施本文庫

充実感こそ最高の財産

今、この瞬間を生き切ればいい 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

5 Q&A 

(Q)「終了宣言」についてですが、冥想を終了するとき「吸います、吐きます、冥想を終わります」と確認していますが、その代わりに「吸います、吐きます、やったぞ!」とラベリングしてもよろしいでしょうか? 

それはよくありません。「やったぞ」というのは、冥想を終了するときだけでなく、瞬間瞬間あってほしいのです。 

たとえば、お腹が膨らんだとき「膨らみ」と確認するでしょう。そのとき「この一個の膨らみを確認しました」という気持ちがあってほしいのです。そうすると30分冥想した人は、30分間のうちの一秒一秒、ずっと充実感を味わっていることになりますからね。
冥想を終了するときにだけ「やったぞ」というと、「30分間苦労してやっと終わった」という感じになるのです。 

(Q)智慧というものは何も判断しないことだと教えていただきましたが、この「何も判断しない状態」という意味がよくわからないのですが。 

私たちが判断しているものは、すべて幻覚です。たとえばここにバラの花があります。これを「バラの花」と判断するために、脳の中ではシミュレーションが行われているのです。目からバラの花の映像が直接入るわけではないんですね。 

花びらの赤色の部分は脳の中のあるところで、葉っぱはまた別のところで、茎はまた別のところでと、脳の中でバラバラに認識しているのです。それら一つひとつのものを、脳がまとめて合成しているのです。そのときは外にあるその物体ではなく、脳に叩き込まれているもので合成しているのです。 
ですからそのバラの花を見て、「きれい」と判断しても「きれいではない」と判断しても、その判断は脳が合成しているシミュレーションにすぎないのです。私たちはそのシミュレーションを、考えることだと勘違いしているんですね。 

「智慧」というのは、このシミュレーションを破ることなのです。このことを言葉で表現するときは「何も考えない状態」としか言いようがないのです。 

(Q)私たちには義理や義務などがたくさんありすぎて時間が足りない、という話がありましたが、結局それらを「捨ててしまえ」ということなんでしょうか? 

(A)そういう意味ではありません。たとえ自分に抱えきれないほどの義理や義務があったとしても、一日は24時間と決まっているでしょう。ですから一秒間に何ができるかということも決まっているんですね。 

たとえ一億ぐらいの義理があったとしても、それをやるための時間が10分しかないのならば、選択するしかないのです。それ以外のことは、時間が足りなくてできないのですから。はじめから「ない」ということに決めるのです。 

たとえば二人の子供がいて、今日はお兄ちゃんの学校に行かなければならない日だとしましょう。ところが弟が突然熱をだしてしまいました。義務が二つ成り立ってしまいましたね。お兄ちゃんの学校に行かなくてはならないことと、弟を病院に連れて行かなくてはならないということ。同じ時間に二つのことができますか? できません。それで、どちらを選択するかということになるのです。
もし弟を病院に連れていくことに決めたなら、お兄ちゃんに「弟が熱を出したから今日は学校に行けなくなりました。だから先生にそう伝えてちょうだい。お母さんからも電話しておくから」と言えばいいのです。 

私たちの頭の中には、できるはずのないものまでいっぱい詰まっています。そして「どうしよう、大変だ、困った、時間がない」と混乱して、ただ走りまわっているのです。それが心に強烈な苦しみを与えているのです。 

そうではなくて、自分にできることだけを選んでください。でも、これを聞いて「なんだ、できることだけやればいいのか」と怠けるのはよくないですよ。怠けることは悪行為ですからね。一秒も怠けずに、その一秒その一秒でやるべきことをやらなければならないのです。 

たくさん仕事があっても、そのうちの一つだけをきちんとやればいいのです。 
それを完璧にやる。そうすると「やったぞ」という充実感が心に生まれてきます。やることが少ないのですから、失敗したり、間違えたり、中途半端で終わることなく、落ちついて丁寧に仕事ができるのです。 

