強迫観念
私は元来神経質な性向でしたが、ここ一年半ほど精神科医より強迫神経症と診断された状態が続いています。ある特定の妄想に支配された状態が続きやすいです。もっと具体的に言うと、職場の二女性と私の三人で送別会の酒席を設けました。そこではかなり深酒し、口論や罵倒や様々な分野にわたる会話がなされました。深酒していたためあまり内容を覚えていなかったのですが徐々に内容を思い出し、憶測を伴い気になるようになりました。まったく関係もない内容の思考から、なぜかその二女性につながり二女性と妄想的会話を繰り広げることが頻繁におきはじめました。この状態が一日中起き、かなりサティを入れるのですが、なかなか状態が良くなりません。これが座行を妨げています。効果的な対処法をアドバイスいただけないでしょうか。
現代、人間が生きている範囲は狭過ぎます。我々は昔の人間を思うとき、「世界を知らない」と考えていますが、実は私たちのほうが、ずっと狭い社会の中で、また、狭い人間関係の中で生きているのです。少々のことで心が激しく傷ついてしまう原因はここにあります。マスコミ、インターネット、会社などが私たちに「グローバルスケールで生きている現代人だ」という錯覚を起こさせるのです。
自分の生きる世界が狭くなればなるほど、小さなことでも自分にとっては大震災が起きたようにこころに響くのです。このあいだ山の手線の車両の中に大きさ4ミリぐらいの蛾がいました。わたしはとても可愛いと思ってみていたのですが、蛾が飛び回ると、電車に乗っていた女子学生三人が猛獣が襲い掛かったかのように叫んだり騒いだりするのです。その女達が降りたら、今度は年配の男性二人がもっと騒ぎはじめたのです。あまりにも馬鹿らしくて見ていられないほどでした。「小さな蛾が頭の上に止まっても死にはしないよ」と言いたくなったぐらいです。世界を知るどころか、自分が生きている周りの環境も知らない人たちです。ビニール製の箱の中で一生飼われているモルモットの人生と同じようなものです。このような人々の人生に、多少でも予想外の変化が起きたらどうなることでしょう。なぜ人は、自然に馴染んで、自然から学んで、多数の人々と仲良くなって気楽に暮らせないのでしょうか。
酒席で犯罪を犯していない限り、女二人との間で酒によって起きた出来事というのは、思い出してみても自慢にも冗談にもならないほど単純なことだと思われます。何が起きてもいいんじゃないかと思います。解決方法が幾つかあります。何もなかったことにするか、適当に謝るか、笑ってごまかすか、アホな事をやったと自分で言って皆を笑わせるか…などです。どの方法もとれない場合「誰にでもあることではないか」と自分で開き直ってください。
この特定の妄想を消す方法はありますか。
ヴィパッサナーの実践をするなら、毎日一時間以上妄想している暇がないように「右、左、右、左」と足の動きを感じながら早足で歩く実践をすることです。座行もするなら、30分ぐらいでいいと思います。そのとき例の強迫観念的な妄想が出るならば「妄想、妄想」ではなく「怒り、嫉妬、喧嘩している、自慢している、悲観的になっている、欲に溺れている」等、実際に今の心が体験していることにあてはまる言葉を適宜に使用してください。(職場では仕事だけに集中するように努力することです。)
あなたの妄想は、あなたのすべての能力、知識、人格などを破壊する方向へと回転していますから、その方向を変えることです。「悪いことや恥ずかしいことなどはしない、したことがない」という人間なんて、この世の中にいないのです。いたとすればその人もかなり異常な精神をもっているといえるでしょう。「いけないことをした」と思い出しても、賢者と愚か者の違いというのは、前者はそれを人格向上にポシティヴに使う、後者は自己破壊にさらに暗くなるためにネガティヴに使う、という点です。
人格向上の為に、今の私は具体的には何をすればよいでしょうか。
