ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実
アルボムッレ・スマナサーラ長老
感情が意志に判断を促す
私たちの髪の毛一本までもがぜんぶ業なのです。もう、どうしようもないのです。しかも、私たちは生きるとき、自分でなんとかできるのは意志だけなのです。意志にはそれほど自由はありません。意志とは、「判断します」ということです。そして、この判断を促すのが感情です。感情が意志に判断を促します。 たとえば、「お腹がすいたからご飯を食べます」と判断します。ご飯を食べることにしたとき、「サンドイッチにします」と判断します。そのときの条件など、参考にするものによって判断するのです。たとえば「食事の時間だけど、あんまりご飯を食べたくないな」という気持ちがあって、「それだったらサンドイッチでいいんじゃない?」というふうに判断したりします。
判断するときには、何か参考にするものが必要です。この参考にするものが、たいていは「感情」なのです。「気持ち」ですね。「おにぎりもあるし、ラーメンもあるし、サンドイッチもあるのに、なぜあなたはサンドイッチに決めたのですか?」と聞かれても、答えはだいたい「なんとなく」とか「そういう気分だから」ということではないでしょうか。ただ、そういう気持ちだからということですね。
このように、我々は判断するとき、意志をはたらかせるとき、いつでも感情を参考にします。しかし、これはかなり危険なことなのです。理性で判断しないのですから。仏教では、意志(cetanā)に気をつけろよ、といいます。
自分の人生で、意志だけは自分でなんとかできます。ですから、何よりも意志に気をつけるとよいのです。しかし、私たちは理性で判断しないのです。判断に際して感情で決めてしまいます。昼食をラーメンにするかサンドイッチにするか判断するときに、理性で「ラーメンを食べたらカロリーが多いし、いろいろ化学調味料もいっぱい入っているし、だから私はサンドイッチにします」というところまでいかずに、「ラーメンとサンドイッチ? 私はサンドイッチが好きだから、サンドイッチにします」で終わってしまうのです。
感情といえば、結局は貪瞋痴(とんじんち)です。貪瞋痴の衝動で起こす行為は、悪結果をもたらす業になります。しかし、私たちはふだん、理性で判断するのが正しいのですが、誰もそうしません。皆、貪瞋痴で、気持ちで判断するのです。それがぜんぶ悪行為になるのです。
気持ちに流されるのではなく、気持ちを抑えようと、制御しようとしたことだけが善行為になります。貪瞋痴を制御するために行う行為のみが、善業になります。ここは、すごく微妙なポイントです。貪瞋痴にしたがうのではなく、貪瞋痴をちょっとコントロールしようとすることで善行為になります。
ですから、一万円で自分がご馳走を食べても善行為にはなりません。「おいしいものが食べたい」という感情で、気持ちでやるので悪行為になります。しかし、その一万円を、自分のご馳走にではなく誰か困っている人にあげたなら、自分が楽しみたかった気持ちをコントロールしたのですから善行為になるのです。
仏教には道徳リストがあります。そのリストは、貪瞋痴を制御するために書かれたものです。貪瞋痴の根絶は究極の善であり、業から解放されることでもあります。貪瞋痴を根絶すれば、業の力の入る隙はないということです。初めて業から自由になります。
悪業の果報から身を守る
人間は業で生まれると言いましたが、人間みんな、善い業で生まれます。悪業で生まれるということはありません。しかし、「善い」といっても程度の差はあります。アクセサリーでも金と金メッキがあるでしょう。パッと見たときには同じ金に見えますが、メッキとの差はけっこうあります。それと同様、人間は善業で生まれますが、その善業には差があります。たとえ不自由な身体で生まれても、善業で生まれたのです。しかし、その善業はふつうの人の善業よりは少々弱いかもしれません。
善い業で生まれますから、悪業からとにかく身を守って生きるのがよいのです。仏教が薦めるのは、日々大量に善を行い、善業になる業を貯める生き方です。毎日毎日、善いこと善いこと善いこと善いこと……、貪瞋痴の反対のことをやって、やって、たくさん貯めるのです。いつでも、何か善いことをして貯めるのです。すると、善行為で忙しいので、過去の悪い業に結果を出すチャンスがなくなります。
