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ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

業のポイント4 起源

仏教からいえば、業(カルマ)は起源なのです(kammayoni カンマヨーニ)。
起源、つまりorigin(オリジン)です。これは難しいポイントになります。

Yoni(ヨーニ)とは、胎、子宮、生、生まれること、起源、原因などという意味です。業が生命を生み出すのだということですね。生命を創ったのは業です。業が初めて生命を誕生させるのです。 

この業のはたらきを、宗教の世界では「神」を使って語ったりしています。地球はこうやって現れた、それから空がこうやって現れた、それから人間を創って、動物を創って……などと、宗教ではoriginの物語を語りますね。いろいろな世界で、文化ごとにストーリーは違っていますが、天地創造の物語はあります。 

しかし、仏教にいわせれば、神という超越した存在が創造するのではないのです。何より仏教には絶対的な「神」という概念はまったくありません。神・創造主という概念は、もう頭がそうとういかれている人しか考えませんよ、ということで最初から取り合わずに捨てています。真理を語る仏教は、業という、理解しにくいエネルギーがどんどん生命を生み出すといいます。創造者というのは、業のことです。業とは、自分そのものでもありますから、創造主にお願いして特別に自分をVIP扱いしてもらいたいと思っても無理です。 

神や祈りは非論理的

人間は、神・創造主に祈って「自分のことを特別になんとかしてちょうだい」と、よくお願いしますね。しかし、実際に存在する創造者は業です。そして、業というのは自分そのものなのです。ですから、どうやって自分に祈りましょうか、という話です。鏡を見ながら、「あなた、なんとか私にこれこれをやってください、お願いします」と祈るのと同じなのです。自分を二人、つくれませんからね。 

祈りというのは、論理的に考えたら、ものすごく詐欺的なものだとわかります。もし、神がすべてを創ったならば、自分を創ったならば、祈るなんて冒瀆です。あらためて神に祈りを捧げるということは、偉大なる神からすれば、「私があなたを忘れたとでもいうのでしょうか?」ということにもなるでしょう。しかし、世の神はこれまたおかしなことに「祈りなさい」と言います。「祈ったらやってあげるぞ」とも言うのです。それもそうとうバカげた矛盾です。だって、全知全能なんでしょう?それなのに祈るまでわからないのですか?我々が祈って願をかけないと何もやってくれないのでしょうか? 
しかも、祈ったところで、「では、願をかけたのだからやってくれるでしょう」と思っても、それもないのです。我々が頑張らなければ、どうにもなりません。祈りによって得るものはゼロ、何もないというのが真相です。とにかく仏教には、神も祈りもありません。 

神学者たちは、たいへん苦労しています。神学で世界の不公平が説明できないのは、業ではなく神を盲信しているからです。神は全知全能で無限の憐れみを持っていて、とても優しい方で、完璧で完全で……など、あれこれ語られます。
しかし、世の中は不公平だらけで苦しいことだらけで、もうどうにもなりません。ですから「いったい何なのか! 神は無限の憐れみで私たちを守ってくれるのではないのか!」となったときに、どう説明すれば納得がいく論理になるのか、神学者は今でも苦労しているのです。 

テキストだけは膨大にあります。ある神学者は「神は全知全能で、慈しみにあふれていて、世界・森羅万象を創造した。そこからは自動回転に任せている。だからこんなことになっているのだ」と言ったりしています。
しかし、「祈ろうが祈るまいが、世界は自動回転だ」というこの説だと、「それだと神は、創造するものに対して無関心ということになるだろう」という問題が出てきますね。すると、別の神学者が「それでは論理的にまずい。神は無関心でいるわけじゃないんだ。無関心だといったら慈しみ、憐れみがないことになる。しかし、神には完璧に憐れみがあるから関心があるんだ。関心があるのになぜやってくれないのかといえば、それは神がやがて解決するまで待っているからだ」などと、いろいろ言うのです。 

このように、世の宗教では何の証拠もなく、いくつかの盲信による固定概念で、いろいろな屁理屈が語られています。しかし、実際のところ、生命の起源は業なのです。 

業のポイント5 親族

業は親族です(kammabandhu カンマバンドゥ)。
生まれてきた人は、親族によって守られ育てられます。そして、死ぬまで絆は切れません。 

空から突然、現れた人というのはいません。日本にはかぐや姫や桃太郎がいるようですが、昔話の中だけですね。実際は、世の中では誰にでも親がいて、親から生まれます。ですから、親族がいます。この親族関係を切ることはできないのです。
なぜなら、「私はどんな人間になっているのか」ということは、「親族がどのように育てたか」ということだからです。現在の私たちの態度・生き方・性格、あれやこれや、すべて親族の管理の結果です。 
表面的には、「親族なんか関係ない!」と言って家出することもできますし、親族とまったく関係なく逃げて生きることもできます。
しかし、本当の意味では、親族というのは業のことなのです。業からは逃げられません。業はずーっと、自分を守って管理しています。 

自分が何者になるかは、ほとんど親族の手によるものです。私たちがどんな人間になるのか、どんな言葉をしゃべるのか、どんな性格なのか、どんな仕事をするのか、仕事で苦労するのか楽をするのか、結婚してハチャメチャな地獄をつくるのか、幸せな家庭を築くのか、もうほとんど業によってやらされているのです。 

生命は業によって守られて育てられるのです。その人間がどのようになるかは、ほとんど業のはたらきによるものです。人が死ぬまで業が責任を取ります。
生まれて・生きて・死ぬ、そのメインプログラム三つを、業がやっているのです。生まれること、それは業の仕事です。生きること、それも業の仕事です。それから死ぬこと、それも同じ業の仕事です。その三つの仕事をしっかりやっています。 