(Q)仏教が言う「充実感」と、私たちが知っている日本語の「充実感」とは、少し意味が違うように感じたのですが……。 

(A)「充実」という言葉は、パーリ語でsantuṭṭhi(サントゥッティ)と言います。これは『メッタ・スッタ』(慈悲経)や『マンガラ・スッタ』(吉祥経)など、いくつかの経典に出てきます。 

サンスクリット語に、喜びや快楽を意味するsantusという語があります。お釈迦さまはこのsantusという語を使って、「充実感」という仏教用語にしました。
充実感は、人間が育てるべき性格の一つです。日本語でも「充実」という言葉がありますが、その意味はお釈迦さまがおっしゃったものと違います。 

お釈迦さまがおっしゃる「充実」とは、超越した智慧のことです。私たちはいかにもわかっているような顔をして、「なんだ、お釈迦さまはそんなことしか言わないのか」と思うかもしれません。でもそれは誤解です。「充実」とは単純な教えではなく、超越した智慧なのです。 

では、仏教が教える「充実」とはどういうものなのでしょうか? 
ものごとは瞬間瞬間、変化しています。一つひとつの瞬間は二度と繰り返されることがありません。永久に戻ってこないのです。輪廻の中で、無始なる過去から、ずっと変化し続けているのですが、ある一つの瞬間が戻ったということは一度もないのです。 

ところが私たちは、「明日がある」と思って今の瞬間を怠けて過ごしているのです。「明日がある」と考えてしまうのは無常の論理を知らないからですが、実際のところ「明日」という日はないのです。明日の自分はまったくの別人ですからね。すべての現象は瞬間瞬間変わっているのです。変わらないものは何一つありません。
ですから「あるのは今の瞬間だけ」という真理をよく理解して、生きていなくてはならないのです。今の瞬間を最高に生きることが何よりも大切なことなのです。 

たとえば賞味期限が切れたものを食べている人がいるとします。その人は、その時その人にできる一番いいものを食べているんですよ。ですから周りの人の目を気にしたり、腹を壊したらどうしよう、などと頭の中でゴチャゴチャ考えないで、「自分は今の瞬間で最高のものを食べている」と思って、堂々と生きていればいいのです。 

たとえば足を捻挫したとします。そうすると通常のようにスムーズに歩くことはできませんね。だからとその人が「へんな歩き方」をしていると言えますか? へんな歩き方をしていないのです。その時その人ができる精一杯の歩き方をしているのです。ですから「人に笑われるのではないか」とか「恰好悪いなあ」と心配する必要はないのです。ぎっくり腰になってぎこちない歩き方をしていても、その人はその条件の中でできる、ギリギリの正しい歩き方をしているのです。 

このことを理解するには、ちょっとした智慧が必要です。俗世間の知識レベルではなかなかわからないよと思いますよ。でも理解できれば人生は楽しくなりますし、充実感も生まれてきます。  
そこで充実感を得るために、瞬間瞬間の現象をしっかり確認してみてください。一瞬も無駄にすることがないように。 

お釈迦さまはこうおっしゃっています。「自分でやってみなさい。試してみなさい」と。
仏教は信仰するものではなく、自分で確かめてみるものです。実際に自分でやってみれば、論理がどんどんわかってきて、幸せを実感できるようになります。これが、言い換えれば「悟り」というものなのです。 

このようなお釈迦さまの言葉があります。 

Santuṭṭhī(サントゥッティー) paramaṃ(パラマン) dhanaṃ(ダナン)
「充実感こそ最高の財産である」――これ以上の言葉がほかにあるでしょうか! 

Ārogyaparamā lābhā 

Santuṭṭhiparamaṃ dhanaṃ 

Vissāsaparamā ñāti 

Nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ. 

Dhammapada 204

無病は最高の利得であり、 

満足は最高の財産である。 

信頼は最高の親族であり、 

涅槃は最高の幸福である。 

法句経 二〇四偈

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この施本のデータ

充実感こそ最高の財産
今、この瞬間を生き切ればいい 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2002年9月