たとえば、私にとんでもない不幸になる運命があったとしましょう。プログラムが組まれています。しかし、私は善いことをするのに忙しいのです。忙しいので、業には結果が出るチャンスがなくなるのです。私の身体は、時には、かなりきつくて痛くなって倒れそうになるときもあります。しかし、たとえば講演中は痛みはないのです。なぜかというと、頭が仏教のことを考えるのに忙しいからです。ですから、身体を痛めつけてやるぞ!という業は「ちょっと待ってみましょう」という待機状態になります。ずっと待っているままで有効期限切れになることもあります。
ですから、降りかかる悪業があったとしても、私たちが善行為をすることで忙しければ、けっこう悪いことから逃げられるのです。
果報は順番待ちをしています。過去の悪業が、果報を出そうとその順番を待っています。しかし、私が毎日、善行為をしていると、現在の善業の果報力もどんどん心に貯まります。すると、過去の悪行為の果報の順番が後回しになることもあるのです。
怒り、欲、嫉妬、恨み、憎しみ、悩み、落ち込みなどの感情をなくしてみます。その妄想をやめます。もう怒り、憎しみはさようなら、何があっても怒らない、悩まない、憎まないと決めるのです。いつでもニコッと笑って生きてみることにすると、けっこう悪業が下がっていってしまいます。毎日、すごくよく笑って優しい人間でいれば、好転するのです。それで悪業から自分が守られます。悪の果報をあらわにする意志が弱くなってくるのです。悪いことをしたい、ひどい目に遭いたいという意志はあるのですが、怒らない、悩まない、悔やまないという生き方でいると、悪い意志は弱くなって過去の悪業は順番が下がっていくのです。
不幸を回避する慈悲喜捨の念
悪業から身を守る第二のポイントは、日々、慈悲喜捨の念を修行することです。慈悲喜捨、それぞれの意味を簡潔に解説していきます。
●「慈」(mettā メッター)
友情という意味で、「仲良くしましょう」という気持ちに近い感情です。あらゆる生命の幸せを願う慈しみの感情です。
●「悲」(karuṇā カルナー)
見返りを求めず、「困っている人を助けたい」と思う感情です。抜苦の心ともいいます。
●「喜」(muditā ムディター)
嫉妬の反対の心で、人の成功をまるでわがことのようにしてともに喜べる感情です。人の良い部分がよく見え、それをわがことのように喜びます。共に喜ぶ、喜びを分かち合うという意味です。
●「捨」(upekkhā ウベッカー)
あらゆる事柄をすべて平等に見つめる冷静な感情です。すべての生命は平等であると理解できる能力です。人間、動物、魚などなど、生命には無数の種類があります。そして生命は、みな互いに違う個体です。猫二匹を見ても、それらは互いに異なります。一卵性双生児であっても人格は別々です。一切の生命と派、個体の集まりですが、生命として見ると平等です。同一ではありませんが平等だと理解する、この能力を「捨」といいます。
この四つは、ひじょうに優れた、やさしくて明るい感情です。仏教ではこの四つをまとめて「四無量心」といいます。
善行為がどういうものだかよくわからなくても、とりあえず慈悲喜捨の念を頭に入れておくのです。他の妄想はやめて、頭の中を慈悲喜捨だけにします。何が起きても慈悲の念を忘れないようにします。すると、一切の行為は、自動的に善行為に変わってしまうのです。
慈悲喜捨の念で生きていると、何をやっても善行為なのです。慈悲喜捨がない人は「善いことをしたいけれど、どうしたらいいのだろう」と困らなくてはいけません。しかし、慈悲喜捨の念がある人なら大丈夫です。やることは何でもぜんぶ善になってしまうのです。
すごく便利なのです。すごく楽です。悩んで、悩んで善行為を決める人と違います。慈悲喜捨の念で生きてみると、よほどのものでない限り、過去の悪業が現れるチャンスを失います。悪業には出番がなくなるのです。障害を持って生まれたとしても、身体に障害があったら不幸になるはずですが、慈悲喜捨で生きてみると、不幸になる業がはたらくチャンスがないのです。ごくふつうに、明るく生きることができてしまいます。不幸を避けるカラクリは、慈悲喜捨の念なのです。
慈悲喜捨の念で生きると、過去の業の善業だけが結果を出すことになります。慈悲喜捨の念でいると、過去の悪業も善業もあるうち、善業だけが、もうどんどん、どんどん出てくるのです。しかも、慈悲喜捨の念は、過去の悪業にも大きなダメージを与えます。慈悲喜捨を念じれば念じるほど、過去の悪業がダメージを受けて、結果を出す順番になってもガタガタで出てこられなくなります。慈悲喜捨は過去の悪業を壊すこともできるのです。
最上の善行為「妄想をやめる」