色々な本を読んだり、何か新しいことを習ったり、ほかの何か楽しいことをして自分の世界を広げてみて下さい。妄想は良いことではありませんが、幅広い妄想はいまの状態よりもずっと良いのです。数学、将棋なども頭に良い結果を出します。
また、何かボランティア活動に邁進してみてはいかがでしょうか。あるいはたくさんお友達を作ってみてもよいのです。
また、慈悲の瞑想をたくさんしてみて下さい。そのときは、あなたの性別を切り捨てて、両親や異性の友人、知り合いのことを思い浮かべて実践してみて下さい。人々と話をする時でも、こころのなかで「この人が幸せでありますように」「この人がいやな気持ちにならないように」と思いつつ話してください。「他の生命の苦しみも悩みも楽しみも喜びも感じられるように」と勤めてみてください。要するに、うじ虫人格がゾウのような人格に入れ替わるように怠ることなく勤めることです。
それから、くだらない言い訳をしないで酒を止めてみて下さい。明るい人間になりたい、気持ちよく楽しく生きていきたいと思うなら、以上のアドバイスに従ってみて下さい。勇気が必要です。
仏教の目的についてですが、私としては、苦(不安)からの解放だと思っているのですが、如何なものでしょうか? 何を今更、と言われそうですが、それを腹に入れて置かないとあちこちに迷ってしまいそうな気がするので、確認の意味でご教授お願いします。
お釈迦さまは悩み、苦しみ、不安、不満、生老病死、憂い、悲しみなどから脱出する道を説かれているのです。では他の教えはそうではないのでしょうか?
いいえ。他の教えでも、皆が苦しみをなくす方法と幸福になる方法を教えようとしているのです。科学者も、人を苦しませてやるという目的は持ってないのです。経済学、哲学、文学、政治思想も同じく、人が幸せになる道を考えているのです。
でもなぜ、皆が幸せになれないのでしょうか。
病気の例で考えてみましょう。病気の人を祈祷で治す、気功で治す、指圧で治す、西洋の医学療法で治す、漢方で治す、自然の力に任せる…など色々方法があります。早く完治させる方法が良いに決まっています。では、どの方法が良いのかと迷いますが、原因はその病気にあるのです。その病気の原因を完全に取り除くことで治るのです。つまり、「誰がその原因と取り除く方法をわかっているのか」ということです。
人類の苦しみ、不安の原因は何でしょうと訊いてみましょう。経済学者は貧困だという。政治家は完全な管理システムがないとき現れる政治不安だという。文学者はより深く人生を楽しまないからだという。また、それぞれが、「好き合う人がいないこと、家族がいないこと、社会との関わりが上手でないこと、神を否定すること、原罪、悪魔、悪霊」等々、色々言うだろうと思います。社会が幸せになれないのはそれらの原因に一理あるかもしれませんが、決して完全な答えではないからです。
さらに、これらの思考には一つハンディがあります。誰もが、皆の幸せより自分の幸せを考えているのです。科学者は自分の幸福、名誉、利益のために研究するのです。政治家は、自分で権力を握って幸せになることを考えているのです。ですから「自分が幸せになるなら多少の犠牲は仕方がない」と思っているのです。結局は「自利」に目がくらんで本当の原因が見えなくなるのです。
お釈迦様は『全ての苦しみの原因はこころにある』と説かれます。例えば食べ過ぎてお腹を壊したとしましょう。それは豪華な、美味しいご馳走がいっぱいあったから起きた事件ではないのです。原因は「食べすぎた人のこころの欲」です。犯人は他人ではなく被害者のつもりでいる自分なのです。限りない欲、怒り、また無知で汚れたこころで、人々は物事を考え判断して、外の世界で幸せを探しているのです。自分の内側、つまりこころの汚れの原因で苦しんでいることに気づかないのです。世の中は 「色盲の人に色分けの仕事を任された」というような状態なのです。
質問に対しての結論として言えるのは『仏陀は幸せを説く』ということです。