あなたとの対話(Q&A)

「自我」の舞台裏

パティパダー2008年2月号(126)

「無我」ということがよくわからないのですが、「私がいる」と思っているのは錯覚なのですか。

そうです。幻覚が本物で見えてしまうというかね。事実が見えてないのです。

なぜ幻覚を本物だと思ってしまうのでしょう。

それは、ものごとの真実が見えないという性格、いわゆる無明、無知のせいです。幻覚を捨てることなど別にどうということはないはずなのに、無知のせいですごく難しいことになってしまっているのです。
 
 たとえばこちらの敷物を見ると、「きれいな絨毯がある」と思っちゃうでしょう? でも、これは、ただ単に、横と縦に織り糸を組み合わせているだけのものにすぎません。その織り糸もまた、何かを組み合わせて一時的につくられている現象にすぎないんです。しかし我々は、これを見ると、頭の中で瞬時に映像をつくって、「きれいな絨毯だ」と思ってしまう。私はそうやって頭の中で現象を組み立てることを、「ねつ造」と言っています。無明の中にいる我々は、頭の中でねつ造した感覚を、事実だと思ってしまうのです。
 
 たとえばある種の音を聴いて「すばらしい演奏だ」と思うのは人間だけで、犬猫には決して「音楽」ではありません。人間にしても、若者が大好きな音楽が、大人には騒音で聞こえたりもする。だから「音楽」というのも幻覚で、耳に触れたデータをねつ造しているんです。
 
 感覚の対象が六つのチャンネル(眼耳鼻舌身意)に触れると、我々は、そこで感じ取ったデータから頭の中で何かを合成して(ねつ造して)しまうのです。ですから仏教では、それを手品師のトリックにもたとえています。すべては手品のトリックと同じようなものです。あるいは、舞台にもたとえられます。舞台も、客席から見ると、すごくきれいに見えるでしょう? しかし、舞台の裏側から見れば、ペラペラの安っぽいセットにすぎないんです。舞台とは、舞台デザイナーが、いかに幻覚を作ってやるかと考えてがんばっている作品です。観客はその幻覚を楽しんでいるのです。我々は、舞台を見る時は「これは幻覚だ」と知っていますが、ふだん頭の中で組み立てた現象は、「これが事実だ」と思っているのです。
 
「私」というのは、我々が感じて頭の中で合成したものを総合的にまとめた現象につけたラベル(言葉)にすぎません。感じて、考えて、感情をつくって、幻覚までつくって、それを全部まとめたワンセットに、「私」と言っているのです。そのワンセットはどんどん変化していくのに、その変化もまとめてまた「私」と言っている。そこがわからずに、「私」というものがある、「私」がいる、と思っている。それはただの勘違いです。そこを勘違いせずに事実に気づいていなさいというのが、仏道です。
 
 自我というのはかなり迷惑なもので、自我で欲を出して何かしても、何ひとつうまく行かないんです。自我がなくものごとをやると、何でもできます。ですから「自我はない」といっても、大事な宝物を捨てるということではないんです。いろんなトラブルをつくってくれる幻覚を破るということで、すごくありがたいことなんです。

いつも疑問に思っているんですが、「我がない」というのは、頭ではそうなんだろうなと思うんですが、実感としては全然そういう感じがないんです。「私はいる」と思ってしまうことがすべての間違いのもとだということらしいんですけれども、いったいどうしたら「無我」ということがわかるのか…。

まあ、「自分というのは幻覚である」とわかったところで悟りですから、それほど簡単にわかることではないかもしれません。これが難しいのは、知識で考えるからです。智慧が現れない限り、本当のことはわかりません。智慧が現れて、生きるということの舞台の裏側を見ない限り、わからないんです。
 
 人は、たいがいは、舞台を見ておもしろがるだけで、舞台裏には興味は持ちませんね。しかし、時々、舞台裏に興味を持ったりする人々もいるでしょう? 私もその一人で、舞台裏に興味を持つ。人生も、表ではなく、舞台裏に興味を持ちます。表は信じません。
 
 とにかく、人間が幻覚を楽しんでいる限り、裏を見ようとしない限りは、自我というのはずっと、あるかのごとく思えるのです。ですから仏教では、いつでも舞台裏を教えています。たとえば、死のことを隠そう、隠そうとするこの世界で、「必ず死ぬ、それが本当のことだよ」と、死を観察させる。あるいは、なんとかだましてでも身体を美しく見せようと必死になっている世界で、身体を、髪の毛、爪、皮膚、内蔵、汗、体液、筋肉、血液など、三二の部分に分けて観察させる。この身体は美しいものではなく汚物の垂れる醜いものであると、舞台の裏を見せちゃうんです。その中のどこに自我があるのか、腸が私ですか、心臓が私ですか、大便が私ですか、と。あるいは、目が私でしょうか、耳が私でしょうか、目で見えるものが私でしょうか、見たという視覚が私でしょうか、と。そうやって調べていくと、「私」はいないんです。愚か者は、「それでもどこかにあるはずだ、あるに違いない」と思ってしがみつく。智慧のある人は、調べても「ない」なら、「ない」と認めるんです。
 