悪業の果報から身を守る方法はまだあります。妄想をやめることです。妄想を制御する実践は、最上の善行為です。
「妄想する」というのは、感情をかき回すということです。とんでもない悪なのです。そして、妄想をストップさせよう、ストップさせようとする力は、ものすごくパワーがあるのです。ですから、最上の善行為です。今生で起こる予定の悪結果はほとんどなくなります。
生まれたなら、自分には不幸になるプログラムも、幸福になるプログラムも入り混じってあります。妄想をやめようとして生きれば、不幸になるプログラムがほとんど実行不可能状態になります。妄想をやめようとする力はそうとう強いのです。意志がとても強くなります。
ヴィパッサナー冥想を始めた人からよく聞く話の一つに、「自分は何もやってないのに問題が消えている」ということがあります。ふだんは「これってどういうことですか」と質問されても説明しませんが、まさにこの業の説明通りです。「真面目に実況中継をして妄想をストップすると、自分にかかってくる予定であった悪業が実行不可能状態になる」ということなのです。妄想をやめると理性が現れます。妄想をやめたら論理的にしかものごとを考えられないでしょう。ですから理性が出てくるのです。
理性は善です。理性が現れたら、生きる道は悪から離れて善の流れに入るのです。今、我々は貪瞋痴で生きているから、悪の道を生きているのです。一日生きたら、一日分いっぱい悪いことをしたことになります。百年生きたら、百年間もそうとう悪いことをしたことになります。生きるとはろくでもない、とんでもなく悪いことになるのです。それが、妄想をやめるとどうなるかというと、悪を犯す道からガクッと脱線して、善の道に人生が入れ替えられます。すごく便利なことなのです。
仏教を学び、智慧を育てる
ここまで、「善行為」「慈悲喜捨」「妄想をやめる」という三つの悪業から身を守る方法を説明しました。そして四番目の方法は、「智慧を育てる」ことです。
世の中の学問を学んでも、智慧は現れません。アインシュタインの本を読んでも無智になるだけです。科学者の本を読めば読むほど、無智になりますよ。なぜなら、欲がどんどん現れてくるからです。欲ならいくらでも現れます。ですから智慧が現れてほしければ、ブッダの説かれた真理を学ばなくてはいけない。これはもう決定的で断言的にどうしようもないことなのです。
智慧を育てるためには、仏教を学ぶしかありません。ブッダの説かれた真理を学ぶこと、理解することで、まずは理性で生きるようになります。理性で生きれば、智慧を発見するのです。
聖書にしても、心理学的に微妙によくないのです。差別に悩まされる悪い人間になったり、人を殺してもかまわないだろうという気分になったりします。ヒンドゥー教を学んでも、バガヴァッド・ギーターを読んでも、ヨーガ・スートラを読んでもだめです。ブッダの教えを学ぶしかありません。
智慧を開発したければ、ブッダの教えを学ぶしかないのです。学んでいくと、まず理性が現れます。真理に納得すると、智慧が現れるようになります。それからブッダの教えたことを考えていったときに、「なるほどその通りだ、よくわかった、この通りだ」とわかってくるのです。納得がいくと、もう智慧が現れだすのです。
空・無常・無我などの話は智慧を引き起こします。空とは何でしょうか、無我とは何でしょうか、無常とは何でしょうか、と実験しながら学んでいくのです。それでけっこう智慧が起こってきます。
空・無常・無我だけではなく、因縁とは何かと学んでも智慧が現れます。また、智慧を経験したければ八正道という方法があります。八正道の実践は智慧に達する方法です。
智慧が現れたら一切の執着がなくなります。解脱に達することは、業から完全に解放されることです。業というのは、善であろうが悪であろうが、とんでもなく悪いのです。ですから、業から逃げなくてはいけません。逃げる方法というのが、智慧を開発することなのです。智慧を開発すれば、執着がなくなるのです。「生きていきたい」という執着も、業になります。これがなくなることは、業からの解放です。解脱できるのです。
初めから解脱を目指すかどうかはともかく、悪い業が結果を出すチャンスを失うくらい、日々、理性で生きて、善行為に忙しい毎日を実践すれば、悪い問題は起こらない幸福な日々が送れます。業を正しく理解して、お釈迦様のお薦めになる生き方にぜひ挑戦していただきたいと思います。
この施本のデータ
- ブッダが教えた「業(カルマ)」の真実
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2012年