施本文庫

仏教の「無価値」論

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「捨てる」ということ 

ですから、「修行は今生(こんじょう)では無理だ」と思うとき、「自分がこの世でなんの価値もないものごとを高く鑑定しているのだ」と理解してください。「価値が成り立たないのだ」と理解できるようになると同時に、仏教の「無執着」「厭離」「離欲」「解脱」などの言葉の意味も理解できるようになります。 

ときどきわたしは、「ヴィパッサナー(Vipassanā)は、得る道ではなく捨てる道です」と言う場合もあります。論理は同じですが、「捨てる」という言葉に重点を置きます。
「ゴミ=捨てる」であって、「ゴミ=感謝を込めていただく」ということにはなりません。この話になると、「家族、仕事、友人……を捨てる?」と、驚きの気持ちになるのも当然かもしれません。原始仏典には「出家」の濃い色がついていますからね。 

「捨てる」という意味も理解したほうがよいと思います。「執着は苦しみのもとだ」という理由で「自分の赤ちゃんをゴミ箱へ捨てなさい」という理屈ではありません。赤ちゃんにたいする執着は苦しみのもとですが、赤ちゃんは大切に育ててあげなくてはならない生命です。
ダイヤにたいする執着のせいで、自分の命も断たれる可能性があるかもしれませんが、ダイヤは人を殺さない、ただの石です。 

われわれは、修行中に家族のこと、仕事のこと、からだのことなどが気になって集中できなくなるのでは、あまりにももったいないことです。 

お釈迦さまは、家族どころか一つの国の王子さまとして生まれたのですが、苦しみをなくす道を発見するために、それを全部捨ててしまったのですね(われわれが一日だけ家族を忘れておくことが、王位を捨てることよりもむずかしいとは不思議ですね)。 

お釈迦さまはものを捨てたのだけど、自分の親戚にたいする慈しみを捨ててはいないのです。スッドーダナ父王も、「家族を捨てた息子は関係ない」と思ったのではなく、「王子が目的を達せられるように」と見守っていたのです。
お釈迦さまも覚りを開いてから国へ戻り、みんなにそのことを報告して説法なさったのです。 

親が病気になって倒れたら、行って「どうですか?」と様子を見たり、慰めの言葉をかけたりしました。ですから、「わたしは家を捨てたのだから、なんの関係もないのだ」というような、乱暴な、残酷な生き方ではなかったのです。
自分のお妃、息子にたいする執着を捨てたのだけれども、みんなにも解脱の道を教えてあげて、こころの安らぎを体験させたのです。お釈迦さまは、責任を果たしたのです。自分の息子を7歳で出家させたのですが、いたずらしないように、長老方に失礼な態度をとらないようにと見守っていたのです。内緒で息子ラーフラに会って説法なさったのです。ブッダの息子だからといってサンガの中で威張らないようにと、徹底的に教えたのは「あなたはだれよりも、どんな人間よりも謙虚でいなくてはいけない」ということでした。 

そのラーフラ尊者もよくできた息子で、教えられたとおりの生き方をしました。だれからもひとことも言われないようにと、気をつけて生活したのです。
しかし、このラーフラ尊者にとっても、修行は大変苦しかったのだと思います。なぜかといえば、自分がお釈迦さまの一人息子でしょう。お釈迦さまが絶対的な存在として崇められていた世界から見れば、想像もできないほど羨ましい立場ですね。でも、出家社会では一人の弟子としてしか、立場がなかったのです。お釈迦さまからお菓子をいただくことも、傍に座らせてもらうこともなかったのです。みんなに内緒でしか、二人は会うこともなかったのです。だから、お釈迦さまの前からいつも離れていたのです。
お釈迦さまにしても自分が父親だから、その7歳の子どもの身の回りの面倒を見る義務があったのです。息子と手をつないで来たのは、たった一回だけです。それは、宮殿から出てお釈迦さまが住んでいた場所まででした。それから出家させました。 

