あなたとの対話(Q&A)

出世したいという欲、五戒の不飲酒戒の範囲、無駄話は嘔吐物、中道的な生き方

パティパダー2009年3月号(139)

・出世したいという欲
・五戒の不飲酒戒の範囲
・無駄話は嘔吐物
・中道的な生き方

毎日、冥想していて気になることがあります。それは、自分に出世欲、認めて欲しい、評価して欲しい、という欲があるということです。そういう欲を取りたいと思うのですが、なかなか取れません。どうすればいいでしょうか?

生きているうえでは、我々には自我意識というものがあるのです。これは、はじめは恐ろしいエゴ(自我)そのものです。自分のためならどんな悪でもやってしまう。自我を肯定するために、恐ろしい世界を作ってしまう。しかし、仏道に入った人は、欲も怒りもかっこ悪いと、釈尊が説かれた理性ある品格ある文化人の世界、アリヤ(ariya)の世界に、どんどん入り込んでしまうのです。「欲はかっこ悪い、クールではないのだ」というふうに心が向上するのです。

 それで自分のためなら何でもやるという恐ろしい気持ち、エゴは消えますが、「自分がいるんじゃないかなぁ」という気持ち(セルフ コンシャスネス)は相変わらず残ってしまう。でも悪いことはしません。この「自分」という意識が完全に取れるのは、最終的な悟り(阿羅漢果)に達するときです。そうなると俗世間では生活不可能です。ふつう俗世間で仏道修行する方は、高い悟り(不還果)に達しても最後の段階は残るのです。それで困るかといえば、ぜんぜん困りません。悟りの第一ステージ(預流果)に達したら聖者の仲間です。そこで、ある一定の時間がたつと自動的に煩悩がなくなって次のステージ(一来果、不還果)に進むのです。預流果に至れば、それで修行を達成したことにはなります。聖者の仲間に入ったからです。

「自分がいる」という自己意識は自然な法則で生まれるもので、邪見というものではない。邪見とは「尊い真我がある。それがどこかに隠れている」といった、他宗教でいう不滅の霊魂の話です。仏教を学んで、そんなものは成り立たないと分っても、「自分があるんじゃないか」という気分は残るのです。それも煩悩の一つですが、大胆なトラブルは起こしません。どんな手段をとっても出世したいというのは恐ろしい欲ですが、仕事をして出世することは自然な流れです。

「出世したい」というくらいの気持ちをもつのは、悪くないのです。厳密に言えば煩悩ですが、罪に、悪には至らない。逆に善い行為に至る可能性も大いにある。危険視する必要はないのです。たとえば冥想会を開いて皆で仏教を学ぼうということになったのも、皆の欲が減っていって、でも何かやりたいという気持ちが残っているからです。心の中で、何かやろうという煩悩が善い方向にはたらいたのです。まだ修行中で煩悩はあるけれど、仏道のおかげで、煩悩が人によいことをさせるのです。想像できないくらい人に成果を出させる、その成果も人のためになる。それは奇跡的なことです。

 欲は恐ろしいものです。欲のせいで痴漢もするし、物を盗むし、人も殺す。ブッダの道に入ると、まだ欲があっても、欲で善いことをさせるのです。人は、自分で何かやったという喜びを感じたいのです。それも欲といえば欲ですが、悪いことはしません。人は結局、出世したいという欲がなければ、解脱にも達せられないのです。欲というものは、ふつうは堕落する方向に働きますが、真理の道を歩むと、同じ欲が人を向上する方向に押してくれる梯子になるのです。梯子を登ったら、もう梯子はいりません。仏弟子にとってはこの煩悩が、危険なところから安全な場所にのぼるための梯子になってくれるのです。

 修行している人が欲で失敗するのは、あまり仏道を理解していない場合です。まじめに修行する場合は、煩悩がよい方向に機能します。それが自然な流れです。堕落しないように、もうひとふんばりでよい方向に変化するように、欲で人生の道をガイドしてもらう。だから、出世したい気持ちは、無くしてはならないと私は思います。論理的に、人々のためを思って、自分やまわりの幸福を思って出世しようというのであれば問題になりません。人は何もしないと、堕落して壊れてしまいます。堕落はいやだ、退化はだめだ、進化するべきだと励み続けなければいけないのです。危険なエゴをなくして、「自分を退化させてならない」と煩悩を善い方向にはたらかせて、自分が進化する道を歩むことです。

 それから、認めてほしい、評価してほしい、という問題があります。それはエゴが引き起こす感情です。エゴがはたらくと、自分の存在が小さく感じるのです。社会が巨大に感じるのです。その社会に認められると、小さなエゴが安心するのです。気分がよいのです。エゴが固定するのです。エゴがなくなって、自分が成長したい、堕落はしたくないという気持ちになると、それほど他人に認めることを要求しないのです。煩悩を無くしたい、心を成長させたい、解脱に達したいという出世欲で生きる人は、自分にとっても他人にとっても善いこと以外、何もしないのです。社会が認めざるを得ない状況になるのです。

