ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実
アルボムッレ・スマナサーラ長老
都合よく利用される業
ここで、業(カルマ)と差別について少々説明します。Karma(カルマ、サンスクリット語)・kamma(カンマ、パーリ語)という言葉はよく知られているのですが、誰もこの意味をわかっていません。
今、世界中、誰でもカルマという言葉を知っています。パーリ語では「カンマ」ですが、「カルマ」という読みで、そのまま、世界のどんな言語にも入り込んでいます。英語の辞書にもあります。しかし、カルマとは何かを、誰もわかっていないのです。
人を差別するために、社会の不公平を認めるために、権力を誇示するために、業という概念に逃げる人もいます。不幸な人を見て、「これはあなたのカルマでしょう」と言うことで人を差別するのです。権力者が、「我々はそういう業で生まれたんだからしょうがないだろう」と言ったりして自分の権力を正当化し、誇示したりします。とにかく人を差別するために業という概念を使うのです。
人は自分の過去の業を知ることはできません。その無智、弱みを商売のネタにするのです。世の中には過去の業を占う詐欺師たちもあふれています。ヨーロッパにも、チベットにも、「あなたの過去の業は……」と占ってくれる人がいます。私は、日本は業を占う国としては世界一優秀な国だと思います。お釈迦様が「考えてはいけない」とおっしゃるほど、一般人には理解できない、とても難しい概念にもかかわらず、これのプロができているほどですからね。どれほど詐欺師かと感心します。この特集では難解な内容は省きますが、本当に業のはたらきを説明したら、そうとう大変です。仏典をものすごく調べている私たちも、最終結論は「これはわかりません。お手上げだ」と言うほど難しいのです。それを占ってくれるというのですから。
最近、ある人に聞いた例を挙げます。仏教の宗教家から「五代か四代ぐらい前の先祖が精神的にすごく不安定で、納得することなく死にました。だからあなたの娘さんには子供が授かりません」と言われた、というのです。どうですか?見事な占いでしょう。娘さんに子供ができなくて困っているそうなのです。そこで宗教家に質問したのかもしれませんが、でも、この占いを信じたらバカでしょう?仮に、本当に四~五代前の先祖が納得いかない死に方をしたとしても、どうしてそれが娘さんに子供が生まれない理由になるのでしょうか。
業の正しい理解でいうなら、その娘さんは今の娘さんの業で生まれていますから、娘さんの業のプログラムに子育てプログラムがなければ、子供ができなくても当然なのです。人生を、ぜんぶ、死ぬまで管理するのは業なのですから。女性だからといってみんなに子供が生まれるわけではないのは、そういうわけなのです。
しかし、カルマの占い師たちは、これに「先祖」を持ち出します。だとすれば、皆さんのご先祖様たちは、ずいぶんとたちの悪い先祖だ、ということになりますね。「どうしてご先祖様は、子孫たちを放っておかないのか」と悩まなくてはいけなくなってしまいます。まるで笑い話です。
業から分かる生命の平等
生命に差があるのは業から説明できますが、だからといって、差別を正当化することはできません。よく憶えておいてください。世の中、なぜ均等でないのか。なぜ同じ両親に生まれる子供が一人一人違うのか。なぜ一卵性双生児であっても二人は違う道に行くのか。それらについては業で説明できますが、「私は偉くなるカルマだ」とか「お前は前世のカルマが悪いから差別されて当然」などとは言えないのです。
誰でも無始なる過去から輪廻転生しています。輪廻転生というものがあって、業の説明に必ず関係のあるものです。しかし、どうやって輪廻転生するのか、そのメカニズムなどの理解はひじょうに難しいです。
ともかく、我々は無始なる過去から輪廻転生していますから、量的にいえば、皆ほぼ同じ量の悪業も善業も背負っていると推測したほうがいいのです。私の業が重い、あなたの業が軽い、などというのはあり得ないのです。
