充実感こそ最高の財産
今、この瞬間を生き切ればいい
アルボムッレ・スマナサーラ長老
食べものがなくてもクールでいられますか
昔のお坊さんたちは托鉢をして生活していました。村に行って食べものをもらっても、俗人のように「よかった」とか「嬉しい」と喜ぶことなどしません。なんのこともなくあるものを食べていました。
何ももらえない場合はそのまま寺に戻りました。当時はだいたい一日に一食でしたので、その日は何も食べないことになります。でもお腹がすいて「どうしよう、困った」と混乱することはありませんでした。
ここでエピソードをひとつ紹介いたしましょう。
ある日のこと、お釈迦さまは村に托鉢に出かけました。それを見たマーラ(仏教を邪魔する神)がその村の人々にのりうつりました。お釈迦さまは鉢をもって村に入り、ひとまわりされましたが、村人たちは誰も施しをしようとしません。それでお釈迦さまはそのままお寺に戻りました。
そのときマーラがお釈迦さまの目の前に現れてこう言いました。「あなたが托鉢に出かけたとき、村の人々はちょうど忙しい最中でした。今はちゃんと料理もできています。もう一度あの村に行けば、食べものをたくさんいただけますよ」と。
お釈迦さまはマーラに言いました。「食べものの施しを受けるために二回も托鉢に行く必要がありますか。食べものがあってもなくても私の心は平安です。何も問題はありません」と。おまけに「私はお前のように欲に溺れている者ではない」と叱りました。ですからその日は食事なし。
これが仏教でいう「忍耐」です。これが「最高の修行」なのです。ですから皆さんにも実践できると思いますよ。たとえば夜寝ているとき、暴走族がオートバイに乗って道路を走り回っている。すごい騒音です。でもそのときはいらだったりせずに、心の平和を守るようにするのです。また、何か嬉しいことや楽しいことがあっても、舞い上がって我をわすれるのではなく、平静な心を保つこと。それが忍耐なのです。
時間は待ってくれない、だから「精進」
それから仏教には「精進」という言葉があります。精進は、心を清らかにし、平安を得るために、絶対欠かすことのできないものです。パーリ語でviriya(ヴィリヤ)と言い、意味は努力することです。
この精進を妨げるのが「怠け」ālasiyaṃ(アーラシヤン)と「放逸」pamāda(パマーダ)です。
私たちはいつでも「時間がない、早く早く!」と時間に追われて生きているでしょう。時間が足りないのです。それなのに、怠けたり、無意味な行為に耽ったりして、さらに時間を無駄にしているのです。時間は一瞬たりとも止まらずに過ぎ去ってゆきます。周りの状況も、自分自身の寿命も、絶えることなく変わっていきます。
ですから一瞬一瞬を無駄にしてはいけません。瞬間瞬間やるべきことをやらなくてはならないのです。掃除をする時間がきたら掃除し、料理を作る時間が来たら料理を作り、仕事をするときには仕事をし、勉強するときには勉強をする。そうしないと後で大変なストレスを抱えることになってしまいます。
しかし私たちには今やるべきことをついつい後回しにしてしまうという悪い癖があります。でも実際のところ、後回しにすることは不可能なことではありませんか? なぜなら時間は刻々と変わっているのですから。
たとえば天ぷらを揚げているとき、熱した油が手に飛んで火傷を負ったとしましょう。「今ちょっと手が離せないから後で冷やそう」というのは成り立たないでしょう。早急に冷やさないとその火傷はもっと大きくなってしまうだけです。
コンビニエンスストアーで弁当を買ってきました。「今はちょっと時間がないから一週間後に食べよう」といっても無理ですね。たとえ冷蔵庫に入れて保存しておいても、それは瞬間瞬間、確実に腐ってゆくのです。
私たちは「時間」と「ものごと」の変化をあまり大事に考えていません。どちらかといえば無関心です。それですぐに怠けてしまうんですね。今やるべきことを後回しにしたり、放っておいたり、無視したり、いつのまにか忘れてしまうことさえもあります。その結果、やらなければならない仕事をやっていない。こうして人生がどんどん不幸に傾いていくのです。
タイミングの大切さ
それからもうひとつ大事なポイントがあります。どんなものにも「ピッタリ」という時間があるのです。その時その場でやり終えたほうがいいものもありますし、そうでないものもあります。
たとえば子供が何か悪いことをしたとしましょう。叱るべき瞬間に叱らないと、後で大変な問題を抱えることになりかねません。この叱るタイミングが大切なんですね。