「すべての現象は無常であって、変化するものである」ということは、ありありと見える事実なのに、皆「永遠に変わらない自分(我)がいる」という思いに凝り固まっています。「自我がある」というのは、ただの信仰です。信仰するのには事実はいりません。証拠もなく、証明もできないから、信仰するんです。だって、証拠があるなら、別に信仰する必要はないでしょう?「太陽がある」ということを信仰する人はいませんね。当たり前のことなのだから。しかし、「太陽は神だ」と言うならば、それは信じないといけなくなるのです。
 
「私」という幻覚が特に問題なのは、「自我がある」「私がいる」と思い込んでいるところから、一切のトラブルが生じるからです。たとえば、「会社でうまく行ってない」という悩みにしても、「姑さんが言ったことが許せない」という恨みにしても、全部、「自分がいる」からでしょう? 自我という幻覚が、すべての苦しみを作ってしまうんです。人がなんと言おうとも、自分が頭の中で好き勝手に合成しなければ、怒りは出てこないのです。合成してねつ造するためには、「自分」という幻覚が必要なんです。「私はののしられた」というのはねつ造で、事実は、ただ音が耳に触れただけ。そこを、「自分」という思いでねつ造して、「私をののしった」という最終結論を出す。それで延々と苦しむんです。自分で苦しむだけならまだいいんですけど、他人にまで迷惑をかける。そうやって罪まで犯しちゃうんです。なぜ止めるべき妄想を延々とやっているのかというのも、これまた自我なんです。すべて、自我という錯覚のせいです。
 
 これは生命の基本的な問題で、生命である限り、「自我」という幻覚があるんです。それは、仏教の修行によって智慧を開発する以外は、なくせないんです。何かを見て、「これはおもしろい」「これは好きだ」と思ったら、そこにもう自我が潜んでいます。

私は動物が好きなんで、猫や犬を見たら「可愛いな」と単純に思っちゃうんですが、それも、そういうねつ造なんですか。

では蛇を見たら?

蛇は、あまり好きじゃないです。

そうでしょう? ということは、やはり主観的な感情で、自我ですよ。

動物を見て「可愛いな」と思うのは、慈しみではないんですか。

慈しみで見るならば、蛇でもゴキブリでも可愛く見えるはずなんですけど、どうですか?

いや、そうは見えないです。

ですから、主観でしょう? 犬を見て「なんと可愛いか」と思うからといって、「私はなんと親切な人なのか」ということにはなりません。結局は、それも自我なんです。
 
 実際に「私」という主体があるならば、「私は犬や猫は見たいから見るけれども、虫や蛇は気持ち悪いから見ません」ということができるはずですが、それは不可能でしょう? まあ、その場合は目を閉じることはできるかもしれませんが、これは実験だから、条件を変えたら成り立ちません。同じ条件で見せたならば、目に触れたものは、見たくなくても見える。あるいは、音にしても、適当に自分が好きな音だけ聞いてくださいと言われても、そんなことできるわけじゃないでしょう? あるいは、私はこれからあんたをさんざんブン殴りますけど、決してあなたは痛みを感じないでくださいと言われても、できませんね。
 
 だから、「自分というものはない、こころも体もただのエネルギーの流れであって、そこに「私」というものは、どこにもない。だから何ひとつも自分の思う通りにはならない」ということを、仏教は徹底的に言うんです。それが事実なんです。

無我は虚無主義的ではないですか。

いいえ。「ペガサスはいない」と言っても、虚無主義ではないでしょう。その場合に言っているのは、人間はペガサスのことを妄想して物語を作っているが、ペガサスは実在しない、ということです。いわゆる本当のことを言っているのです。
 
「自我がない」というと否定的に聞こえますが、無我は「全く何もない」という虚無的な意味ではありません。すべての現象は因果法則によって流れていくのであって、「ある」でも「ない」でも、どちらでもない、ということです。瞬間瞬間変化していくエネルギーの流れであって、そこに「自分」はない。ただ、現象を積み重ねたところで「自分」という実感が生まれるにすぎないということなのです。釈尊は、「あなた方が魂だと見ているものは、魂にはなり得ない。認識は眼耳鼻舌身意の六つのチャンネルに入るもののみです。それらはずっと変化していく」と、正しく中道を守って、我を否定したのです。「魂はある」という実体論・我論を否定して、同時に「全く何もない、単なる空だ」という虚無主義も否定しているのです。ものごとは因縁によって生まれるという中道を教えているのです。「全く何もない」と言うと、偏ってしまう。そういう偏りはありません。中道なんです。因縁によって流れていくという因果法則を説くのが仏教の教えです。
 
 それを聞いて皆がショックを受けるのは、ずっと「確固たる自分というものがいる」と信じ込んでいたからです。しかし、失うものは何もないのです。ただ「魂のような、命のような、何かがある」「私というものがいる」と思っていただけで、そういうことは、今もないし、今までもなかったんです。無我というのは単なる事実であって、事実がわかったからといって、何も損することはないのです。損をするどころか、それですごく楽になるんです。