輪廻転生という観点から見れば、みんな無始なる過去から輪廻転生しています。つまり、ミミズを捕まえて、「こいつはかわいそうなやつで業が悪くて、俺なんか業が善かったから人間で」などと言えたものではない、ということです。
ミミズの業の量も、自分の業の量も、ほぼ同じです。善であろうが悪であろうが、量は同じ。蟻一匹を見て「なんだ、この蟻!」とか「かわいそう」とか、その差別はとんでもないのです。蟻一匹も私と同じ量の業を背負っているのです。
善業と悪業とを比較すれば、誰でも悪業のほうが多いかもしれません。一人の人間の生命の悪業と善業をはかりにかけてみれば、もう悪業のほうがどーんと重くて、善業は少ないかもしれません。
しかし、業の割り当ての総量は蟻でもミミズでも、我々人間にしても犬・猫でも、ぜんぶ同じです。善業と悪業を合わせた総量は、ほぼ同じ量を背負っています。ですから仏教では「生命を業という視野で見てください。生命を差別してはいけません」といいます。「重度の障害者が自分の家にいるなんて、ああ、嫌だ」などと思うのは、とんでもない態度なのです。
みんな、ほぼ同じ量の業を持っていると理解してください。観覧車の上にいる人に、下にいる人を見下すことはできないでしょう? 観覧車は回っていますからね。上に行ったら、「私はほら、上にいておまえは下でしょう。ざまあみろ」と言えますか?バカバカしいでしょう。「ざまあみろ」と言ったところで、どんどん観覧車が回って今度は相手のほうが上になるのですから。
我々は輪廻転生の中ではいろいろ生まれ変わります。生命は、寿命が終わったら死ななくてはいけませんね。人間は80歳ぐらいになったら死ななくてはいけません。それから別な生命になる、それからまた死んで、別な生命になる。皆さん方が死んでもし蚊になったら、欲張っていきなり血を吸おうとするでしょう。おそらくすぐに潰されて死んでしまいます。それからまた別なところへ行く。神にもなる。餓鬼道にも落ちる、地獄にも行く……。
ですから地獄にいる生命が本当にかわいそうで悪人だとか、そんなことは言えるものではありません。「あなたもこれから行きますからね」ということなのです。そして、地獄に堕ちても、その寿命、その業が終わったら、また亡くなって別なところへ行くのです。きれいな円は描いていない、激しい観覧車のようです。みんなが同じ軌道上でぐるぐる回っているのです。回っている最中に、ふと横を見たとき、無智な人に差別意識が生まれるのです。
一方、業を気にする人は、皆、平等だと知って自分を戒めるのです。一般人が世の中を見て差別をするのに対し、業を気にする人は生命を差別せず、どんな生命に対しても「ああ、こんにちは」という態度で接します。業の教えは、「一切の生命は平等である。しかし、生命には個性があるので同一にならない」というメッセージです。
業は因果法則の一部でしかない
ここまでの説明を読むと、なんだか「業(カルマ)からはまったく抜けられない。輪廻転生も含めて人生は、業におさえられた観覧車のようで、身動きできないことになっている」と感じるかもしれません。身体そのものも業です。瞼を閉じること一つとっても業なのです。業の力がなければできません。腰が痛いなどというのも業です。私の講演会でずっと座って話を聞いていたら、お尻などが痛くなるでしょうが、皆が皆、痛くなるわけではありませんね。業は絶対、避けられないものです。
命も業、生まれて・生きて・死ぬのも業、身体も業、すべてが業で、業に敵うものは何もないように見受けられます。
しかし、業は絶対的なものではありません。業も無常なる現象です。身体の細胞、DNAから何からすべて業ではありますが、絶対者ではありません。業も無常、因縁によって生じる現象です。
他の条件なしには、業には結果を出すこともできません。たとえば、自分の相続業で億万長者になる運命があるとします。では、座っていたら、自動的にそうなると思いますか?宗教家に調べてもらったら、私の業が「億万長者になる業だ」と言われたとします。「あ、じゃあ、何もしないで待ってみます」と言ってそうしたら、どうなるでしょう?どうにもなりませんね。もちろん、億万長者にもなりません。
