あなたとの対話(Q&A)

慈悲の瞑想について(嫌いな人)

「私の嫌いな人」に対して慈悲の瞑想をすると、かえって腹が立ってくるのですが。

主観的に物事を見て、考えても解決はしません。主観は自分の好みですからね。
世の中で問題が解決できないのは、ひとりひとりが皆主観的だからなのです。自分の問題でも、他人の問題でも客観化すると、そこには自分も他人もないのです。あるのは、ただ『問題』だけ。そのように考えると答が出て来るのです。客観的に見れば、そこに解決方法がある、ということです。

例えば誰かがケンカをしているとします。客観的に見ると「いくら相手が悪いといっても、あなた自身が怒りで悩み苦しむことは大変でしょう。相手のことには関係なく、静かな心をつくった方がいいのではありませんか」ということなんです。

ケンカをして苦しんで、共感を求めて相談に来る人がいますが、僕だったらこう言うんですね。「あなたは相手に勝ちたいでしょ。だったら相手に対する怒りは捨てなさい」と。すると、「そんなことはできません。だって、あいつはああいうこともした、こういう悪いこともした」と怒るのです。そこで「あなたは結局、その人の操り人形になるのです。その人の意のままに怒らされたり悩まされたりしているのですから、あなたはもう、とっくに負けているのですよ」と。そして「向こうが何を言おうが、何をしようが、あっけらかんとして、きれいな心でニコニコしていれば、あなたの勝ちですよ。ですから怒りを捨てなさい」と言うのです。それが仏教的な言い方なんですね。

難しいと思いますが、自分の心を育てて、しっかり物事を見られるようにするしかないんですね。だから、そのために、ヴィパッサナー瞑想をやって、自分の心と体を客観的に見て下さいと言うのです。これは、『ある人間の研究』のようなものです。自分のことだけは外も中も観察できるのです。他人の中までは観察できません。

今までは、欲と怒りしかわからないように教え込まれてきたのです。それを整理しないといけません。自分が刷り込まれている価値観、判断、知識はあまり当てにならないことを認識した方がいいのです。

でもやはり、私を苦しめた人のために慈悲の瞑想をすることは難しいです。

それに気づいていることはいいことなんですね。
しかし、嫌いな人がいることは、あなたにとって楽しいこと、幸せなことですか。嫌だと思う気持ち自体も自分の不幸でしょ。ですから本当は、相手を嫌いだと思う自分自身が、自分の不幸を作っているのです。

何かで不快感を感じたら、その相手を好きになるよりは、イヤになる方がやさしいのです。でも、その人をイヤになったら自分が損をするばかりで、相手には全く関係ないのです。「あの人がイヤだな」と思うたびに自分自身が気分悪く、不愉快になって、自分の不幸を作ってしまうだけなんです。バカゲたことですし、論理的ではないでしょう。

「あなたが幸せになりたいのなら、人のことを嫌いになるな」ということです。「敵を倒すな、悪い奴を許せ、というのはおかしいではないか」と言う人がいますが、そういう考え方に乗せられてしまったら、答が出てこなくなってしまうのです。

人を嫌いになるのはとても簡単なのです。何の努力も要りません。
ですから我々は、いとも簡単に自分の不幸を作ってしまうのですね。心の安らぎをなくしてしまうのです。
だから要するに、「幸せになりたければしっかりしなさい」ということです。腰抜けで中途半端では、幸せになれるわけはないのです。幸せになるには、しっかりとした自信がないと幸せになれないんですね。相手の性格や言葉や行動が、自分にとっていくら都合悪くても、「人のことは嫌いにはなりません」と平気でいてください。なぜなら、人のことを嫌いになったら、その人のことを考える度に、自分が暗くなってしまいますからね。

でも私がひどいことをされた時、私は小さかったので無力でした。

その思考は、過去を思い出しては悩むということです。
終わったこと、死んだ人、消えたことについて思い悩むのは、すぐにやめた方がいいのです。
私はそれを「遺体を運んでいる」と言っています。遺体を背負っていてもあまりかっこよくない。それなのに皆、運んでいるのは遺体ばっかりなのです。
「過去に私はあんなことをされた、こんなことを言われた」と、悪いこと、イヤなことばかり覚えている。しかし相手はそんなことはとっくに忘れているかもしれません。

確かにそのとき、その人は間違ったかもしれません。ほとんどの人は間違うものですから。それで何かイヤなことがあったとしたら、そのときのその遺体だけを運ぶことです。肝心なことは、自分の幸福を壊しているのはそういうイヤな人々ではないということです。皆、自分自身で自分の幸福を壊しているのです。

