充実感こそ最高の財産
今、この瞬間を生き切ればいい
アルボムッレ・スマナサーラ長老
2 心に「ゆとり」がありますか?
「やらなくちゃ」という強迫観念
人間でも動物でも神々でも、すべての生命は「幸せになりたい」と願っています。それなのに、なぜその希望を実現させることができないのでしょうか?
なぜ私たちは気楽にいきていられないのでしょう?
なぜ心にゆとりがないのでしょうか?
それは、「やらなくてはならないこと」がたくさんあるからです。あれもこれもとものすごくあるでしょう。義務が多いし義理も多い、守らなくてはならないものもどれほどあるかわかりません。それから希望(hope)もたくさん持っています。希望のほかに(wish)もあります。
これだけでも大変なのに、数え切れないほどの欲望も持っています。欲望は、希望や願望と違って病気かもしれませんね。なぜなら希望と願望は努力すれば叶う可能性がありますが、欲望は決して叶わないからです。欲望とは、コロコロ形を変えてゆくものなのです。ひとつの欲望が満たされたかと思うと、もうその瞬間に別の欲望が生まれている、そしてまた別の欲望、また別の欲望…を。
だから結局は何も満たされていないということになるでしょう。それが心に大きな苦しみを与えているのです。
義理と義務でてんてこ舞い
まず「義務」から見てみましょう。義務とは私たちが生活するために日々やらなくてはならない仕事のことです。料理を作ったり、掃除をしたり、洗濯をしたり、花に水をあげたり、いろいろありますね。それでよく見てください。一日の義務を果たすのに寝るまで時間がかかっています。寝るときになっても、まだやり終えてない仕事があるのではないですか? 買い物をしておけばよかったとか、庭の手入れができなかったとか、書類の整理ができなかったとか、そういうのはしょっちゅうあることです。いわゆる一日かかっても、日々のやるべき義務を完全に果たしきれていない状態なのです。
「義理」の場合はどうでしょうか。義理とは人と人の関係の中で否応なしにやらなくてはならない付き合いのことです。葬式に行ったり、結婚式に出席したり。お祝いを贈ったり、親戚のお見舞いに行ったり、いろいろありますね。ですが、これらのことも忙しさのあまりついつい忘れてしまうのです。
命日を忘れたり、墓参りを忘れたりする。そうすると少々面倒なことが起こるのです。べつにお化けが出てきてあなたの首を絞めるわけではありませんが、親戚にブツブツと小言を言われたりするのではありませんか?
もし年賀状を郵便局まで持っていく途中、その中の一枚をどこかに落としてしまったら? もちろん相手には届きませんね。それがもし重要な人への年賀状だったらどうなりますか? それだけでちょっとした問題が起こるかもしれませんよ。
このように、私たちは義務をこなすだけでも丸一日費やしてしまうのに、そのうえ義理も果たさなくてはならないんですね。
どうでしょう、私たちはストレスを溜めずに生きてゆくことができるのでしょうか?
守ることは苦しみです
義理や義務のほかにも、私たちには家族や財産、仕事など「守らなければならないもの」がたくさんあります。会社が倒産しないように、またリストラにならないように、自分の仕事を厳密に守らなくてはなりません。そのために朝から晩まで働いて必死に頑張らなくてはならないのです。これは簡単なことですか?
学校で自分の子供がいじめられないように、子供を守らねばなりません。
でも実際に守れますか? 子供が友達にいじめられているとき、両親には何ができますか? いじめられないようにすることができますか? 何もできないと思います。それで、できなくて、できなくて、悩み苦しんで、ストレスが溜まるばかりなのです。
ほかにも、健康を維持するために食べものに神経を使ったり、家に泥棒が入らないように警報装置を取り付けたり、財産があればあるほど、それを管理するのに苦労しているのではないでしょうか。
なぜ、危険なものまで守る?
