「1」ってなに?
生きるためのたったひとつ
アルボムッレ・スマナサーラ長老
一ってなに?
お釈迦さまがその子供に出した質問リストは全部で十項目ありましたが、今日はその中から一番目の質問だけを紹介します。
その質問は、「一とはなんでしょうか?」でした。
答えられますか?
皆様も、数字の一は知っていますね。一はみんな知っているのですが、「一とはなんですか?」と訊かれると、誰にも答えられないのです。
だから、仏教の世界はそう簡単ではありませんよ。深い智慧の世界なのです。その深い智慧を、誰にもわかりやすく教えるのです。しかしこの質問は、皆様にわかりやすく教えられるかどうか、私にはちょっと自信がありません。
人間は「すべては一つ」が好き
まず、歴史背景から説明しましょう。
インドにはたくさんの宗教があります。現代ではヒンドゥー教という名前でまとめていますけど、ヒンドゥー教という傘の中に、無数の宗教があるのです。全部同じ「ヒンドゥー教」という名前で、仲良くやっています。喧嘩はしません。日本にも宗教・宗派がいっぱいありますが、お互いにけっこう仲が悪いですね。インドのヒンドゥー教はそうではなく、やっていることはお互いにまったく違うのに、喧嘩したり批判し合ったりということはまったくありません。「まあ同じヒンドゥー教だからいいんじゃないか」ということで、大きな袋になんでもかんでも放り込んでしまうのです。整理整頓はしません。だから、「ヒンドゥー教」という袋を開けてみれば、生ゴミもあるし、燃えないゴミもあるし、燃えるゴミもあるし、また、大事な宝物もあるし、なんでもあり、という感じです。
そんなヒンドゥー教で、哲学者たちや、冥想やヨーガをやっていろんな神秘体験などを得た人たちの間で、「すべては一つだ」という考え方があったのです。
西洋では、その考え方はけっこう人気があります。英語でnon-dualismと言います。直訳すれば「不二一元論」です。「二つではない。すべては一つである」という思想です。「なんでもかんでも、地球も宇宙も生命も、本来はたった一つのものである」という考え方なのです。そういうのを、なにかカッコイイ思想だと思っているようです。
大乗仏教でも同じことを言いますね。有名なので、ことわざと言ってもいいくらいです。「一即一切」と言います。「一は、すなわち、一切、すべてである」と。すごくカッコイイ言葉なのですが、意味はというと、これがさっぱりわからないのです。
この、「わからない」ということが、ありがたいのでしょうか。その言葉を憶えたり、掛け軸に書いたり、色紙に書いたり、いろんなことをしていますね。
「一即一切」?
ある大乗仏教のお坊さんがいて、その人は日本人ではないのですが、きれいな漢字で、私に「一即一切」と書いて見せたことがあります。
私はそれを読んで、「この意味は何でしょうか?」と訊きました。「これはあなた方が実践している大乗仏教の思想ですから、私たちにも理解できるように説明していただけませんか?」と、尋ねてみたのです。
ところが答えられないのです。「えー、それは、大乗仏教の、とても尊い考え方です」などと言うのです。「いくら尊くてもそれはどうでもいいんだから、意味はなんでしょうか」と尋ねたのですが、それには納得のいく答えはなかったのです。
「一即一切、森羅万象は本来ひとつである」というのは、日本でも、お寺でかなり学問をやっているお坊さんたちが、胸を張って言っています。しかし、その意味はわからない。私から見れば、そんなのは単なる信仰に過ぎないのです。
「一即一切」などと言ってしまう心のはたらきは、理解できなくもありません。
宗教者がまじめに修行すると、ときどき神秘体験のたぐいの経験を得ることがあります。「我を忘れてしまった。無我になった」というような経験も、あるのです。サマーディ冥想、ヨーガ冥想などの場合は、たまに、なにか自分が消えてしまったような気がすることがあります。そのような経験が起こる場合、認識が混乱することなく、一時的に心の波動が一定になるのです。その瞬間に、あれこれ認識することが停止します。本人にとっては、びっくりする経験です。それから、その経験を知識で理解しようとするのです。知識では「ゆえに、一即一切である」という言葉になるのです。「自分が一切(森羅万象)と一体になりました」と理解するのです。そのような体験があっても、人はそのままで、人格が変わることはないのです。
逆に、私は異論を持っています。「はじめから、あなたと宇宙と、同じものなのだったら、なぜそんなに苦労して修行して発見する必要があるのでしょうか?」と。
そもそも、私たちは宇宙のほんのひとかけらでできているものでしょう。つまりは、宇宙そのものでしょう。別にそんなに大げさに考えなくても、この身体はご飯を食べて、キャベツを食べて、ジャガイモを食べて大きくなったでしょう。だから、身体は地球のものでしょう。太陽のエネルギーで育ったから太陽でしょう。宇宙そのものですよ。
でも、そんなシンプルな話では宗教哲学になりません。なんだかわけもわからないような、難しくて、いかにもありがたそうな表現に変えてみたところで、宗教哲学になるのです。
だから「一即一切」と言ったって、そんな大層な教えではないのですよ。子供にも理解できるものなのです。でも、一即一切の、その「一」とは何なのか、誰も知らない。
