空しい世界で幸せに生きる
パティパダー2008年3月号(127)
最近、テーラワーダ仏教を学んで、「輪廻から解脱するというのは簡単ではない、難しい」ということが、学べば学ぶほど解ってきました。そこでお聞きしたいのですが、どうしてこんなに「悟るのは難しい」のでしょうか? なぜ、解脱にいたる道は厳しいのでしょうか?
ホントは、真理はすごくシンプルなのです。どこを見てもあるのは真理ですから。問題は、我々の知る機能に少々の問題があること。その少々の問題を解決すれば、真理を発見できます。真理を発見した人が、解脱に達します。この少々の問題とは何でしょうか? 我々が何かを認識するために、その認識する対象が実在しないといけないのです。「あるものは見える、ある音は聞こえる」と言うと、当たり前のことでしょう。反対に、ないものは見えないし、ない音は聞こえない。もし見えたり聞こえたりするならば、それは問題でしょう。そこで我々の一切の認識は、現象が「ある、実在する」という立場なのです。人は、見たり聞いたりして得た知識をさらに頭の中で考えたりする。その場合は、実際この世に無いものも考えられる。基本的には、現象が「ある、実在する」という立場なので、頭の中で妄想した概念まで、「ある、実在する」ということにしてしまう。この世で、大半の人々にとって、「絶対的神様は実在する。自分には永遠不滅の魂が存在する」のです。
物事は「ある、実在する」のではなく、変化して、変わっていきます。変化せず止まっている現象は一つもありません。認識できるのは、「ある、実在する」ものなので、変化の認識は、一般の知識レベルでは認識不可能です。自分の世界は、明らかに瞬間たりとも止まることなく、「変わりつつ、変化しつつ」なのに、それだけは認識できないのです。
「そんなのは知ってるよ」と思うでしょう。今日、ある人に会って、また十年経ってからその人に会うと、「変わったなぁ」とわかる。その人は、九年十一カ月くらい経ったところで変わったわけではなく、瞬間瞬間、変わりつつ、変化しつつだったのです。それが解らないのです。ずうっと一緒に生活する人は、毎日変わっているのにそれに気付かないで、問題を起こす場合もあるでしょう。私たちに「ある、ある、実在する、実在する」だけではなく、「変わる、変わる」ということも認識できれば、この少々の問題は解決できるのです。それが出来ない限りは、解脱は無理です。「無常がわからないこと」というちょっとした私たちの弱みが、真理を知ることを難しくしている。べつに真理は真理だから隠れていないのです。地球が丸いという真理は、どこかに隠れていたわけではない。地球ははじめから丸かったのです。でも我々はそれを知らなかっただけ。ですから、ちょこちょこっと自分の心を整理整頓するだけのことです。
長老の本を読んで自分なりに冥想をしています。私は四年前まで大酒のみでした。お酒を飲むことはよくないと思っても、なかなか止める理由を見つけられなくて……。でも自分なりに一生懸命、冥想をしていたら、ある日突然、何の理由もなく酒が止められたのです。これって冥想をやって現れた智慧なのかなと。ということは、生きることは死につつあることである、という「無常」の実感も、いまの冥想を続けていけば、ある日わかる日が来るのでしょうか。そうやって、信じて続けていけばいいのでしょうか。
その通りですよ。ブッダの道に入ると、人は「悪を犯せなくなる」のです。貴方に起きたのはそういうことです。それでも、すべての悪を一発で止める、というのはなりたたないのです。ふつうの人にとって、悪いことを止めるのは至難の業で、苦しいんです、悪いといわれていることでも、本人は好きでやっているのだから。したくてたまらないのだから。
仏教を学んでいない人に、「嘘をつくなよ」といっても期待できません。本人にとっては、嘘をつかないでいることが苦しいのです。でもいったん道に入ったら、何のことなく「あら、止めている」ということになる。理由なしに、「どうして止められたんだろう?」と不思議に思うほど「ただ、酒を飲みたくないだけです」となる。それが正しいのです。こころが本当に治った、本物だ、きれいになった、ということです。そのこころは、もう逆戻りしません。それから、ずうっとブッダの道で進んでいきます。ですから、これからも仏法僧への信頼を持って、頑張ってみてください。
冥想を少々やってみました。振り返ってみると、酒が大好きであった私は酒を止めていました。飲みたいという気さえも、起こらなくなった。では冥想というのは、飲酒を攻撃する、非難する作業でしょうか? とんでもありません。冥想というのは、自分とは何かと、変な妄想をしないで、変な主観に頼らないで、ありのままに観ることです。それだけで、人は何の無理をすることもなく、成長するのです。酒だけではなく他の悪も、振り返ってみたら止めているはずです。物事に対する執着が薄くなっているはずです。「ものはある」ではなく、「変化しつつ、変わりつつの一時的な現象である」と、何のことなく気づくはずです。何の不思議もなく、自然の流れで悟りに達することもできるのです。
お釈迦さまの教えを学んで、これから頑張りたいと思っています。しかし、仏教で一点だけ納得していないことが「輪廻」です。輪廻についてある部分は納得できるし、ある部分はひっかかってしまう。全部は信じていません。こういう人間がこれから、お釈迦さまの弟子の末席で連なっていても、解脱できる可能性はあるのでしょうか?
