あなたとの対話(Q&A)

「私は正しい」は不幸の基

パティパダー2007年1月号(113)

最近、私は自分で気づかずに嫉妬してしまっているのではないかと思ったのですが、そういうのはよくあることなのでしょうか。

a「そういうことはよくあることです」、b「たまにあります」、c「希に起こります」、d「あり得ない、勘違い」。では正しい答えに○をつけて下さい。といっても、心のはたらきは複雑です。人は自分の心の煩悩に気づかない。気づかないからこそ、煩悩から脱出できないのす。誰もが心の汚れの衝動で生きている。それに気づかず、自覚がない。だから悪いことを改めるのは難しいのです。
 
 しかし、「欲、怒り、嫉妬、憎しみ、恨み、妬み、偏見などは良くない、罪だ」という考えが世の中にあるのは、煩悩が悪いと気づいているからでは?
 
 違います。それはこういうことです。結果が悪い、期待はずれになる、不幸になる。するとその原因は何でしょうかと考えて、その時に何かを発見するのです。例えば「欲を剥き出しにしたからこの間の商談はだめになった」というような感じで、原因を発見する。
 
 しかし、それは過去の話だから、今更、結果に対してどうすることもできません。問題は、私たちには、今の瞬間、今の場所で行う行為に対しては自覚がないことです。「今、こうするしかない。これは正しい行動だ。これは正しい反応だ」と思って行う。それで悪い結果になると、又、「この間は云々」という過去の話になるのです。
 
 心の法則は、「これは悪い、悪果になる、期待が外れる」と知っているならば、自然にその行為を退けるということです。それは、危険を避ける心理と同じです。
 
 悪いことをするのは、「『今』行っている行為は正しい、幸福になる、それしかやることはない」と思ってしまうからです。それで結果を見て悩むのです。
 
 だから、嫉妬に限らず他の煩悩にも気づかないのだ、というのがご質問の答えです。
 
 頭で学ぶ煩悩は観念的です。煩悩のことをいくら学んで解っていても、清らかな人間になるのは難しい。実際にある具体的な煩悩は、今の瞬間の心にあるのです。罪を犯さずに生きたい人は、煩悩理論を学ぶより、今の瞬間の心の状態に気をつけるのです。

自分の心に気づくことしかないですか。

自分の心に気づくしか、他の的中する方法はありません。

気づいてもなかなか上手くいかないというか、心が直らないのです。

それは「自分が正しい」という前提からくるのです。我々の心は瞬時に反応し、その反応を「正しい」と思ってしまう。確かに感情と妄想がないなら、その瞬間の反応は正しい。しかし、感情と妄想がある限り、「正しい」と決めつけることはできないのです。
 
 私たちの行為・行動には、いつでも別な選択もあるでしょう? 例えば、人に何かを言われるとします。瞬時に怒りが沸いてくる。しかし、怒らないで話を聞くこともできる。その話を冗談として受けることもできる。親切に心配していると思うこともできる。そういう他の選択がある場合は、瞬時の反応は正しくない。感情と妄想がない人の反応には、他の選択はありません。それが正しい反応なのです。
 
 心の煩悩に気づいても、「だってしょうがないでしょう」という気持ちでいるならば、心は直らないのです。自分の正当化は、心を清らかにする妨げになります。先程の、人に何か言われて怒りがこみあげてくる例に戻りましょう。その時は、「相手が何を言おうが、私の心に起きた怒りは良くない。正しくない。悪です。結果は良くない」と思わないといけないのです。自分の心を育てる意欲・誓願と、それに伴う気づきで、心の汚れが減っていくのです。

私の上司は、「自分が正しい」と頑固に思っている人です。上司が傲慢な場合、間違った意見でも従わざるを得ず、理不尽で悩んでいます。

あなたは自分の上司を「傲慢だ」と思っている。そしてそれが「正しい」と思っているでしょう? そこが問題です。「私が思う、ゆえに正しい」という理屈なのです。上司も傲慢かもしれませんが、その上司のことを「傲慢だ」と思う自分も傲慢ではないのですか? それには気づかないでしょう?
 
 傲慢なのは当然のことで、どんな人間にもその特色があるのです。けれども皆、他人の傲慢は許さずにいて、自分の傲慢は正しいと思っているのです。
 
 皆そういう生き方をしています。だから、上司が何を言っても、それはその人の問題で、自分まで苦しむ必要はないのだと理解しておきましょう。でないと、上司は部下を叱ってストレスを発散するが、上司に怒鳴れない自分は自分の心を痛めつけなくてはならず、自己破壊になってしまいます。

しかし、上司は、誰が見ても馬なのに「牛だ」と言うような人なんです。

それでもわかりませんよ。もしかすると本当は牛なのかもしれません。皆が「馬だ」と言っているから、それが正しいとは限りません。人々が「この世は幸福に満たされている」と言っているのに、仏陀一人が「苦である」とおっしゃったのでしょう。皆が違うことを言っているのに仏陀は本当にバカではないか、とは言えないでしょう。
 
 上司の傲慢は、そう簡単に変えられません。上司が傲慢だと自分が思っている限り、人生は苦しいのです。その上司の意見に従おうが逆らおうが、どちらでも苦しくなる。その苦しみは、自分の「我は思う、ゆえに我が正しい」という、あの誤解が生んだのです。
 
 解決方法は、自分が修行して智慧を育てることです。上司を直すことが解決ではありません。「上司の傲慢さを破ってあげよう。私は正しいんだから私はこのままでいいや」と、相手を壊そうというやり方では、うまくいくはずがないのです。
 