 認めてほしいと行う行為は、悪行為になる、迷惑になる可能性が高いのです。認めてくれても、否定されても、私は自分の幸福になる、他人の幸福になる道を歩むのだと思う人を社会が勝手に認めるのです。

五戒で禁止しているのは酒と麻薬だけなのはなぜでしょうか?「酔わせるもの」といったら、五根から入る情報すべてになるのではないかと思います。

不飲酒戒で禁じているのは、surā酒、meraya蒸留酒、それからmajjapamādaṭṭhānā 酔う原因になるもの、頭をおかしくするもの、脳を直撃するものです。注釈書では五つの酒の種類を挙げていますが、基本的にはsurā酒・meraya蒸留酒の二種類です。三番目の酔うことの原因になるものに、他の全ての麻薬類が入りますから、不飲酒戒は、現代訳では、「酒・麻薬など」としてあるのです。

 酒や麻薬以外にも、目や耳から入る情報は、確かに依存の対象になります。しかし、情報を認識することは、すなわち生きていることでもあるのです。それ止めろといっても、どう止めるのか、という問題が出てきます。そうなると、戒律が屁理屈になってしまう。仏教は、屁理屈に陥らないように、すごく気をつけて実践的に教えているのです。
 
 五根から入る情報に酔う、という問題は「不邪淫戒」に関わります。不邪淫戒は違法的な性行為を止めるという解釈になりますが、しかし、kāmesu諸々の欲に対して、micchācārā間違ったこと、違法行為を、veramaṇīしません、が直訳です。この「諸々の欲」とは何かということです。お釈迦様は、それを「眼耳鼻舌身で感じるもの」と定義しています。眼耳鼻舌身の五つで感じるのだから、「諸々の欲」なのです。眼耳鼻舌身で感じるものは、法律の範囲で、自分の心を破壊しない範囲で、自分・他人に害を与えない範囲で享受しなさい、ということです。

 それになぜ「性行為」というキーワードが入るのか。お釈迦様は、「異性に対する欲は五欲全部である」と仰るのです。男性が女性のポスターを見ただけで頭がいかれる、ということあまりないのです。声を聞いただけで、ということもあまりない。やはり眼耳鼻舌身の五つまとめて感じるから、異性に対して激しく執着するのです。異性がその五つを与えてくれるのだというわけで、五戒の三番目では、異性との関係ということが入り込んでくるのです。しかし不邪淫戒のことばを文字通り解説すると、「諸々の欲において違法行為は行わない」という戒律なのです。
 
 人間は見るものにも気をつけたほうがいいのです。見るものに執着すると、依存して自己破壊になります。音も、香りも、味も、感触も、気をつけたほうがいいのです。しかし五根からの情報に依存するのは生き物が必ずやっている行為であって、それを止めなさいというのは「死になさい」ということになります。それは意味がないのです。依存を完全にカットするのは解脱です。仏教では、「死になさい」ではなく、「生を乗り越えなさい、死を乗り越えなさい」と言うのです。生死を越えて解脱する。そのための手段が、冥想修行になるのです。

 冥想修行を始める前に、違法行為をしない立派な人間になってほしいのです。しかし、依存が切れたわけではない。生きること自体が依存です。それは冥想で智慧を開発して、智慧の人間になることで解決します。そうすると、見ても見るものに依存しない、聞いても聞くものに依存しない、というステージが現れてきます。そういうわけで仏道はしっかりしたシステムになっています。それを拡大解釈すると混乱するし、壊れてしまう。眼耳鼻舌身に依存しないことにする、と言っても、論理的にはそう考えられるが、実践的には成り立たない、無理なのです。眼耳鼻舌身への依存は、理屈では解決できません。智慧を開発することで断たれるのです。それが冥想修行になるのです。

世の中では、気をつけて言葉を使う人は少ないと思います。不機嫌で粗暴な言葉を発する人と接したとき自分がどうすべきでしょうか?慈悲の気持ちの前に、どうしても嫌悪や恐怖が出てしまうのです。

しゃべるというのは危ない行為です。人間社会はしゃべる文化ですが、動物は言語学的にしゃべることはしないのです。ただ、音でコミュニケーションとる。人間の言語の影響力はすごいのです。だから言葉をしゃべるときもすごく気をつけないといけません。言葉はたいへんな影響力があるものです。へんな顔をして驚かしてやろう怖がらせてやろうと思っても、相手が乗ってくれない場合はあるが、言葉を駆使すれば何でも出来ます。言葉だけで人に恐怖を与えることも、欲を起こさせることも、怒りを増幅させて人殺しさせることも出来るのです。