いっぱい食料品を買って、大きな買い物袋を抱えて歩いているところに突然人がぶつかってきて、卵や豆腐を全部メチャクチャにされたら、ものすごく怒るでしょう。そこで何か言ってやるぞと思って相手を見ると、相手は目が見えない人だったとします。そうすると、それがわかったとたん、「だいじょうぶですか」と逆に相手を心配するようになってしまうのです。

なぜそのような話をするかというと、人は皆、目が見えていない存在だからです。真理に目覚めてないのです。だから、やっていることは間違いなのですが、本人は知らないんですね。目が見えない人は好んでぶつかったわけではありません。ただ目が見えなかっただけです。
我々を攻撃したり意地悪したりする人も、やりたくてたまらずにやっているわけではないのです。やりたくてたまらなくていじめる場合は、からかっているだけで楽しいのです。仲のいい友達にからかわれても恨みにはならないでしょう?
「子供の時にいじめられた」と親を恨んだりする人もいますが、親も子供をいじめたくていじめたわけではないんですよ。本当にどうしようもなくやってしまったんですね。子供を捨てる親もいますが、捨てられても親を恨む必要はないのです。恨んでしまうと、永久に自分が苦しむだけです。

どんなことにも何かわけがあるのです。たとえば「母が再婚して親にいじめられた、とんでもない母親だ」…そういう風に思うこともよくないのです。
子供の時はしょうがないとしても、大人になったら「母もた大変だったでしょう。私が邪魔だったのでしょう。しょうがない。許します」と心を清らかにした方が、恨みを持って生きるよりは自分が楽なのです。
他の道は全くありません。相手を恨むこと、相手をいじめること、相手に仕返しすることで、決して幸福は得られません。大人になってもずっと自分の母親を憎んでやると決めたところで、誰が幸せになるのか。皆が苦しいだけでしょう。それなら何のために生きているのでしょう。

人は幸せになるべきなんです。苦しんで悲しく生活するべきではないのです。そのためには慈しみの道しかありません。敵を倒す道では幸せになれません。だから、慈しみで物事を見るようにして下さい。

長い間、不幸になる訓練をし続け、どうすれば不幸になるかを追求する生き方をしてきたので気持ちの切り替えは大変だと思いますが、「まあそのうち心は軽くなるだろう」と考え、気楽に慈悲の思考の訓練をやった方がいいと思います。

仏教の国では小さな時から慈悲の気持ちをたたき込まれます。
だから我々には、慈悲は難しいことでも何でもない。そのため仏教国の人々の生き方はまるっきり違うのです。それをそのまままねるのは難しいかもしれませんが、慈悲の気持ちが身についてくるとどんどんわかってきます。自分がすごく幸せになってくるんですね。何か自分がすごく得しているような感じになるのです。自分がすごく得していると、相手のことを許してあげること、理解してあげることが、容易にできるのです。

慈悲の瞑想でそうなれるのでしょうか。それとももっと他の修行方法があるのでしょうか。

これほど優れた方法はないのです。
他の方法はたくさんありますけど、全部2番目3番目。もっと慈悲の瞑想をまじめにやってみてはどうですか?

慈悲の瞑想は1番の方法だから、ちょっと難しいかもわかりません。いきなり卒業試験ですからね。だけどそこを乗り越えたら早いですからね。
実践的なお話をしますと、正直な気持ちで、ちょっと時間をかけて、自分一人で慈悲の瞑想をして下さい。
一人で「私は幸せになりますように。私の悩みはなくなりますように」と。
そうやって自分に慈しみをつくってください。

それから、親しい人を選んで下さい。自分がすごく正直に幸せを願える人々。「こういう人も、誰々さんも、幸せになりますように」と、正直に念じる。それを30分くらいやってみて下さい。
親しい人々への慈悲の瞑想が終わったら、すべての生命に対して「生きているものは皆幸せでいて欲しい」と念じて下さい。
嫌いな人を思い浮かべると強い怒りを感じてしまう場合は、そこで瞑想をストップして下さい。