このように、私たちには抱えきれないほど「守るべきもの」があります。それにもかかわらず、さらにどうでもいいモノまで守ろうと頑張っているのです。それは「思考」です。自分の思考を守るために、私たちは並々ならぬ苦しみを味わっているのです。
例えば皆さんはあたりまえのように「私は日本人だ」と思っているでしょう。その何気ない思考が苦しみを生み出しているんですよ。その思考によって自分と他人を差別しているのです。それが戦争を引き起こしているのです。私たち人間は「我が民族」とか「我が国」というくだらない思考をつくり、そのために多くの民族に分裂してしまいました。そして各々が、自分の民族や国を守るために、他と闘っているのです。
世の中では宗教争いが絶えません。個々が大切に抱いている「私の宗教」という思考を捨ててしまえば争いも苦しみも終わるのに、それはやらずに頑なに守ろうとする。「我々の宗教は素晴らしい、なにがなんでも守らねばならない」と考えて徹底的に他の宗教と戦っているのです。結果はどうですか? みんな思う存分苦しみを味わって、最後には死んでしまうだけでしょう。
思考のほかにも、プライドや地位権力などのどうでもいいこと、何の役にも立たないものを守ろうと、私たちは必死に闘っているのです。
過去のガラクタも手放しません
それから私たちは「文化」を守ろうと頑張っています。しかしこれもまた守り切れないものなのです。
アフガニスタンのバーミヤンの仏像は守れたのですか? 跡形もなく消えてしまったでしょう。国連はそれを人類の文化遺産として保護しようと努力しましたが、結局守り切れなかったのです。
イスラエルとパレスチナはどのくらい戦えば気が済むのでしょうか? どちらの国も「ここは我々の祈りの聖地だ」と感情的になって、それぞれが自分の進行を厳密に守ろうとする。そこは人類に平和を説いた人が生まれた場所でしょう。その重要な場所でどのくらい大勢の人々が死んでいるんですかね? なぜみんなで仲良く平和を楽しまないのでしょうか? キリスト教徒であろうと、ユダヤ教徒であろうと、仏教徒であろうと、イスラム教徒であろうと、ヒンドゥー教徒であろうと、人類みんながその場所に行って「ここは西洋で人類に平和を語った人が誕生した場所です」と喜べばいいでしょう。でもどうですか、今の状態は。
たとえば若い娘さんが伝統的な家に嫁いだとしましょう。その家の人たちは、「あなたはうちの嫁になったのですから、しっかりこの家の伝統を守ってもらいます」と、いきなり厳しくしてお嫁さんをいじめる。この家族は、伝統の方がお嫁さんよりも大事だと思っているんですね。お嫁さんは新しい家に嫁に来たばかりなのに、こんなふうに言われると精神的に追い詰められて、ものすごく苦しみを味わってしまうのです。
また先祖代々続いている老舗だからというだけで、苦労してその店を守ろうとする。今の時代に合わなくて大変なのに、その収入で生活していくのもむずかしくなっているというのに、それでもしがみついて老舗の看板を守ろうとするのです。
このように私たちは何かを守ろうと必死に頑張っています。「守る」というと、美しく聞こえるかもしれません。でも「守る」ことでいったい何が得られるのでしょうか? 何か利点がありますか? 一つもないんですね。それどころか、生きることがいっそう苦しくなるのです。得られるものは苦しみだけなのです。何かを守ろうとすることが人間の苦しみの原因になっていることは確かな事実です。
わざわざ壊さなくても自然に壊れますよ
では、守ることが苦しいというならば、壊せというのでしょうか? これまで見てきたように、何かを守ろうとすれば、それに伴って、悩みや悲しみなどのあらゆる苦しみがついてきます。
だからといって、何でも「壊せ」といっているのではありませんよ。何かを「守る」ことでも「壊す」ことでもなく、非論理的なくだらないことで互いに闘ったり苦しんだりする必要はない、と仏教は教えているのです。
数年前、アフガニスタンのバーミヤンの仏像が壊されたとき、「あなたは仏像が破壊されたことについてどう思いますか?」と質問されました。
私は仏像を破壊することが善い行為だと思っていません。しかしアフガニスタンの人々は、自分たちの貧しさや苦しみがあの仏像のせいだと考えているでしょう。迷惑だと言っています。もし仏像を壊すことでアフガニスタンが豊かな国になれるというなら、それはそれでいいのではないかと思います。彼らはそういう思考だからしょうがないし、放っておくしかないのです。べつに仏像があっても痛くも痒くもないはずなのに、仏像があるだけで反イスラム教的だと、タリバン政権が脅えているのですからね。タリバンのその思考だけではなく、人間の無知、つまり、何もわからず何も理解できず判断能力がない、という情けないところを悲しく感じるだけなのです。
余計なことを考えずに放っておけばいい場合もあります。どんなものでも必然的に壊れてゆきますからね。ピラミッドも、古代文明も壊れてしまいました、ローマ帝国を見ても、今あるのはガラクタだけでしょう。
そういうことで、誰かが強引に壊さなくても、自然の法則の中で、ものごとは必然的に壊れてゆくものです。ですから何でもかんでも破壊して、わざわざ苦しみを味わう必要などないでしょう。腹を立てずに落ちついていればいいのです。
このように、私たちは義務が多く、義理も多い。それから宝のように大事に守っているものも山ほどあります。それでよく見てください。私たちはやることが多すぎて時間が足りないのです。社会的な義務や義理を果たさなくてはならない。身体の面倒もみなければならない、収入を得るための仕事もしなくてはならない。とにかく時間が足りないのです。
そのうえ突発的な事故も起こります。たとえば「お子さんがトラブルを起こしたからすぐに学校まで来てください」と先生から電話がかかってきたとします。天ぷらをつくろうと思って下ごしらえを終え、油を熱していた最中かもしれませんよ。でも全部中断して学校に走っていかなくてはなりませんね。
それでさらに時間がなくなってしまうのです。時間が足りない生き方というのは、結果として、どんな仕事も中途半端でやめることになるのです。
この施本のデータ
- 充実感こそ最高の財産
- 今、この瞬間を生き切ればいい
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2002年9月