そういう背景があったのだから、お釈迦さまはあの子供のお坊さんに、「一とはなんでしょうか?」と尋ねたのです。
中身のない言葉
「一とは何でしょうか」と訊かれたら、答えにくいのです。「一」には定義はないのです。「一」が成り立たなくなったら、「半分」も、「二、三」などの数字も成り立たなくなります。数学者は困ることになります。
「一」というのは、実際あるものではなく、頭で考えた概念のひとつなのです。人間は自分の都合で概念をつくるから、数字は人間だけに必要なものになっているのです。
たとえば、人間は2+2=4だとわからなかったらたいへん困るでしょう。でも、カラスは一度も困ったことがないのです。皆様が飼っている猫や犬に訊いてみてください。「あなたたちは、2+2はなにか知っているの?」と。知りませんよ。知らないのだけど、立派に生きているのです。だから、犬も猫もカラスも、数字も数学もなく生きていられますよ。「数学は生命に必ず必要である」ということは全然ないのです。
では、薬や医学はどうでしょう。それも必ずしも必要であるとは言えないのです。薬を飲まなくても寿命をまっとうする生命はいくらでもいますから。野生の動物は薬を飲まないでしょう。でも、それなりには生きていますよ。
そういうわけで、私たちは「命に必ず欠かせない」というものを学んでないのです。学んできたのは、なくても問題にならない知識ばかりで、生きることに欠かせないものを学んでいない。それで、生きることは問題だらけで、ややこしくなるのです。
お釈迦さまが訊かれた「一とはなにか?」の一は、数学の一という概念ではありません。
あるいは、宗教にマインドコントロールされている人なら、「一とは森羅万象です。すべては本来同じものですよ」などと答えるでしょう。
そうしたら、お釈迦さまは「では、その証拠を出してみてください」と言うはずですよ。「森羅万象、すべてが同じものなら、石ころとおにぎり、この二つはどちらも同じものでしょ。だったら、なぜあなたは石を選ばないでおにぎりばかり食べるのでしょうか。矛盾でしょう」と、矛盾を厳しく衝いたでしょうね。(これは、お釈迦さまならこのように矛盾を示すだろうと、私が勝手に考えたことです。「一即一切」という命題は、経典のなかでは分析するにも値しないと思われていたようです。)ですから、「一即一切」のような語呂のよい言葉を発しただけでは、意味がないのです。それは中身のない言葉になるだけです。
生きるために必要なことを学ぼう
お釈迦さまの教えでは、しきたり、世俗的な学問などはそれほど重大な意味を持っていません。あってもなくても構わないものなのです。しかし、学識があっても学識がなくても、生命は生きている。死まで生きていなくてはいけないのです。ですから、「生きるということに欠かせないもの」「幸福に生きるために欠かせないもの」「生きることは本来、苦なので、生きることを乗り越えるために欠かせないもの」を学ばなくてはならないのです。仏教は「生きる」ということを中心にして、真理を発見した教えなのです。
たとえば、皆様は今、椅子に座っていますが、この椅子がきれいか汚いか、頑丈かそうでないか、そもそも椅子があるのかないのか、とか、そういう悩みや思考は、なんで生まれるのですか?
私たちが、生きているからなのです。生きていなければ、椅子なんかどうでもいいのですよ。食べ物だって、ジャガイモがおいしいかおいしくないか、外国から輸入する加工食品にいろんな化学物質が入っているかどうか、入っていると困ったものだとか、そんなことでけっこう悩んでいるでしょう。食品に化学物質が入っていたら、なぜ困るのですか? 私たちが、生きているからなのです。牛乳にたくさんのメラミンが入っていても、牛乳にとってはどうでもいいことです。私たちが生きているのだから、飲み物の牛乳にメラミンが混入したら困るのです。
世の中のすべての問題は、生きているのだから、生じるのです。怒りも憎しみも嫉妬も落ち込みも、なんでもかんでも、生きているということが基本にあるのです。そこを学んでみれば、問題はすぐに解決します。
「生きるとはなにか」とさっぱり知らないで、「こうすればいい、ああすればいい」と右往左往しても、ものごとは解決しません。
「あの神社からお守りをもらえば大丈夫だ」とか、「いや、あの神社ではなくてもっと十キロ先の誰も知らない神社がありまして、そちらのお守りのほうがいいのだ」とか言っても、それでは問題は解決しません。ほとんど誰も行かない寂れた神社だったら、力はないと思いますしね。そういうことはどうでもいいのです。そんなことでは人間の生きる問題は解決しません。
私たちはいろんな問題に悩んでいますが、基本的に、「生きるとはなにか」ということをわかっておけば、人間に関わる一切の問題は解決できます。
そういうわけで、お釈迦さまが子供のお坊さんに「1とはなにか」と訊かれた時は、「生命、いのち」にかかわるなにかを質問したのです。数字の質問ではなかったのです。
この施本のデータ
- 「1」ってなに?
- 生きるためのたったひとつ
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2009年5月8日