お釈迦さまは、自分の息子を育てることを一番目の弟子、智慧第一位のサーリプッタ尊者に委託したのです。お釈迦さまはラーフラ尊者にも、子どものころから自分自身にたいしても価値をつけないようにと躾をなさったのです。
普通の人より何倍も気をつけなくてはならない羽目になったラーフラ尊者も、執着を捨てる修行は苦しかったでしょう、とわたしは思います。 

お釈迦さまも弟子たちも、出家して家族から離れたのですが、その責任からも逃げてしまったということにはならなかったのです。たとえ出家しても、親の面倒を見る人がいなくて自分一人で生活できなくなった場合、托鉢して親に食べさせた一人の比丘のエピソードもあります。「親孝行はすばらしいことだ」と、お釈迦さまはこのことを誉めたのです。
ですから、捨てるのは執着であって、人間としてあるべき慈しみの人間関係を捨てるのではないのです。責任から逃げるのではないのです。 

「無価値」の教えこそが安全な教えであって、価値ばかりつける世界は残酷で、過激で危険なのです(「親よりも仕事が大事だ。会社を休めないのだ」と言って、育ててくれた親の世話もしない人がいるのではないかと思います)。 

われわれは瞬間瞬間、変わっていって、歳を取って死んでしまう。この世の中で、なにひとつもわたしのものにはなりません。このからださえも、わたしのものにはなりません。このからだの面倒をいくら見てあげても、からだは好き勝手に変化し、変わって、老化して死に至る。どうにもならない。からだのことを悩んでみても、心配してあげても、川のように流れて変わってしまうのだから、ばかばかしい。
仕事のことで悩むばかりで神経を擦り減らしても、役に立たなくなったら自分が捨てられる。ばかばかしいですね。なにひとつも自分のためにはならない。すべてが、やがてわれわれを裏切るのです。 

だから、自分も含めてすべてのものが、喩えればポリ袋と同じなのです。ポリ袋はいったん家に品物を持って帰るまでは役に立ちますけど、それからは自然を破壊する不燃ゴミなのです。
考えてみると、すべてのものが自然を破壊する不燃ゴミなのです。 

ですから、修行は来世で、いや再来世で、あるいは輪廻の中でいつか修行して覚るというふうに弱気の思想の場合、「世俗」というゴミにものすごく高値の鑑定をしているのです。
その場合は、どうしても気になる、こころにひっかかる、悩みのタネになるものの一つひとつを一週間ぐらい、「価値があるかないか」と、客観的に観察してみてください。二週間でも観察してみてください。
そうすると、自分でその真理を発見できるでしょう。それが、解脱の引き金になるのです。 

だから解脱する人は、決してなにか大事なものを、もったいなくも捨てるわけでも、大切なものからアホらしく脱出するわけでもないのです。ゴミの沼から脱出するのです。ゴミを捨てられてホッとするのです。楽になるのです。ゴミというと、物だけではなく、われわれのこころのゴミもいっぱいありますからね。それも捨ててしまうのです。 

こころのゴミとは、煩悩ともいいますが、貪り、怒り、無知と、大きく分けて三つあります。それから、嫉妬、憎しみ、恨み、物惜しみ、高慢、劣等感、差別感など、いろいろあります。これらはゴミであって、決して宝物ではありません。捨てましょう。 

それから、からだにたいする愛着。これもゴミなのです。からだ自体がゴミなのに、なぜ、そんなに愛着をもつのでしょうか?
からだに愛着があることで、なにかいいことでもあるならよいのですが、からだに愛着があればあるほど、心配事が増えるだけだと思います。ほんのちょっとでも傷跡がついたら、からだに愛着があればあるほど、ものすごく困ったりするのです。食べるときでも、気をつけて気をつけて、からだによい食べ物についてありとあらゆる研究をしながら食べ物探しに苦労するのです。楽に食べることさえもできなくなるでしょう。 

だれかがふざけて「北に頭を向けて寝たらガンになります」とでも言ったならば、それからは旅に出るときもコンパス(羅針盤)を携帯するでしょう。道を調べるためではなく、枕の向きを定めるために。ですから、からだに愛着が生まれたら、結局、楽に生きていけなくなるのです。 

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仏教の「無価値」論
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2001年5月13日