 そんな考え方だったら、人類を皆、直さなくてはならないことになる。だって皆、傲慢なのだから。皆が傲慢なのであれば、自分だけ傲慢ではないということはあり得ないでしょう? だから人を直すという「正義の味方」は、答えじゃないんです。
 
 まあとにかく、とりあえず落ち着くことです。あれこれと気にせずに、まず上司の言うことをよく聞く。もしかするとあなたは、上司が傲慢だと思い込んで、上司の言うことは耳に入らないのではないですか。上司が言うことも聞かずにあれこれと言うと、上司も反論するのは当たり前です。それで「こいつはやっぱり傲慢だ」とまた思うのです。
 
 人間関係は、すべて、そういう相互関係で起こるんです。普段はニコニコしている人でも、侮辱されると怒るんです。それで「あんたは怒りっぽい」と文句が言えますか。侮辱した人にも原因があるでしょう。その二つがぶつかったところで怒りが出た、別のものがぶつかったところで傲慢が出た、別のものがぶつかったところで落ち込んでしまった。そうやって感情が、あらゆる原因結果によって回転していくんです。
 
 本当はすごい怒りの持ち主でも、良い環境にいると怒りません。だからといって、聖者になったわけではない。嫌な環境に入ったら何人も殺してしまうくらいの憎しみを持っているかもしれません。その場その場で、我々の性格はグルグル変わるんです。そちらの態度によって、上司は傲慢という仮面をかぶる。そちらの態度が変わると別の仮面をかぶることになる。
 
 相手の性格は、自分の態度次第。性格とはそんなものです。自分の奥さんが鬼の仮面をかぶるか、観音様の仮面をかぶるかは、お互いの態度で決まるんです。そういう風に理解すると、人間はけっこうおとなしくなります。かなり安全に生きていけます。
 
 上司に傲慢の仮面をかぶせたのは自分だと気づくことです。人は、怒りの仮面やら、嫉妬の仮面やら、ムチャ欲張る仮面やら、無数の仮面を持ってます。その場その場に合う仮面をかぶって、外に見せるのです。愚か者は、「こいつは怒りっぽい性格だ」と決めつけるが、その人が永久的に怒っているのではない。そのつどそのつど、仮面を変えているんです。
 
 上手な人は仮面を変えるのが速いのです。下手な人は、怒ったら、その仮面をはずして別の仮面に入れ替えるために、かなりの時間がかかるんです。

自分で意識的に、上手に仮面をかぶるようにすれば良いのですか。

まあそうですが、それは普通の人にはできないと思います。

人を管理する立場の人は、わざと怒る振りをしたり、ニコニコする振りをして、仮面を入れ替えているのではないですか。

そうやって意識的に仮面をかぶることができるのは、かなり人格のできた立派な人です。「では怒ってやろうか」と考えて怒ることは、普通の人にはできません。そういう怒りの場合は、貪瞋痴の怒りではないんです。
 
 わざと仮面をかぶるということは、ほとんどあり得ない。普通は、「嫌味を言われると怒る」「ほめられたら喜ぶ」ということになるのです。「部下が言うことを聞かないと傲慢になる」というのも、そういうパターンの一つです。だって、上司が部下に「お願いします」と土下座して言えないでしょう。

個人レベルでは、皆「自分が正しい」と思っていて、人に自分の考えを押しつけられないということはわかりました。しかし、組織には組織の目的があったり、社会には社会常識があったりします。その線から外れた人は、「あの人は常識がない、行儀が悪い」等と非難されることになると思いますが、それもやっぱり、各人が持っている作法とか、目的に対する視点が違うからだ、それぞれが自分が正しいと思っていることをやっているだけだ、と見るようにするべきなのでしょうか。

そうした方が良いと思います。楽になります。

自分が志願して学校に入ったなら、するべきことをするのは当然で、その道から外れるのはおかしいと批判することも、厳密に考えれば違うわけですね。

そういうことになりますね。志願して学校に入っても、入ってみたら自分のイメージ、計画と違うところだなぁと発見してしまったら、別な行動をしたくなるのも無理はありません。しかし、わがまま好き勝手に生きることは、決して成り立ちません。自分が本当に正しければ(真理を悟っているならば)別ですが、そうでない我々、将来がわからず人生の経験がない我々は、知識人の、経験者の、自分のことを心配する人の話・アドバイスを聞くべきです。例えば子供が勉強が好きじゃなくても「人はそれぞれだ」と理解した上で話し合えば、子供も、自分のことを理解してくれているということで、耳を傾けるんです。
 
 とにかく、「私が正しい」という思考が、すごくややこしくて、すごく質が悪いのです。なぜなら「私が正しい」と思ってしまうことは、どうしようもないことなのです。「このおにぎりはおいしい」と思うことは、自分にとってはどうしようもない。そこで、他の人が「まずい」と言ったからといって、「どちらが正しいのか、どちらに従うべきか」という考え方は間違っている。私にはおいしく感じるし、そちらにはまずく感じる。それだけの話なのです。それを、「私がおいしいと言うのだから、おいしいでしょう」と押しつけるのは正しくない。花を見て「きれいだ」と思うのは人間であって、犬にとってはきれいでも、なんともないも、ない。犬にとっては、どうでもいいことで。それはしょうがないんです。それぞれの見方があるんです。
 
 とにかく我々は、その状態を把握しておくべきです。「自分が正しいと思うことは必ずしも正しいとは言えない」とわかっておく。その程度に理性的になるだけでも、かなり柔らかくなって、大事に至らずにすむのです。

「『我は思う、ゆえに我は正しい』ということは成り立たない」という文章だけでも覚えておけば、とても役に立つと思います。
 
 そこの最終的な解決法は、智慧が現れることです。ヴィパッサナー冥想で事実・真理を観ていくと、この問題も解決します。