睡眠中の修行
睡眠中の修行について、経典には言及はないのでしょうか?
どなたかご存知のかた、教えていただけたら幸いです。
長老ならご存知でしょうか?
睡眠中の修行などの概念は経典には全くもありません。日ごろ、好きなように生活して夜寝ているあいだオートモードで修行することが出来れば一石二鳥でありがたいものですね。寝る時間さえ惜しんで修行するのは正しいやり方です。
Sutta Nipāta331偈にこのように説かれてあります。
「起てよ、座れ。眠って汝らになんの益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして寝られようか。」 これは、中村教授の訳です。
原文でāturānam hi kā niddāというところの意味は「病人なのに、寝ている暇があるのか」 と言う事です。早く努力して治療しないのかと理解するのです。(煩悩で悩んでいる人々は日々寝るばかりで時間を無駄にしないで修行を励むべきです。)
更に、修行中眠気に誘われたらどのように処理するべきかというアドバイスも経典に度々あります。
Saṃyutta Nikāya I,198p. にも同じことを説かれています。
この戒めを受け継いだ仏教は、「臥は決してしない」という特別な決まりまで作ってたとえ睡眠をとることになっても座ったままで僅かな時間だけ寝ることにもしていたのです。
体と心の活発な状態を妨げる煩悩の二つとして昏沈と睡眠があります。この二つに覆われている限りこころが成長しないのです。
心を育てること、成長させることなどは寝ながらできるものではありません。
どなたか、書いてあったように、睡眠必ずも必要だとも仏教は思っていません。
感情に引かれて、混乱のままで一日生活する人の場合は睡眠中、こころは感情の情報を何とか整理しようとするのです。しかし、それはそううまくいく作業ではないのです。夢をみるのはこの作業ですが、夢のおかげで混乱する人もいます。
Vipassanāは観察だけではなく、自動整理作業もするのです。ですからvipassanāが進むと当然ながら睡眠時間減るのです。肉体の疲れを取るための時間だけになってしまいます。これは「不眠症」ではありません。Vipassanāを進めた人は短い時間完璧に熟睡するのです。
Vipassanāにチャレンジを始めた人は、修行中、夜休むときも確認作業を続けてするのです。寝付いたところで、もし夢などをみることになっても「夢」だとそれも確認してしまうこともあり得るのです。しかし、それは悟りでも、それだけで悟れるわけでもないのです。ただ夢をみても悩むことなく、こころが汚れることもなく済むだけです。これも皆に出来るとは私は知りません。そのようなケースもあることをたまに説法などで言った覚えがあります。
煩悩で、感情で生きている人にとっては長時間の睡眠が必要です。しかし、いくら寝ても疲れも取れない、熟睡もできないことも事実です。Satiの実践する人は短時間で熟睡する。その日その日の労働量によって睡眠時間の長さが決まるのです。
行住坐臥という四つの行動に徹底的に気づくことは基本的なやり方ですが、臥して確認することは誰でも実際は避けるのです。結果は決まって寝ることになるからです。しかし、人が一日中修行して休むべき時間になって横になったところで、寝付くまで確認作業を続けるのです。臥の実践はそれだけです。
横になってからも体の「膨らみ、縮み」を確認すれば結構です。
仏教では「睡眠中修行」、「夢中修行」などは説かれてないのです。仏教の修行は智慧の開発のために、目覚めるために、真理の発見の為に、煩悩から脱出するためにあるものです。人の好みによって変えることはできません。
Sumanasara