 言葉はいちばん気をつけるべきものです。うかつにしゃべってはいけない、言葉一つ一つに責任を持って喋るべきだ、というのが仏教の教えです。十悪のなかで、言葉の行為は四つで、身体の行為は三つ、心の行為は三つです。言葉だけ一つ多いのです。しかし、しゃべる人間はいまだに動物の状況を乗り越えていないのです。言語は高度に開発したが、使う人は自分を開発していない。かなり高度な機械を何の訓練も受けていない人が使っていることと同じです。
 
 世の中の人々の会話というのは、動物が吠えているのと同じなのです。犬などは不安だと吠えます。気に入らないとまた吠えます。決して、論理的に考えることはないのです。いきなりびっくりしたから、それで吠えっぱなし。音に敏感だから、足音にも吠える。飼っている人々の足音は全部覚えているけれど、他の人の足音を聞いただけで不安でたまらなくて吠える。他の動物達も深いわけがあって泣いているわけではなく、そのときの気分、感情で声を出しているのです。

 人間の言葉が動物と似ているのはそういうところです。何か感情が出てきたらしゃべっている。気にいらない感情が出てきたら、もう何かしゃべっている。犬が吠えたり、カラスが鳴いたりするのは、どうってことありません。わからないから。同じことを人間は言葉でやっています。意味を持った言葉を、文法を駆使して使って、相手を傷つけたり酷い目にあわせたりする。我々はただしゃべりたいから、感情を発散させたいからしゃべっているのに、それで人を傷つけているのです。しゃべって他人の心を汚せば汚すほど、自分が罪を犯したことになります。身体で痛めつけるより、言葉で痛めつけたらダメージが重いのです。
 
 しかし、世間の人間に言葉の正しい言葉の使い方を教えることはほとんど無理でしょう。人間はただ自分の感情を吐いているだけです。人が吐いたものを自分が取って食うものではありません。人が大事な情報を語っているならば聞くべきですが、ただぺらぺら感情を発散している場合は、「この人は吐いているのだ。この言葉は嘔吐物だ」と思えばどうでしょうか? 言葉は嘔吐物だと思えば、心も安定します。相手が何を言っても、ニコニコとしていられます。相手が傷つける気持ちでいても、自分は穏やかな気持ちでいられるのです。人が不機嫌で粗暴な言葉をしゃべっても、それを嘔吐物だと思ってしまえば、自分が守られると思います。

友人との関係では、相手の悪いところを注意しすぎるのも、言わなさすぎるのも問題だと思います。でも自分の判断はどうしても主観になってしまう。相手にやさしくなりすぎたり、きびしくなりすぎたりせず、「中道」的に対処するにはどうすべきでしょうか?

まず、中道というのは「まんなか」「ほどよい」ということではないのです。誤解されやすい訳語なので、私は「中道」ではなく、「超越道」という言葉に入れ替えています。超越道だから、誰でもやっていることではないのです。超越道、いわゆる中道とは、「正しい対応」のことです、間違いはない、正解、中り、的中という意味なのです。正解というのは一つしかありません。取るべき態度はこれに決まっている、という生き方です。

 これは思うほど楽ではない。智慧を要するのです。中道で生きる人ほど心の強い人はいないのです。曖昧さは微塵もないのです。我々の考える中道はあいまい優柔不断そのものです。どうしよう、叱ってはいけないし、友達だから無視するのもいけないし……そういう曖昧中途半端は中道ではない。何が正しいかと判断する能力が中道・超越道です。正しいということで勇気があるし、芯もあるし、優柔不断もない。中道・超越道の人はかなり力強いのです。

 世間のことを観察して、正解は何なのか、中途半端ではなく、その場その場で取るべき態度は何なのかと判断する能力です。人間関係では、時には批判することもあり得るし、ほめることもあるし、知らんぞ私は、という態度をとることもある。どちらにせよ、それがその場で正解でなければいけません。いま・ここの条件で、正しい態度は何なのかと決める能力が中道・超越道です。決して、右と左を見て「まんなか」を取ることではありません。「まんなか」をとらない場合でも、判断が正しければ、それが中道なのです。
 
 判断が正しいということが中道・超越道です。曖昧さの反対です。中道・超越道は、世間にある生き方ではないが、あってほしい生き方です。ちゃんと判断する。判断したら、あなた方にはもっといい判断があるのかと、それに挑戦すればいいのです。正解が見当たらない場合はいちばんベターな判断をする。そういう生き方をしてほしいのです。しゃべる時でも、行動するときでも、ちゃんと中道・超越道で判断することです。
 
 お釈迦様は、「ほめたたえて認めるだけの人も、批判ばかりするだけの人も友達ではない」とおっしゃっています。では半分ずつ合わせたら正解でしょうか? それも意味がない、中途半端なだけです。悪いものから半分ずつ取ってきて合わせても、完全に悪いだけでしょう。まんなかではない、どちらにも入らない、もっと上にある生き方が正解なのです。中道・超越道とは、対立軸のどちら側にも関係ない、「第三の道」です。それは「正道」というのです。その道を見つけてほしいのです。ですから、実践するにはちょっと智慧が必要ですよ。