大丈夫、気にしないで下さい。ブッダの教えに納得できないものがあっても大丈夫です。ホントのところを言えば、仏教の話には「ひとつも納得できない」はずなのです。我々はアベコベの世界に住んでいるのだから、ひとつも納得できないはずですよ。それでも仏教の話を聞いて、この程度なら納得できるぞ、これなら理解できるぞ、というふうに、人は徐々に成長していくのです。ひとつふたつくらい納得できないことがあっても、なんのこともない。ふつうですよ。仏教は自由な宗教だから、「あなた完全にそれを信じなくちゃダメだ」ということはないのです。例えばブッダが、「私は解脱・涅槃について解らないんですよ」と訊かれたら、「あのね、君に解るわけないでしょう?、そんなこと放っておきなさい」と答えるはずです。納得いかないものは、「私には納得いかないのだ」ということを正直に明確にしておけば、そのうちに、答えがおのずと出てきます。解脱には何の妨げにもなりません。
人生は空しいということと、幸福に生き生きと元気に生きるということが繋がらないのですが、少し詳しく説明していただきたいと思います。
具体的に言うと、悩みやら落ち込みやら苦悩やら、やりきれない気分や、悔しい気分、そういうものを抱きつつ生きることは明らかに不幸です。しかし、仕事が苦しくても、試験勉強がしんどくても、子供がわがままで迷惑をかけても、上司は自分に怒鳴るほか何もできなくても、自分がそれらに足を引っ張られることなく、何のことなく乗り越える。苦しいけど、何とかやってのけられるなら、幸福ではないでしょうか?
「人生は空しい」とは、人生に価値を入れることと比較して、「人生には価値はないんだよ」ということです。生きるとは、価値のないものが回転していることなのです。人生はこの上のない価値あるものだと思うと、耐えがたい苦しみに襲われてしまう。たとえこの世で大成功をおさめていても、その人は老いるのです。病気になるのです。いままでやってきたことは、すべてできなくなるのです。やがて自分が苦労して得たすべての財産、権力、名誉などを捨てて、死んで去らなければいけないのです。何一つも自分のものにならないのだと理解して、気楽に生きれば、苦難に陥らずに済みます。
仏教でいう幸福とは、「悩み苦しみがないこと」です。仏教的に生きてみると、人生をある程度、苦しみ少なく、穏やかに生きることができます。俗世間が幸福だという生き方を簡単に実現できます。しかし、悩み苦しみがなくても、空しいものは空しい。最終的に空しいとわかると心は解脱に達しますから、それを究極的な幸福だというのです。解脱という目的を設定して生きてみると、この世で生きている間でも、ブッダの道を歩く人は成功者なのです。仏教は敗北の道ではありません。現実的で、具体的な期待しか作りません。だから「私は死なないように、病気に罹らないように」と大それた期待を持つのではなく、「もう少し仕事を上手くやってみよう、いまワンルームだけど2DKに住んでみたいな」とか、それぐらい具体的な希望で、現実的に達する目的に挑戦する。しかし、その目的にもそれほど執着しない。執着もしないで成功を目指して努力する、ということは、仏教に通じてない方々には理解しがたいややこしいことでしょう。仕事はバリバリやりますけど、首になったって、「あっそう、ハイさよなら。どうってことないんだよ」と平気でいる。執着しないで、頼まれた仕事は、誰にも文句を言えないようにちゃんとやる。仏教の人は、やることは徹底的にしっかりやってやろうと挑戦するのです。でも、「生きることはどうってことないのだから、失敗しないでやっているのだ」とクールにいる。それが仏教の道なんです。