でも、本当はそれは相手の問題ではありません。自分の問題なんですよ。自分を苦しめているのは、自分の思いですから。

理解できないです。

思い出すのは自分でしょ。
嫌いな人が今ここに出てきて、何かをやるわけじゃないでしょう。「イヤだ」と腹を立てているのは自分。だから悪いのは結局自分なんです。
とにかく今は、嫌いな人を思い出さないようにして、もし思い出したら「瞑想に邪魔が入った、汚れが入った、ゴミが入った」とカットして下さい。ゴミや汚れより、もっと強烈な言葉で考えて下さい。体の中、頭の中、心の中に、汚物が落ちたんだと。しかしその汚物は『嫌いな人』ではありません。『自分が思い出したこと』なのです。
「関係ない、関係ない、そんな概念は関係ない、そんな思考は関係ない。私はきれいな心を作ろうとしているんだ、汚物などで自分を汚すのはばかばかしい」と素速くきれいにする。そしてきれいな心で、自分の親しい人々と、普通の生命に対して、慈悲の瞑想をし続けてみて下さい。だいたいうまくいくと思います。

慈悲の瞑想の方法は、色々あり、その人その人にあわせる必要があります。この質問の人のような場合は、いわゆる「私の嫌いな人」「私を嫌っている人」のところはカットして実践した方がいいのです。

慈悲の心自体がすごく論理的だということも理解してほしい。なぜ論理的かというと、どんな人でも幸せになりたいということは、事実なんですね。それなら、自分が幸せになれるように行動するのが論理的でしょ。

じゃあ自分の幸福を壊すのは誰なのか、と考えてみて下さい。
朝ご飯が食べられなかったから不幸だとはあまり思わないでしょ。服が汚れたとか、白髪になったとかで、不幸だと悩む人はいません。白髪なんか染めちゃえばそれで終わりますからね。
ですからやっぱり不幸というのは、恨み憎しみなんです。恨み憎むことは自分がやっているんだからね。だからいかなる場合でも、自分の恨み憎しみを正当化しないこと。自分の恨み憎しみこそが幸福を壊すんだと言いたいんです。

普通は「電車が遅れたから不幸だ」ということはないんです。
でもある人はそれで不幸になるんです。「なんで、私がこんな目に逢わないといけないのか、この忙しいのに…」と怒る。そうやって不幸になるのも、恨み憎しみのせいなんです。自分の心にもっている恨み憎しみで不幸になる。そういうことですから、我々は幸せになりたいのに、我々の心の恨み、憎しみ、嫉妬、相手に逆襲したい、仕返ししたい、という怒り系統の感情が幸せを壊しているんです。

『慈悲の修行というか瞑想は一日1時間くらいするのですか』

いえいえ、1時間では足りません。
自分の生き方そのものを、すべて実践に廻さないと。
それは理解の問題で、日常で生活することと精神の修行をすることが別だと思っていることがまちがいであって、生きることの勉強だから、修行の道と生活の道というのは同じです。別々ではありません。二つに分けるのは宗教の世界でね。仏教の道ではありません。

人が怒るのは、仕事中とか、家庭でとか、人間関係の場でしょ。怒りはそこで消さなくちゃいけないんですね。生活の場が修行道場なんです。会社が道場であって、家が道場なんです。怒りのウイルスが入っちゃったら、何にでも怒るんです。自分にも怒るし、相手にも怒るし。ものごとがうまくいっても怒る人もいます。「うまくいったといって、いい気になるんじゃないよ」と怒るんですね。

世の中の人々に対して、限りなく優しさをもつべきですよ。いい人には慈しみで、悪い人はつぶすということは論理的ではないんです。悪い人に限って、もっと、何倍も優しくしてあげなくちゃいけないんです。その人はもっとものごとをわかってないんだから。

慈悲はそういう教えだから、戦いの論理で生きている現代人にとっては論理的ではないと感じるかもしれませんけどね。「戦え、戦え、相手をつぶせ」と。「私が正義だ、相手は正義ではありません」と。そういう戦いの世界の人には、そういうことは論理的だと分かりません。それはしょうがないしね。

ブッダの教えをとにかく実践すると、いいことになる。それは論理的だからね。

小さい子供のときに道徳が叩かれてないんだからね。「精神の世界が一番大事ですよ」というね。
仏教国では、「ご飯を食べることよりも、道徳を守ることの方が価値があるんだ」と教えられます。
「お腹がすいて飢え死にしても、人のものは取るな。それは汚いんだ、かっこ悪いんだ、食べるために生きているのではないんだ」と。
食べるのが目的だったら、泥棒しても食べた方がいいんです。私たちの場合は、逆。「生きるのが一番で、清らかな心で、かっこよく、品格よく、生きることが大切だ。いくら豪華な家に住んでいても、心が汚れている人はけしからん」と、そういう価値観が刷り込まれているんだから、ごく自然ですけどね。そこら辺ちょっと難しいかもわかりませんけどね。そこちょっとがんばれば。

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