あなたとの対話(Q&A)

無明をぶっ壊せ

パティパダー2007年9月号(121)

「無明」とはどういうことですか。

これは難しい問題です。無明には膨大な定義があるのです。簡単に説明するのは難しいですが、ここでは「生命とは何か」というところから考えてみましょう。
 
「生きる」とは何でしょうか。
 
「生きる」とは、「知る」ということです。「生命」というのは「知るもの」です。何も知ろうとしないものは生命ではありません。自分の周りの環境を知ろうとしているものが生命なんです。世の中の物体には二種類あります。「知る」ということができる物体と、「知る」ということができない物体。前者を「生命」と言うのです。それが「生命」の定義です。
 
 知る機能が生命であるとして、ここで、「では生命はものごとを正しく知っているのか」という問題が出てきます。そもそも「正しい」とはどういうことなのでしょうか。
 
 自分にとって正しいことが他の人にとっては正しくないというのは、よくあることです。自分にとって正しいことも、どんどん変わります。かつては正しかったのに今は正しくないことなどは数え切れません。過去・現在・将来を通じて誰にとっても正しい事実が真実ですが、その真実というものを知っている人はいるのでしょうか。
 
 わかりやすい例を出します。何人かの人が一本の花を見る。同じものを見ても、きれいだ、つまらない、まあこんなものでしょうなど、その人の好みやその時の気分で、いろんな意見があるのです。それでも、「少なくともこれは花だということは正しい」と思うかもしれません。しかし、猫に聞いてみればどうでしょうか。あるいは、チョウチョに訊いてみれば? 同じ花を見て、人間が何かを言う。虫が何か言う。魚も何かを言う。誰が正しいのか、それは言えません。皆それぞれ自分たちなりの「正しい」ことを言っているのです。
 
 問題は、皆、「自分は正しい」と思っていることです。頑固に自分の意見に執着するのです。自分の判断に強くしがみついて「これが事実だ、これこそ真理だ、これは当たり前だ」と思うのです。自分にとっての事実を人に強引に押しつけようともするのです。
 
 しかし、過去・現在・未来にわたって誰にとっても正しい事実、「真理」というものを見ている生命はいないのです。皆、自分の主観の世界で、自分だけの殻の中で、認識しているだけなのです。「知るもの」である生命が、正しく知らない。主観的に自分勝手に知っているだけ。結局、自分が得たデータを変にねじ曲げて、湾曲して、逆さまにして、好き勝手に認識しているのです。それを「無明」というのです。
 
 生きることは知ることから始まります。歩くことも、食べることも、仕事することも、結婚することも、喧嘩することも、どんなことにしても、まず知ってからやることでしょう? その「知る」ということ自体が正知ではない。知る物体である生命が、真理を知ることはない。それを無明というのです。無明は生命に基本的に具わっているものなのです。

ただ単に知るだけであればいいんですか。知ったことに価値観みたいなものを作るのが煩悩なんですか。

そうです。ただ単に「知る」だけであるならばいいと思います。
 
 しかし、「知る」だけにしようと思っても、それができますか? 思うほど容易い行為ではありません。我々には自分の主観、価値観、都合が前提としてしっかりあるのです。その前提を基準にして知るのです。だから、知っただけでも主観なのです。知るためには、何かの基準が必要です。「高い」と知った瞬間に、何かを基準にしているのです。何も基準がなければ、高いとも低いとも言えないのです。ですから、価値観は二段階で「知」に割り込みます。何かを認識したならば、それを知ると同時に基準があり、その基準にすでに価値観が入っている。次に、知ったものについてあれこれ考える。そこにも自分の価値観がはたらいています。それらの価値観が煩悩です。

何かを知ったら、もうその知が正しくないのなら、生命はどう頑張っても誤知の罠から抜けられないということになりませんか?

「無明である生命は限りなく輪廻転生しているのだ」と仏教で説くのは、その理由です。「生命にとって輪廻こそは最大の脅威である」とも説かれています。(saṃsāram assa mahabbhayaṃ)
 
 誤知は瞬時に起こります。おにぎりのデータが目に触れた瞬間に、「おにぎりだ。おいしいものだ」と、すでに自分の都合で、正しくない知が現れている。そういうわけで、「知る」だけの認識が自然に生まれるのは不可能です。正知には特別な訓練が必要なのです。仏教で言う修行とは、誤知を正知に入れ替える訓練なのです。ですから、仏教の修行はすべての人間に欠かせないものです。
 
