施本文庫

充実感こそ最高の財産

今、この瞬間を生き切ればいい 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

科学発展のウラに潜む不幸 

多くの人々は「科学が発展すれば人類は幸福になる」と信じているようですが、本当にそうでしょうか? 技術は確かに進歩しました。数々の便利な道具が発明されました。でも私たちの生活はそれによって本当に楽になったのでしょうか? 

全然幸福になっていないのです。余裕もやすらぎもありませんね。その理由のひとつに、いくら新しい便利な製品を開発しても、私たちには買えないほどの高い値段がつくのです。もし買おうとすると、今までより何倍も仕事をしてお金を稼がなくてはならないんですよ。そうするとさらに時間がなくなってしまうでしょう。 

ですから「科学が発展すればするほど人間は幸せになる」とは一概に言えません。むしろ逆。さらに忙しくなって、生きることが複雑になるだけなんですね。なぜそうなるのでしょう? それは科学の発展も貪瞋痴で考えた結果だからなのです。 

「金もうけ第一主義」が生む苦しみ 

以前「手術するロボット」を開発しているのをテレビで見ました。これはなかなか素晴らしい技術だと思いました。身体を切らずに三ヶ所だけ穴を開けて、そこから細い管を入れ、それで手術を行うのです。切るところは切って、取るところは取り出して、縫うところは縫ってくれる。全部ロボットがやるんですよ。患者さんの身体にかかる負担も少ないし、このロボットは確かにすごいと思いました。 

でも問題は値段なんです。かなりのお金がかかります。普通なら10万円で手術がうけられるところ、40万か50万円ぐらいはかかってしまうのです。保険もききません。ですから結局、普通の暮らしをしている私たちは、そのロボットを使って手術を受けることができないんですね。 

それからロボットそのものの値段です。これがとてつもなく高い。この技術は人間にとって役に立つものですから、私はできるだけ世界に拡がってほしいと思います。なるべく多くの病院にそのロボットを置いて、誰もが簡単にその恩恵を受けられるようにした方がいいと思います。各国の政府が資金を出しあって、「このロボットは人類のためになりますから世界各地でつくりましょう。買えない人々にも買えるようにしましょう」と、少しでも人類にやすらぎをもたらすべきなのです。 

ところがどうでしょう。逆に特許をとって、莫大な額のお金を支払わなくては買えないという状況なのです。このロボットは確かに素晴らしい技術だと思いますが、手術を受けようとすると、今までの4倍も5倍ものお金がかかってしまう。そうするとそのぶん私たちは働いてお金を稼がなくてはならないでしょう。それでさらに生活は忙しくなり、時間がなくなってしまうんですね。
それから、人類の一部だけがその恩恵を受けることができて、他の大勢の人々はその恩恵が受けられない、という不公平な世界ができあがってしまうのです。せっかく素晴らしい技術を開発したのになぜそうなるのでしょうか? 貪瞋痴でしょう。「お金がない人は助けません。私たちは金儲けのためにこのロボットを開発したのだ」と言っているようなものです。
でも金を儲けてどうするんですか? 一部の人の金儲けのためだけに、多くの人々が苦しんでいるのですよ。この「金儲け」という言葉自体が恐ろしいと思います。 

互いに助け合って、みんなで仲良く気持ちよく生きていれば、それだけで幸福なのに。でも貪瞋痴はそうさせませんよ。「なにがなんでも儲けなくてはならない」と言って、相手の持っている財産も能力もすべて搾取し、盗み、奪ってしまうのです。 

貪瞋痴があるかぎり幸福は訪れません 

このように私たちが生きているこの世の中は、貪瞋痴の思考で成り立っているのです。そして貪瞋痴で哲学をつくり、私たちに「生きる道」を教えているのです。 

見てください。多くの人々が平和や愛を語っています。でも世界に平和があったことは一度もないでしょう。こんなに豊かな国の日本でも、ホームレスがたくさんいるのが現実です。 

政治家たちは「国の発展のために、国民が豊かになるように、精一杯頑張ります」と叫んでいますが、それが実現されたためしはないのです。そこでよく見ると、そう言っている政治家たち自身が、汚職や賄賂など、いろいろな不正をはたらいているのですね。約束も守りません。なぜでしょうか? 
政治家たちも貪瞋痴で考えているからです。そして政治家にとっての命である国民の信頼を失ってしまうのです。 

もう一つの例で考えてみます。医者が手術中に何かミスを犯したとします。でも「手術は完璧に終わりました」と言えばそれで終わってしまいますね。ミスしたことを記録しなければ、誰にも知られることはありませんから、何もなかったことになるでしょう。隠せるものなら医者も医療ミスを隠すのです。貪瞋痴の思考しかないので、それはしょうがないことなのです。
でも、患者側も簡単に殺されてはたまりませんから、医者を疑うようになっているのです。それで人の命を救う医者を訴えることが患者にもできるようになったんですね。貪瞋痴で行動するから医者でも信頼できないのです。 