悪いことをした直後に叱ったほうがいい場合もありますし、少し時間が経ってからのほうがいい場合もあります。叱るのに「ちょうどいい」という瞬間があるんです。その瞬間を捉えて叱れば、子供の心にサッと入っていくのです。
どんなことにも「ピッタリ」という瞬間があります。たとえば、野球。ピッチャーがボールを投げました。キャッチャーが「じゃあ、とってみようかなあ」とゆっくりのんびり構えても、ボールを受けとることはできないでしょう。アッという間に通り過ぎてしまいますからね。投げたボールがちょうど自分のところに来る瞬間があるのです。その瞬間に手がそこにあってほしいのです。そうすればボールをキャッチすることができるでしょう。ほんの瞬間でも遅れたらボールは過ぎてしまいます。
それから早く構えすぎてもボールはとれません。「ボールはここに飛んでくるはず」と自分であらかじめ決めておいて、その位置で待っていても、実際にピッチャーがどこに投げてくるかはわかりませんからね。
「今」の瞬間がすべて
私たちの日々の生活もこのキャッチボールのようなものです。やるべきことをやるべき瞬間に、やり終えることが大切なのです。後回しにすることも焦ることもよくありません。すべてのことは変化してゆく。これは宇宙の法則で、私たちにはどうすることもできないのです。
お釈迦さまは常に「瞬間を失ってはいけません」とおっしゃいました。パーリ語でKhanaṃ(カナン) mā(マー) vo(ヴォー) upaccagā(ウパッチャガー)と言います。これが精進の本当の意味です。精進とは、歯を食いしばって、ただやみくもに頑張るということではありません。常に目覚めていることをいうのです。
ヴィパッサナー冥想を実践するとき、この精進の力は絶対に欠かせない条件のひとつです。身体と心に現れてくる一つひとつの現象を、逃さず明確に確認すること、これが仏教でいう「精進」なのです。
もうひとつ精進に関する重要な言葉があります。今、皆さんは人の話を聴くとき簡単に録音してしまうでしょう。言葉が記録されていますから、現場で、生で理解しなくてはならない、という緊張感も必要ありません。この安心感で、話の最中、気持ちよく居眠りすることもできるのです。
それはそれでいいではないかと思うかもしれません。しかし、人の智慧の開発に説法する仏教においては、これは大問題です。というのは、聴く人の心は説法のあいだじゅう怠けているのですから。理解能力を鋭くするのではなく、鈍くしているのです。後で聞くつもりで話を聞くと、聞くという行為は、心を鈍くし無知を育てる訓練になってしまうのです。
いろいろな人の話をたくさん聞きすぎて、結局何もわからなくなり、判断できなくなったということもよくあります。知識を広げる努力をした結果、もともとあった知識まで失って無知になりました、というのでは逆効果でしょう。ですから「後で落ちついて聞こう」という態度は仏教においては禁物です。説法を聴くときは、その場で徹底的に集中して、意味を理解して、覚えておくことが必須条件なのです。
お釈迦さまはこのようにおっしゃいました。
Mayā dhamme desiyamāne aṭṭhikatvā manasikatvā
Majjhima.1.445
sabbacetaso samannāharitvā ohitasoto dhammaṃ sunāti
説法を聴くときは、意味を把握し、心で考察し、
意思を完全に集中させ、一心に耳を傾けて聴くことです
今、皆さんはこの本を読んでいます。本を読むことと同時に別のことはできないでしょう。たとえ頭の中で「買い物に行かなくては」とか「夕飯の支度をしなければ」と考えたとしても、実際に行動することは不可能ですね。ですから余計なことを考えずに、この時間に、集中して本を読むことが重要なのです。それが「精進」ということです。
2キロしか歩けない人が5キロ歩こうとするのは努力ではありません。また、足も腰も心臓も弱いのに高い山を登ろうとする人のことを「すばらしい努力家」と言えますか? それはただの愚か者です。ただ無茶をしているだけでしょう。精進とは、むちゃくちゃ頑張ることではないのです。
お釈迦さまがおっしゃいました。「この一秒、この一分でやるべきことをやっておきなさい」と。これが仏教でいう「精進」です。
この施本のデータ
- 充実感こそ最高の財産
- 今、この瞬間を生き切ればいい
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2002年9月