あるいは、占いで「あなたは宝くじが当たりますよ。一億円もらえます」と言われたら、それだけで当たると思いますか?当たりませんね。まず、宝くじを買わないと。あるいは、誰かからもらわないと。とにかく、人の宝くじを盗んででも手に入れないと、当たるわけがありません。そして、当たったら即お金が手に入るでしょうか?いいえ、決まっている場所に行って、あれやこれやと手続きをしなくてはなりません。それでやっと当たったお金が手に入ります。ですから、宝くじの一等賞が当たる業があっても、その業が実るためには、それなりに自分も何かをしなくてはいけないのです。
それから、業には使用期限というものがあります。使用期限を過ぎたら、もう機能しないのです。業そのものも無常ですから、宝くじに当たる運命があっても、時期が終わったらもう当たらなくなってしまうのです。同様に、とても美しい方と結婚できる業があったとしても、若いときは遊んでばかりで、結婚する気にもまったくならず、そのままどんどん歳を取ってしまえば、もう結婚のチャンスはなくなってしまいます。業には有効期限があります。
業も無常です。業論とは因果説のわずかな一部なのです。しかし人間は業からは解放されないのです。お釈迦様は、ご自身が「考えてはいけない」とおっしゃるほど難しくてわかりにくい業について、「業論」を展開なさったりしません。仏説は因縁説です。業説ではありません。お釈迦様は因縁を語られます。そして、因縁の一部が業なのです。ほんのちょっとの一部です。
経典で、人が病気になる原因を八つ示すところがあります。その八番目が業です(kammavipākajā ābādhā)。
経典に、お釈迦様が「人はいろいろな病気になりますよ」とおっしゃっているところがあります。いろいろな病気の、長いリストが書いてあります。その最後に、天気が変化したり、人に殴られたり、事故とか、食べ物にあたるとか、そういうことでも人は病気になるのだと書いてあります。また、意図的に病気になることもあり得ると書いてあります。お釈迦様は病気の原因を八つ、挙げていらっしゃいます。そして、その八つの原因の中で、いちばん治療が効かないのは業によって病気になるときだと説かれます。
慢性的な鼻炎やアトピーなどは、業がからんでいる場合があります。業であるならば薬は効きません。業の機能を変える別な治療をしなくてはいけないのです。たとえばアトピーで皮膚がものすごく荒れて大変だったら、人によい肌の感触を与えるという、いわば反対の行為をすると業の効き目が消えてしまいます。逆に言えば、そのようにして業のはたらきを変えないと治りません。
業には、生まれるプログラム、生かすプログラム、死なせるプログラムという、三つの仕事があると言いましたね。ですから、この人は癌で死なせなくちゃいけない、この人は脳出血で死なせなくちゃいけない、この人は心臓発作で死なせなくちゃいけない、などとなります。癌も脳出血も心臓発作も治療すれば治る可能性はありますが、業が人を死なせる仕事をしようとして脳出血などを起こす場合は、治療は効きません。治療が間に合わないうちに亡くなってしまうのです。
死なせるプログラムの場合のように、「業が理由の場合、どうしようもない」ということはたしかにあるのですが、業は、絶対的な権力者ではありません。そうとう人生を管理しますが、業自身にも「因果法則に沿って機能しなくてはいけない」という憲法があります。また、有効期限もあって、期限が過ぎたら結果を出せなくなります。
業も無常です。因果法則の一部です。ですから修行者は、業を理解するよりは因縁を理解することに励みます。仏教の方々は「業を理解してやるぞ!」とは思いません。業のことは、すっかり新しい宗教をつくる人々の管轄になっています。頭がおかしくなって簡単にお金を儲ける方法を考える方々は、業の話を派手に打ち出すのです。しかし、仏教はそういうことはしません。仏教の方々は、「因縁の法則を理解しましょう」といって修行に励むのです。
この施本のデータ
- ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2012年