施本文庫

ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

障害者と業

Q:仏教では過去の因が縁により現在の果を生み出すとしていますね。合理的な考えだと思います。過去世の行状により来世が決定する記述も見られます。それでは今生に障害を持って生まれた者は過去世で悪業を為したからなのでしょうか? 障害者からするとかなりきつい考えだと思えますが、どうお考えでしょうか?

A:業(カルマ)の話は、因果法則の論理から出てきた一つの思想「枝」です。一切の生命の「生」が形成される瞬間に関わる諸々の原因の中で、過去の行いもその一つとして機能します。仏教は全ては過去の業ですよという「一因論」には全く反対です。一神論は一因論の一種です。多因、多縁で現在の果が現れるのです。また因でも縁でも変われば、変わった結果を期待することもできるのです。ですから「過去の業だからどうにもなりません」というアキラメの話でもないのです。

人に限らず、生命が生まれる瞬間の最初のこころには、業の影響が優先するようです。わかりやすく言えば、業は『身体』よりも『こころ』『性格』『精神』を管理するようですね。身体とこころは不離、不可分離状態で機能しますから、業は確実に体にも影響を与えることになります。

生命であろうが他のものであろうが、全てのものは因縁によって、現れたり滅したりするので、誰かの機嫌をとるために真理を歪曲することはできないでしょうね。「大慈悲の絶対神のみ知る理由であなたは障害者になりました。だから喜びなさい。あなたは神の特使者だ」と言うと、良い結果になるのでしょうか。

また、もし誰かが仏教で説く「業の教え」を参考にして、「あなたは過去の業で障害をもって生まれることになったのです」と言うことは正しいのでしょうか。それは慈しみの行為なのでしょうか。

私はそう言う人は嘘つきだと思います。ブッダは覚りの智慧で業の働きを発見したのですが、我々一般人には理解することも、経験することもほとんど無理です。業については、「思考、想像するなかれ。思索の領域を越えていることであり、考えると頭がおかしくなる」と釈尊は説かれています。正直な仏教徒は「悪いことをすると悪い結果になる」という日常の具体的なところに留まり、あれこれ考えあぐねることなく善行為をするよう努力するのです。

他人の運命について、生き方について、批判的なこと、差別的なことを考えるのは仏教的ではないのです。過去の業について自分自身がはっきりと知っているのなら別ですが、知りもしないくせに「貴方が過去の業で云々」と言うことは単なる差別で、他人いじめで、インチキで、嘘つきで、また大きなお世話です。ブッダの教えを誹謗中傷しているのです。

瞬間瞬間、全てのものが変わっていくのです。命も生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで止まることなく変わっていくのです。無数の因、無数の縁によって変わり方、方向性が定められるのです。業はその無数の因のなかの一つです。区別できないだろうと思います。業だけに絶対的な力があるわけではありません。今の結果が良くないと思う人は、適切に因縁を変えて、次によい結果をだせばよいのではないかと思います。その良い結果も、すべては無常ですので、また変わるのです。

なぜ、人の頭に「障害者」という言葉が浮ぶのでしょう。

人間の身体はそれぞれ違うというだけでしょう。さらに能力の差もあります。人それぞれに出来ることも、出来ないこともあるのです。ですから、障害者、健常者という二つに分けて考える思考自体が、傲慢で差別的ではないでしょうか。
智慧の人は、『区別』を理解して『差別』を非難するのです。区別の立場から見れば同一のものは一つもないのです。『同じ』人間でも日々変わるでしょうに。日々違うでしょうに。

健常者とは誰ですか。真理に目覚めず、欲に溺れて智慧の目が開かない人々は皆、知識の、智慧の障害者です。俗世間の基準で、貪瞋痴の基準で、「私は健常者、あの人は障害者」と決めてよいのでしょうか。完全な覚りを開いた人のみを『健常者』と認定することが出来るのです。障害者の仲間なのに「君、障害者でしょう」と仲間を指すこと自体が、たちの悪い冗談でしょう。

業と仲良く暮らしたい

Q:人が生まれる時、熟した業(カルマ)で生まれてくる。生きている間は業の影響から逃れられない。そのように理解しています。であれば、業の影響と仲良く暮らしていきたいと思うのですが、どのような業が自分に影響しているか気づきたいと思います。どこに気をつければいいでしょうか?

A:自分の身体は業がつくったものです。業は貯金みたいなものです。旅行する時は費用を全額、旅行会社に払わないといけないのです。プランによってパック内容が違います。認識を司る感覚器官は直接、業の管理下にあります。感覚器官の能力は人それぞれで、それは変えられません。使用期限が過ぎたら、業が終わり。元には戻りません。
収入の割り当ても、得た収入でどの程度幸せになるのか、というのも業の管轄です。1万円の収入でけっこう楽しく生きている人もいて、5万円もらって足らない、足らないと悩む人もいる。1万円の人の業のほうが善い業です。生きる上で、業の影響は免れません。しかし、それをチェックしたらどうなるかというと、どうにもならないのです。

業は気にしない方がいいのですが、しかし知っておいたほうがいいことです。「億万長者になりたい」とむやみに頑張っても、億万長者にはなれません。自分の収入の業を知っている人なら、それに合わせて頑張ればいいのです。少々、気にするだけのことです。

仏教で教える「少欲知足」というのは、業から身を守るために使うのです。金持ちになってはいけないという話ではありません。得たもので満足すること。それが業から身を守る方法です。眼耳鼻舌身も業です。生まれつき足が一本短いなら、それで一生苦労しないといけない。肉体から感じる感覚についても業が管理しています。身体がそれほど強くない人であっても、身体をよいことに使うことで業が調整されて、コンディションがよくなる場合があるのです。効き目がないのは、目と耳です。もらった能力を管理できないのです。視覚、聴覚を早く壊すことはできるが、伸ばすことは難しいのです。それでも白内障、緑内障になるのを避ける事はできる。当然、治療不可能なものもあります。

少欲知足で節度を守って生きることで、自分の業をある程度で管理できるようになります。業論には、「責任を持って生きなさい。たくさん善いことをしなさい」という道徳的な意味がある。本書の第一章で述べたように、業は人間に理解できないくらい難しいのだと、お釈迦様は釘をさしました。しかし悪いことをしなければ無難でしょう。ですから、一般の人には止悪作善を語るのです。専門的に仏教を学ぶ人には、ある程度理解できるように業論を説明するのです。
ですから理解できる範囲で理解して、業について分からないところは放っておいても構わない。「善行為をすることにします」と決めて、業のことを気にしないようにするのも安全な手段です。

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この施本のデータ

ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2012年