言葉上では、人生は空しいということと、幸福に生き生きと元気に生きるということは相反して聴こえますけど、ぜんぜん矛盾していません。例えば、善いことが起きても、悪いことが起きても、ブッダの弟子には笑い話以外の何でもないのです。ブッダの弟子は、何が起ろうがすぐ笑えるんです。「ああ、なんだこれ! 大変だ」ということはないんです。そういう気楽さが、幸福ではないかなぁ、と思います。世の中では、どうってことないことに執着して、精神的に苦しんでいます。本当はこの世の中では、べつに大変なことなんか、ひとつも起きません(すべては因縁で起こるのですから)。でも「変なこと」ならいくらでも起りますよ。みんな論理的に考えないでしょうし、人間が屁理屈でやっている行為はいくらでもありますし。なんでみんな、それを発見しないのかと。「大変なことが起きたんだ」と顔を真っ赤にして、汗をたらしてうろたえるような「大変なこと」はひとつも起きません。四六時中、起きているのは、笑ってしまう変なこと。
というわけで、人生は空しいのに、幸福の道がある。それがブッダの教えだと理解してみてください。
興味本位の質問で申し訳ありませんが、自分は「悟り」というものは、うんと修行して運よく達することができる、雲の上のもの、蜃気楼のようなものと思ってしまうのです。実際、テーラワーダを修行している僧侶の方では、阿羅漢という悟りに達している方は現在どれくらいいらっしゃるものなのでしょうか?
それは誰にもわかりません。自分が修行して、本当に成長したら、師匠以外に誰にも口を割りません。知る方法もないんです。それだけは決して、我々は宣伝しません。「修行すれば悟れるんだよ」ということは堂々と言うんです。「ほら見てください、あの人も悟ってるんだよ」という、俗世間のだらしない宣伝のやり方は真似しません。禁止されています。偉大なる世界を遊びの玩具にはしないのです。いま「蜃気楼」という言葉が出ましたが、悟りが蜃気楼ではなくて、悟りの境地こそ本物の世界で、いま我々が、蜃気楼の中に居るのです。ですから、我々の仕事は「幻覚を破る」だけのことです。それで悟りに達します。いったん冥想をはじめて、ただガタガタなんとかやっているだけの時は、人に自慢したくなるんです。自分はこれくらい冥想をやっているんだぞ、と。でも、こころがどんどん成長過程に入ると自然に黙ってしまうのです。誰にも言わない。アドバイスが欲しいときは、冥想を教えてくれる指導者にだけ、「これはどうなっているんでしょうか?」と聞きますけど。
仏教に興味を持って、悟っている人がいるか知りたいという気持ちはみんなにありますが、こればっかりは、どうにもなりません。仏弟子は、悟っている仲間以外には報告しないのです。悟っている人が、他の人から個人的に解脱の報告を聞いたとしても、それを他人には言わない。仏教というのは、なんだかそういう世界なのです。面白いことに、一致団結して「言わないことが筋である」と思っているのです。それまた、とても自然なんです。言いたいけど言わない、ということも微塵もない。最初の預流果に悟る前でも、冥想のレベルが上がると「これは黙っておこう」となります。見込みがない、能力が足りない場合は、いいふらす可能性がないわけではない。それで、その人はやっぱり……ここで終了、ということになってしまう。それが法則です。自我を捨てなければいけない冥想の世界で、「自我を張った」のだから。仏教では自分の境地を吹聴することは、戒律のなかで特に厳しく戒めているセクションです。
悟った人の宣伝はしない代わりに、仏教でははっきりと、一人ひとりに結果を出してみせますよ。ブッダの道は、ちょっと冥想してみただけでも、それなりに人格は変わることを見せているはずなんです。匂いをかいだだけでも満腹になるくらい豪華な料理を、食べてみたらどうなるのでしょうか? 仏教は、匂いをかいだだけでも幸せを感じる、とてつもない世界なのです。ちゃんと実践してみれば、確実に解脱に達します。でも解脱に達した人は、決して自分を宣伝しないのです。