でも誤解しないでください。私は医者のことを悪人だと言っているわけではありませんよ。いくら完璧に治療するように努力しても、心に貪瞋痴があるかぎりミスは起きてしまうのです。 

まわりの人を信頼できますか 

このような不安の多い社会の中で、なぜ私たちがいまだに殺されず、被害に遭わずに生きていられるのかといいますと、それは他人を疑っているからなんです。信頼していないからなのです。これは事実ではないでしょうか。でもそんな世界は美しいですか? 人を疑って、敵だと思って、騙されないように神経をすり減らして毎日を生きることは楽なことですか? 

病気になっても、「近所の医者に診てもらおう」と簡単には済まされません。どこの医者が優れているか、どこの病院が設備が調っているか、といろいろ調べるでしょう。私はその行為自体がおかしいと思います。だって頭の中で、悪い病院と良い病院が成り立っているのですから。人を殺すような悪い病院があるはずもないのに。 

このように私たちは貪瞋痴の思考でわざと苦しみをつくっているのです。そしていつでも「騙されるかもしれない」という気持ちで、人間同士が互いに疑いの目をもって、緊張して生きているのです。そうしないと生きてゆけない社会なのです。 

カラスでも、のら犬でも、きちんと群れをつくって、互いに仲良く心配し合いながら生きています。でも人間はどうでしょうか? 互いに信頼しないのです。夫婦、親子、兄弟、先生と生徒の間に信頼関係はありますが、よく見るとそこは隙間だらけなんですね。人間は人間を信頼していない。これが現実なのです。 

私たちはそういう残酷な世界で生きているのに、「この世界は素晴らしい、なんて幸せな人生か」と言うんですね。どこまで私たちは無知なのでしょうか。 

真に幸福な世界とは、人を疑いの目で見るのではなく信頼すること、人を敵だと思うのではなく仲間だと思うことから成り立ちます。誰を見ても「いい人だなあ、やさしい人だなあ」と感じられる世界。なぜそういう世界がないのでしょうか? なぜこんなにストレスで凝り固まって生きているのでしょうか? 

すべては貪瞋痴が原因なのです。 

もうちょっと自分を大事にしてみては 

そこでお釈迦さまはこうおっしゃいました。「あらゆる苦しみのもとである貪瞋痴を捨てなさい」と。 

この言葉に対して「そんな生き方ができるはずがない」とか「不自然だ」などと文句を言う人が、今も昔もいるのです。でもよく考えてみてください。どちらが不自然ですか? どちらがおかしなことを考えているんですか? 

腹が立っているとき、鏡で自分の顔をのぞいてみてください。ものすごく醜くありませんか? 嫉妬や憎しみで心が燃えていると、気持ち悪いイヤな人間になってしまうのです。他人に愛されなくなります。みんな嫌悪して離れていくのです。 

欲に目が眩めば必ず自己破壊に陥ります。それは歴史を見ればたくさんの証拠があります。昔の愚かな政治家たちは「自分の国を広げよう」と欲を出して、次から次へと戦いを挑んでいきました。それでどうなったんですか? 結局、自分の国までも滅ぼされてしまったんですね。世界ではヒットラーのような独裁主義者が何人か現れましたが、そのうちの一人でも世界を制覇することができましたか? みんな虚しく死んでしまっただけでしょう。
このように欲や怒りがあると、心は固くなり暗くなって、最終的には自己破壊に陥るのです。それでも頑なに「欲と怒りは手放したくない」と言い張る人がいますが、それは無知のせい、ものごとを観察しないせいなのです。 

慈しみであふれる世界を 

お釈迦さまはこのようにおっしゃいました。「世の中を正しく観なさい。欲や怒りの感情に任せて歪めて見るのではなく。『ある』ものをあるがままに知っておきなさい」と。 

ものごとをありのままに観察すれば欲も怒りも消えてしまうのです。このような人にとって、周りの人々は「敵」ではなく「仲間」になるのです。「騙す人」ではなく、何かあったら「助けてくれる人」なのです。「イヤな人」ではなく、「やさしい人」なのです。 

お釈迦さまは、母親が自分のひとり子を心配するように、すべての生命が互いに心配し合い慈しみであふれる世界にしたい、と望んでいました。とてつもない大きなスケールで世界と、そこに生きる生命を観ていたのです。 

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充実感こそ最高の財産
今、この瞬間を生き切ればいい 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2002年9月