施本文庫

ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

第一章 仏教が説く「業」

「業」について学ぶということ

業(カルマ)という言葉を聞くと、どんなイメージが浮かぶでしょうか。「イケメンの彼氏をゲットできたのは、自分が前世でお姫様だったカルマ」とか、ロマンチックな気分に浸るでしょうか。それとも、「自分がいま不幸なのは過去世の悪業が降りかかっているからだ」と暗い気持ちになるでしょうか。

どちらにしても、業という言葉は、現在の幸不幸に関わる、自分には思い当たらない、よくわからない不可抗力として捉えられているようです。

現在ではおもにスピリチュアル、精神世界の分野で親しまれている業という観念は、そもそも仏教の世界で精密に研究されて来ました。仏教の開祖であるお釈迦様(釈迦牟尼仏陀)は、この分野のエキスパートだったと言われています。

仏教では、業を「意思をもってなされた善悪の結果を出す行為」と定義しています。ですから、前世とか過去世とかに限らず、私たちはいまここで意思をもってしている行ない、考えること、しゃべること、体を使って何かをすることも、すべて「業(カルマ)」ということになります。

つまり、業について学ぶということは、自分が幸福になるために(あるいは不幸にならないために)どのように心と体の行為を管理していけばいいのか、という勉強なのです。私たちがまず学ぶべきことはこのことです。 本書を通して、もっとも肝心な業論ともいうべき「心と体の行為の管理」方法について解説したいと思います。

ただ、それだけで業の話は終わりません。仏教では「輪廻転生」を教えています。私たちはみな、過去の業を引き継いで生きているとも言っています。しかし私たちは誰も過去世のことなど憶えていません。知ることのできる自分の業について気にしない人でも、知ることもできない過去の業については深刻に考えたりします。これは仏教では「アベコベ(顚倒)」と呼ぶ態度ですが、みんな関心を持っているのだから、無視するわけにも行きません。過去世の業についてどう考えるべきか、という問題も解決しておきましょう。

2011年3月に起きた東日本大震災では、津波によって沢山の人々がいっぺんに亡くなるということが起きました。仏教では、業は基本的に個人の問題とされています。しかし災害や戦争などで多くの人が一度に不幸にみまわれたり、経済状況がうなぎのぼりになって国の大多数の人々が幸福になったりする場合、それは業の考え方ではどう説明するのでしょうか? あるいは説明しないのでしょうか? この問題についても第四章のQ&Aコーナーで取り上げました。お釈迦様の教えから、答えを見出してみたいと思います。

人生の不可思議に回答を与える業

まず、我々が業(カルマ)を意識するときについて考えてみましょう。人生には「流れ」がありますね。この世に生まれてきて、その瞬間からずーっと流れて、流れて変化していきます。そうやって流れで生きていくと、途中で、ふと「どうしてこうなったんだろう?」と、疑問に思うときがあります。そのとき、業という概念が入ってくるのです。 
仏教でいう「業(カルマ)」は、キリスト教の流れでは「神」になります。日本の場合は「天地創造の神」という概念になじみがないので、キリスト教系の学校では、まだ心が清らかな子供たちに「運命」「定め」などを植え付けてマインドコントロールするのです。「そういうふうに決まっているのです、運命です」という湾曲した概念を植え付けて、その上に「神」という概念を設定するという手順をとります。あるいは、「我々の人生は最初から神の計らいによるのだ」と言ったりします。そんなふうに、自分ではどうしようもない人生の流れについて、「なぜだ?」と思う人間の心に、なんとか解決を与えようとするのです。

考えてはいけない四つのこと

ブッダは業(カルマ)について誰よりも詳しく理解して語っていました。しかしそのブッダが、「業について考えてはいけない」と説かれているのです。それはどういうことでしょうか? 
ブッダは「考えても終わらないもの」、つまり「考えてはいけない四つのこと」を示します。その一つに業が含まれるのです。

①Buddhānaṃ, bhikkhave, buddhavisayo acinteyyo, na cintetabbo;
yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa.

ブッダたちの、ブッダとは何ですかという領域・境域のこと(ブッダとはこういうものだというブッダに対するすべてのこと)は、考えても考えても終わりません。考える人の心は狂気になります。

②Jhāyissa, bhikkhave, jhānavisayo acinteyyo, na cintetabbo;
yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. 

禅定の経験に入っている修行者の禅定は何かということは、人間には考えることが不可能です。考えてはならない、考える人の心は狂気になります。

③Kammavipāko, bhikkhave, acinteyyo, na cintetabbo;
yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa. 

業と過去は考えても終わりがない。考える人の心は狂気に陥ってしまいます。

④Lokacintā, bhikkhave, acinteyyā, na cintetabbā;
yaṃ cintento ummādassa vighātassa bhāgī assa.  

世間の考察も思考し尽くせるものではありません。思考する人の心は狂気に陥ってしまいます。

つまり、考えてはいけない四つのこととは、「ブッダの境地」「禅定」「業」「世間」なのです。 ブッダの境地も、禅定も、一般的な人間の領域を超えています。言葉で考えたり説明したりできる範囲のことではないのです。時空を超えていますから、考えても考えきれないのです。また、四番目の「世間」というのは、現代の一般的な「世間」とは少し言葉の意味合いが違っていて、「生命」「宇宙」と同義です。 
仏教は、「宇宙論はやめたほうがいい」という立場をとっています。人間が宇宙について思考しても思考しても終わりがないんだよ、ということです。なぜなら、宇宙は広大で、しかも直接体験できる世界ではないからです。見える物質、経験できる物質にしても、『4%の宇宙』(リチャード・パネク著)という本は日本語訳もされていますが、たった4%にすぎないといわれます。現代科学知識で宇宙を知ったところで、たった4%ですから、ろくに知っていることにはなりません。残りの物質にはダークマター(暗黒物質)という名前を付けたりしていますが、そのダークマターにしても、本当にあるのかすら、よくわかっていません。考えてもきりがなく、すごく時間が無駄になりますから、お釈迦様は「考えないでください」とおっしゃっているのです。

なぜ、お釈迦様は三番目に業について考えてはいけないとおっしゃったのでしょうか? それは簡単です。業というのは、もう過去のことだからです。過去というのは人間には考えきれない項目なのです。人間の脳の処理能力範囲を超えています。まったく理解不可能です。考えるならば頭がいかれますよ、だから考えてはいけません、ということです。 
そういうわけで、「お釈迦様が考えるなとおっしゃったから、業の話はここで終了します」と言ってもいいのですが、頭がいかれない程度に、経典にある仏教の業論のポイントを解説しようと思います。

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この施本のデータ

ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2012年