 人は、ヴィパッサナーの修行によってのみ、真理を知ることができます。冥想実践で認識システムを変えるのです。実況中継を力強くがんばって、判断できないように、妄想できないように、思考できないようにして、妄想を作るシステムをとにかく停止させるのです。妄想を停止させて措いておくと、データがそのまま流れる状態をつくることができます。そこで本当の真理の世界が見えてくるのです。
 
 今の私たちには、怒りがあるわ、嫉妬があるわ、憎しみがあるわ、欲があるわ、あらゆる感情があるでしょう? 疑いも、物惜しみも、嫉妬も、あれもこれも、きりがない。それは全部認識から生まれています。だから軽々く「誤知」と言ってすますことはできません。誤知こそが、苦しみ悲しみに陥らせている、あらゆるトラブルをつくっている犯人です。誤知が正知になるようにこころを育て上げれば、欲、怒りなどの感情から解放され、善でもない悪でもない、超越した安穏なこころになるのです。それは無明がなくなった状態なのです。

無明と無知は同じですか。

同じといってもいいですが、微妙なニュアンスの違いがあります。ですから、原語(パーリ語)でも、avijjā(無明)と、moha(無知)という別の単語が使われています。
 
 無明とは、生命の「知る機能」の基本的なはたらきで、一切の生命に共通しています。我々の普通の認識では、無明は発見できません。
 
 無知は、日常茶飯事で起こっている煩悩です。我々は、欲が起きると発見できるし、怒りが起きても発見できます。認識対象に対して欲も怒りも現れない場合は、無知があるのです。「面白くない、興味がない、つまらない、たいしたことはない」という状態だというと、わかりやすいでしょう。
 
 例えば本を読んでいて、その本に興味がなかったり理解する気持ちがない場合は、眠くなるでしょう。無知が長い時間続くと、だるさと眠気が現れるのです。そのように、無知は日常の認識過程で現れます。我々が無明に出会うのは、ヴィパッサナー冥想が成功して、悟りの境地に入る時なのです。

無明はわからなくても、無知くらいは「嫌なものだ」と気づけると思います。なのに、なぜ我々は無知から脱出しないのでしょうか。

残念ながら人間は、無明、あるいは無知という状態が、すごい強烈です。「見たくない。知りたくない。努力したくない。このままそっとしておいてほしい」という気持ちが常にあるのです。
 
 我々が何をしても、何に挑戦しても、この基本的な気持ちを支えてあげるためにやっているのです。覚えやすい表現で言うならば、「怠けるために頑張る」ということです。我々の生き方は常に矛盾に満ちているのです。
 
 人は、無明を破ることより、隠しておきたいと思うのです。皆、「汚いものは見たくない、見せたくない」と隠そうとするでしょう? 自分の弱いところ、恥じるところ、怠けるところなどは、他人に隠しておきたいのです。それどころか自分自身にも隠すのです。「自分は怠け者ではない。よく頑張る人だ。頭も悪くない」と、こころに暗示をかけるのです。これは無明から現れる現象なので、すべての生命のこころの基本的なはたらきです。
 
「見栄」という言葉で言えばわかりやすいかもしれません。生命は、誰でも、見栄という心理的なはたらきで生きているのです。例えば、私たちの体は本当はすごい不浄なものなのです。それを皮膚で隠している。その皮膚だけを磨いて、磨いて、「私はきれいだ、シワひとつなくつやつやだ」と言う。植物の手入れをする時でも、目にきれいに映ることだけを考えて、それだけやっている。あらゆることにおいて、とにかく表をきれいに見せよう、見せようとする。そういうのはすべて「隠そう」という原理なんです。
 
 無明とは、とにかく煩悩の一番基本的なもので、いろんな煩悩はすべて無明という煩悩の上に成り立っています。無明の衝動で生きているのだから、生きる土台になっている無明を壊したくない。川の真ん中で板切れに乗って命が助かっている人は、その板切れを壊す気持ちにはならないのです。しかし、陸に上がったところで、板切れを捨てるのです。

無明をなくすには、どうすればいいのでしょうか。

無明とは智慧がないことだから、智慧が現れたら無明がなくなります。それを悟りと言っています。智慧は一日にして突然には現れません。無始なる過去から無明で生きてきたのだから。段階的に向上する必要があります。八正道は無明を破る唯一の方法です。八正道の第一は、正見です。無明の上に生きる我々の見解はほとんどが邪見です。邪見をなくせば正見が現れます。悟りという最終目的を目指す人は、「すべての概念・観念・思考は邪見である」と決めた方が便利です。それは前にも説明した「知は正知ではない」という意味です。
 