ツキも業のはたらき

私たちは、日常でよく「ラッキー」「ついている」「ついていない」などと言うでしょう?ときどき、「これは不幸なご先祖の因縁だ」などとも言いますね。
これは、「親族は業」「生まれて・生きて・死ぬことは業がやっている」というポイントについて誤解しているのです。 

日本ではすごい商売にもなっています。「なんだかものごとがうまくいかないんです……」と相談すると、「これはもう、ご先祖様の因縁です」と言われて先祖供養をする宗教があります。「ご先祖様を成仏させます」と言って、けっこうお金を取ります。そのように言う人々は、自分の言っていることを真面目に信じている場合も、「もしかするとそうかもしれない」と思っている場合もありますが、まるっきりいんちきです。
実際は、「ついている」「ついていない」は、業のはたらきによるものなのです。 

長い間、苦労しながらなんとか生きてきた人に突然宝くじが当たったり、蓄えがあったのに連帯保証人になったばっかりに全財産がなくなったりする場合もあります。このような出来事も業のはたらきです。

業のポイント6 生命の頼り

業は頼りです。「助けてくれ」というならば、業に頼むしかないのです。これはkamma paṭisaraṇa(カンマパティサラナ)といいます。 

舞い上がっているときに足を引っ張るのも、困ったときに助けになるのも、自分自身の業の力です。いつでも業が糸を引いているのです。生命は業に依存しているのです。 
人は、もう本当に業に頼っていて、業から解放されて自由に生きることは不可能です。陸上の生命が陸に頼ったり、水中の生命が水をよりどころにしたりすることと同じなのです。一切の生命は業をよりどころにしています。 

水の中にいる魚は、水からは自由にならないでしょう。何をしようと、「飛び出してやるぞ!」と魚が思っても、やっぱり水が頼りになるのです。「敵から逃げよう」というときにも水が助けてくれるのです。そして、自分を敵の口の中に放り込むのも水です。どうしようもありません。 

陸上にいる我々は、地球から離れません。飛行機に乗っても、地球の引力があるからこそ飛行機が飛んでいるのであって、陸上です。地球に引っ張られていなければ飛行機を操縦することもできなくなってしまいます。そして、丁寧に操縦していても、ちょっと間違ったら大変なことになります。助けるのも殺すのも業です。 

この飛行機と引力のたとえはわかりやすいと思います。地球に引っ張られているから飛行機は離陸して飛びます。ちゃんと航路を選んで飛んでいるあいだも、地球の引力が必要です。着陸するときも同じです。地球の引力が飛行機に効かなかったら、どうやって着陸できるでしょう。逆に、着陸が危険と背中合わせで慎重な操縦が必要だという点も、同じ地球の引力のはたらきのためです。ちょっと間違えたり、ちょっと角度が変わったりしたら終わりです。この引力が業のたとえです。このように、我々は業を頼りにしています。生命の頼りは業です。

業のポイント7 差をつけるもの

業が生命に差をつけます(kammaṃ satte vibhajati, yadidaṃ hīnappaṇītatāya)。
優れた生命になる、卑しい生命になるなどの生命の差異は、それぞれの業のはたらきによるものです。 

この世の中で、まったく同じアイデンティティーの生命はいません。一人一人が違います。神が創ったのなら、どうして工場で創ったように均等ではないのでしょう。それは、生命を、人を創っているのが神ではなく業だからです。業というエネルギーが創っているから、一人一人が違うのです。 

一個人が、自分を他人と比較してみます。自分の幸不幸を他人の幸不幸と比較します。それで差を感じます。比較しなければ、差を感じません。子供たちは家では兄弟同士で比較して喧嘩になります。「結局、お母さんは、お兄ちゃんのことばっかり可愛がっている」とか、いろいろ文句まで言います。お母さんは、そう言われても「そんなことないんだよ」といって認めないでしょう。実際はお母さんが差をつけているのではなく、それぞれの業が差をつけているのです。 

学校へ行っても、すぐに差がつきます。同じ学校なのに、同じクラスなのに、同じ歳なのに、同じことを勉強しているのに一人一人が違います。個人が納得いくかいかないか、それとは関係なく、最初から差がついているのです。 

ときどきみんな、世の中の格差に怒ります。「みんな均等にしなくちゃだめだ」と言ったりしますが、均等は成り立たないのです。かつて、共産党政権で「労働者の世界をつくりましょう。みんな平等にしてあげますよ」と謳って実施した時代もありました。できたでしょうか。たった半年ぐらいの期間でも、平等な世界があったとは言えません。今、もう共産主義といえば北朝鮮だけです。 

たしかに北朝鮮では、金さんだけが神様で、あとはみんな平等です。国民は奴隷。とんでもない結果です。では、民主主義世界、自由経済社会は平等でしょうか。いえ、平等ではありませんね。平等はあり得ないのです。 

ユートピア(理想郷)という言葉がありますね。これは、「あり得ない」からユートピアというのです。均等ではない社会、謳われるだけのユートピアという実態が気に入るか気に入らないか、それは私の知ったことではありませんが、ともかく均等やユートピアというのは、現実的に不可能です。 

差をつけるのは業です。生命は本来平等ですが、決して同一にはなりません。すべての生命は業が生んで創りますから、生命は平等です。しかし、同一、イコールにはならないのです。
この「差をつける」という業のポイントの説明は中部経典のCūḷakammavibhaṅgasuttaṃ,小業分別経(M.III,1)という経典にある一行の説明です。

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この施本のデータ

ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2012年