです。私たち出家にとっては、自我の錯覚を治す仕事をしているのですから、それを嫌だと思うことは不可能です。自我の錯覚はみんなに平等にあるのです。2番目の質問に対する答えは、そんなものです。
最初に「流れ」に意志があるかと聞いたのは、人間に自我があるとしたら、「成長したい」という気持ちが唯一の自我と思っていたのです。ですから、その流れ自体に「成長してほしい」という何か願いがあるのかと勝手に思っていました。
二通りの成功・成長
「自我」というのは錯覚です。人生の成功・成長には二通りあるのです。自我によって思い描く成功・成長と、ものごとの流れに沿った成功・成長との二つです。ものごとの流れに沿った成長は、「自我の錯覚を捨てましょう」ということになる。その流れに沿って進めば、一切の執着を捨てることになります。
執着は心にあるのです。執着というのは成り立たない感情です。例えば、花があるとします。花は物質 法則によって枯れていくのです。この美しい花がそのままあってほしい、ということは成り立ちません。ずっと若いままでいたい、ということは執着であって成り立たないのです。ものごとは流れるのです。
ですから、ものごとの流れを認めたところで出てくる人生の目的は、「執着を捨てましょう」というこ とになる。それが本格的な成長ということになります。わかりにくいかもしれませんが、自我が錯覚であると発見することこそが本物の成長ということなのです。私たちが思う成長というのは、自我から出てきた成長ですね。それは叶いません。ですから、二つの道があると理解してください。
「覚りたい」は自我の世界
例えば、一般的な方々は「私は覚りたい」と思って冥想をします。しかし、それでは覚れないのです。「覚りたい」と思ったのは自我だからです。覚りの世界は、そんなものではありません。すべての執着を捨てたところで現れるものなのです。
そこは、いきなり理解できないのですから、「ものごとに価値はあるのか、ないのか」ということで順を追って観察していくと、すべてが無常だと発見して、「諦める」という気持ちが生まれるのです。
いま皆さんがイメージしている「諦める」気持ちは良くありません。それは「やる気がなくなった」という怠けです。修行(観察)して修行して、とことん修行したところで、徹底的に頑張ったところで、すべて諦めてしまうのです。すべて「無価値」「苦」であるという、その諦めに「覚り」というのです。 ですから、一般の人は「成長したいと思う本当の自分があるのではないか?」と思うかもしれません が、それさえも錯覚なのだと理解してください。
追伸
質問の言葉にあわせて直接返事をしないで、人間が知るべき「流れ」について延々と説明しました。その説明の内容を理解してみると、智慧が現れると思います。智慧が現れることは、何よりも大事です。 質問者は、すべてのものごとは瞬間瞬間に流れてゆく現象である、という立場を認めています。そこでその流れのなかに、「自分」という現象も置かれています。自分という現象は、成功したい、成長したい、という意欲を持っているのです。それで、自分という現象は結局、色受想行識という五蘊の流れなのです。五蘊の流れが「成功したい、成長したい」という衝動を持っているのか、という疑問が起きたので、「その流れ自体に意志というか、「こうしたい」というような気持ちがあるのでしょうか?」という質問になったのでしょう。
色受想行識という五蘊のなかで、色蘊は物質的な肉体です。感覚(受)、概念(想)、衝動(行)と知る機能(識)の四つは、心なのです。意志とは、行蘊の一部です。生き続けるためには、絶えず行為をし続けなくてはならないのです。ですから、常に何かをしたいという意志が働いているのです。その場その場でさまざまな意志が生まれるのです。たまに、成功したい、成長したい、という意志も生まれます。怠けたい、怒りたい、欲を追い求めたい、などの意志も現れます。決まった一つだけの意志で生きているわけではないのです。一貫して続く意志は、存在欲です。それも、無常で変化して流れるのです。他の意志も、無常で変化して流れるのです。ですから、成功したいと努力していた人が、突然それを変えて別なことをする可能性も、いくらでもあります。意志は、釈尊の説かれた真理にあわせて制御したほうがよいのです。



