渇愛~とくに破壊欲に関して②
先月は、渇愛は3つの「欲しがる気持ち」が組み合わさったものだというお話をしました。3つとは、ものを欲しがる気持ち、死にたくないという気持ち、そして破壊欲の3つです。
3つめの破壊欲について、もっと具体的に教えてください。
たとえば、勉強しようとします。いい大学に入りたいとがんばっても、うまくいかない場合がありますね。希望の大学には入れなかった、ということがあるでしょう。世界の環境が私のために動いているならば、私が東大に入りたいと言えば「はい、どうぞどうぞ」ということになるでしょうが、実際には東大は何を言うかというと「入るな」と、扉を閉めてくるのです。そこで、東大と戦わなくてはならないのです。そこではまた、たくさんの人々が同じく戦うのですから、やはり勝つのは決められた人数だけなのです。「相手に勝とう」と、破壊欲で行動して、そこで負けると、負けるごとに破壊欲が強くなってしまうのです。
身近な例で見ると、夏の夜、蚊が入ってきて、手で追い出そうとがんばってもなかなか出ていかない。何とか、その一匹を殺してやると追いかけ回す。それでなかなか捕まえられないと、どんどん怒りが募って来るんですね。負ければ負けるほど、強烈に破壊欲が膨張するのです。増えて増えて、強くなっていくのです。
このような状態がつづくと、普通の世界では、人々は自殺するのです。もう自分には戦えないと。やっていた悪いこと、賄賂を取っていたことや誰かをいじめていたことがばれたりすると自殺する。なぜならば自分に敵が現れたのです。自殺するということは、この「破壊欲」という渇愛が、ものすごく強くなっちゃったということなのです。あまりにも強い怒りで自殺するのです。わずかでも戦う余地があれば、がんばるのです。わずかでも戦って、自分の欲しいものが得られるということがわかればがんばりますが、勝てないなあと思ったら、自殺してしまうんですね。
また人間は、慈悲がなければ、自分のためになるなら人も殺すのです。1人でなく、何人でも殺すのです。テロリストは、爆弾を飛行機に取りつけて、とにかくたくさん殺せばよいのだと。自分の目的のためには、大量殺人したほうがよい。そう思えば、原子爆弾でも落とす。今は平和な社会ですから、原子爆弾なんて過去の話かと思えば、そんなことはありません。今も作っているのですから。しかも、5つの国しか作ってはいけないなんて、信じられないほど汚い考え方です。我々に、平等や民主主義を教える連中が、爆弾を持つ権利があるのは私たちだけよ、あなたがたは持つべきではないと言うのです。そういうものを絶対使わないと決めてしまえば、何兆円単位のお金が無駄にならなくて済むのです。そのくらい莫大なお金を投入しているのは、必要であれば使いますよ、ということなのです。
第二次世界大戦で、ヒットラーが自分にとって必要ということで、大量に殺人を犯しました。現代でも、国の幹部が、自分の権力を保ちたい、ただそれだけのために、何十万もの人を殺しています。それも破壊欲です。そういう人は、失敗すると自殺してしまいます。だから、それだけの人を殺しても、生きていられる、権力を保てるという見込みがあってやっているのです。ですから人というのは恐ろしい。ずっと国を治める権力を保っていたいと思う権力者、世界を支配したいと思ったヒットラー、そのくらい大きなものを欲しがったのです。私たちはせいぜい、もっとおいしいご飯を食べたいとか、その程度のものを欲しがっているので、怒りは小さいのです。ただ、量の問題なのです。欲の量が増えてくると、破壊欲もその分、バランスをとって増えていくんですね。だから欲が減れば、その分当然、破壊欲も減っていく。欲がきれいに消えてしまえば、あの恐ろしい破壊欲も、きれいさっぱり消えてしまう。そのような関係なのです。
自分を殺す破壊欲と他人を殺す破壊欲、正反対に見えますね。
自殺は、戦いに負けた人の場合。戦いで、どう考えても勝てる見込みがないから自殺する。受験にがんばってきた子が、母親からは「勉強しなさい、東大に入りなさい」といじめられてきて、それでもやっぱり戦いには負けた。そうすると、母親に合わせる顔がない、友だちに合わせる顔がない、両親が自分に引いたレール、たとえば東大を出て、いい会社に入って、出世して……そんなレールからはずれてしまった、すべて壊れてしまった、もう生きていられない、と自殺に向かう。大量殺人は、大きな欲を満たすために、とことん戦う人の場合です。
破壊欲は、いつごろから大きくなっていくのですか。
破壊欲、殺しあう気持ちというのは、子供のときからあります。ある母親のもとに2人目の子が生まれるでしょう。そこに殺し合いの原則が生まれますし、そこから競争も生まれるのです。ですから、2人目の子が生まれる前に、大きくなっている上の子に、一生懸命手をかけ、いろいろなことを教えてあげて、わざわざ愛情をかけておいてあげないと危険なのです。そうでないと、上の子が、知らないうちに赤ちゃんの首を絞める可能性があります。母親は、そういうことは本能的にわかっていますから、先に、もうひとりやって来るんだよ、ということを教えてあげます。そこでちょっと、ごまかしもするんですね。「良かったねえ、これからあなたはお兄ちゃんになるんだよ。弟かなあ、妹かなあ」。本人は、何が良かったのかさっぱりわからないのですが、良かったと言われるのだから、何か良いことがあるのだろうと錯覚するのです。今まで自分のことだけにかまってくれていた母親が、自分のことをまったく無視している。それでも強引に、何か良かったのだろうと思って、なんとかまあまあ生きているのです。
兄弟が助け合うような感情はないのですか。
助け合い、慈悲というのは、わざわざ強引に、無理矢理育てないと現れないものなのです。ですから、世の中を哲学的に見ると、あまりにも恐ろしいのです。母親さえ、自分の邪魔になるというなら、子を殺すのです。母親に得がないと子供は育ちません。子供を産んで、自分の立場が良くなったとか、これから子育てを楽しむぞ~とか、自分にとってプラスのものが生まれてくると育てるのであって、マイナスが生まれてくると壊すという働きは、確実にあるのです。
破壊欲、渇愛の原因は何ですか。
仏教には無明という概念があります。無明があるから渇愛が生まれると考えます。逆に言えば、ものごとをきちんと観られるようになれば、もう渇愛は消えてしまうのだということです。渇愛が完全に消えてしまえば、もう輪廻転生もない。
しかし、仏教では、人間は本来恐ろしさのかたまりだといいながら、やさしくしなさい、人を助けなさいといいます。そして、欲を減らしなさいと、中道を語るのです。他の哲学では、人間は恐ろしいのだから自分を捨てなさいとか、自分を破壊しなさいとかいう場合もあるようですが、仏教でいうのは自分を捨てろということではなく、欲を捨てなさいということなんですね。
無明と渇愛を客観的に観ることで消してみましょうというのが、お釈迦さまの教えなんですね。