 正知を得るには感情でものごとを知ろうとしないことです。感情でものごとを知ると、理性がなくなるのです。感情と理性は相容れないものです。我々は理性を育てるべきです。理性を育てる近道は、仏法をよく学んで理解することです。ブッダの教えが正しいか否かを自分の能力で確かめてみる。わからないところは何回でも質問して対話してみるのです。
 
 仏法を学ぶ課程で問題が起こらないようにするための裏技があります。「ブッダの説かれたことはすべて真理だ」ということを前提にしておくのです。仏法を学んだり対話したりしていると、ブッダの意見と違う意見に傾いたり、仏法を認めたくなくなったりすることもあるのです。その時は、「ブッダが間違うはずがない。ここは我々の理解に何か問題があるのでしょう。我々が知らないことはたくさんあるのだから」と思って、さらに探求するのです。ブッダの説かれた真理は、世間で真理だと思われているものとは一致しないのです。逆に、反対であることが多いのです。それもそのはずです。世間は無明に基づいて事実を発見しようとしています。ブッダは智慧に基づいて真理を発見したのです。ですから、世間の知識を頼りにしてブッダの真理を理解しようとすると、ぶつかるところはいくらでも現れます。学ぶ人が、先に紹介した裏技を使って励むと、真理が理解できるようになるのです。
 
 ではブッダが真理として語っているのは何かというと、四聖諦、苦集滅道という四つの真理です。機能で説明すると、苦諦とは自分が発見するもの。集諦とは自分が切って捨てるべきもの。滅諦は自分で経験するもの。道諦は自分で実行するものです。
 
 苦諦という、自分が発見するべき真理とは何かというと、「無常である、無我である、苦である」という三つです。そして、それらは因縁によって生まれるということです。世の中にある真理というのは、それだけ。それしかないんです。
 
 しかし、我々には真理はわからない。人は、「いろいろなものは無常ではない、常にある」と思っています。
 
 あるいは、皆、「自分がいる」というのは何よりも当たり前だと思っています。それは仏教の人であろうがなかろうが関係ありません。悟りを開いてない限り、必ず自我という概念があります。「我」というのはただの幻想で、別にあるわけではないのですが。人は、その間違った前提の上で、道徳、倫理、哲学、生き方、経済、政治などなど、すべての概念をつくっています。宗教も同じことです。神様がいるかいないかというのも、「私がいる」という固定観念から始まるのです。唯物論も同じく完全な我論です。「自我がある」という立場から見て、「すべては物質にもとづく」と主張するのです。ありとあらゆる世界観、人生観、哲学などはすべて、「私」というものがあると仮定して、その上で「私はどうなるのか」「では私はどうするべきか」と思考する。「皆に親切にしなくちゃいけない」と言うにせよ、「そんなことしなくていい」と言うにせよ、どっちにしても「自我がある、私がいる」と思った上の概念です。
 
 苦(ドゥッカ)も同じことです。苦とは「何をやっても空しい、不満である」ということですが、それは誰も認めません。そこは真剣に考えてほしいんです。皆、世の中のことをどう考えて生きているのか。世の中を「苦(dukkha)だ」と知って行動している人がいますか。一人もいません。ドゥッカであることは実感しているはずなのに、「そうではない、そうではない」と打ち消しているのです。「いつか幸福になるんだ」「これから良くなるぞ」と、今の瞬間の苦を否定するのです。「お金を儲けたらすごく幸福だ」と思う人が、大金持ちが本当に幸福なのかどうか見ようとはしません。そこは無視するのです。「昔は良かった」と思うのも同じことです。人は、基本的に、現象を「苦ではない」と思いたがっているのです。苦ということを否定した上で、私たちは、哲学をつくり、宗教をつくるのです。
 
 そういうことで、無明と言えば、人間の意識でつくっている人間の文化そのものです。すべては、間違っている土台の上につくられているのです。無明とは、無常であることを無常だと見ない、苦であることを苦だと見ない、無我であることを無我だと見ないこと。それが無明なのです。
 
「自分は無常くらい知ってるぞ」と思うかもしれません。しかし、花が枯れるのを見て「やっぱり無常だ」と言うのは、木に相対してみて言ってるだけで、本物の無常ではありません。本当の無常は相対的なものではないのです。概念も何もなく「無常だ」と発見しないと、本物ではありません。無常、苦、無我を発見する時は、概念はないんです。無常、苦、無我は、悟らない限りは見えません。修行して、はっきりと発見する必要があるのです。
 
 ここまで話したことを理解できれば、見事な理性のある人間です。冥想実践してみれば、悟りに達することができます。それで無明が完全に破られるのです。