施本文庫

「宝経」法話 

Ratanasuttaṃ 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

第四偈

Khayaṃ virāgaṃ amataṃ paṇītaṃ
カヤン、ヴィラーガン、アマタン、パニータン
Yadajjhagā sakyamunī samāhito
ヤダッジャガー、サキャムニー、サマヒトー
Na tena dhammena samatthi kiñci
ナ、テーナ、ダンメーナ、サマッティ、キンチ
Idam pi Dhamme ratanaṃ paṇītaṃ
イダン、ピ、ダンメー、ラタナン、パニータン
Etena saccena suvatthi hotu
エーテーナ、サッチェーナ、スワッティ、ホートゥ

釈迦牟尼が到達されし禅定は、
煩悩の滅尽、離貪、不死の境地で勝れたるものなり。
その法(禅定)に等しきものあらず。
此は法(ダンマ)が勝宝たる由縁なり。
この真実により、幸いがあらんことを。

心統一した(samāhito)釈迦牟尼が(sakyamunī)到達された(ajjhagā)ところの(yad)[すなわち][煩悩の]滅尽(Khayaṃ)、離貪(virāgaṃ)、勝れた(paṇītaṃ)不死(amataṃ)[の境地]。
その(tena)法と(dhammena)等しいものは(sam)何であれ(kiñci)存在しない(na atthi)。
これも(idam pi)法における(dhamme)勝れた(paṇītaṃ)宝(ratanaṃ)[である]。
この(etena)真実によって(saccena)幸せが(suvatthi)あれ(hotu)。

ブッダの覚りの内容

「こころを統一したお釈迦さまが到達した煩悩の滅尽、離貪・不死・勝れたもの、その法と等しいものはありません。それゆえに、勝れた宝とは法(ダンマ)のことです。この真実によって幸せでありますように。」

この四番目の偈で、お釈迦さまが何に達したのかと明確に語られています。「覚りに達した」と言えば簡単に聞こえますが、「覚りとは何か?」と訊かれれば、引っかかりますね。煩悩を滅尽すること、すべての執着から離れること、「優れた不死の境地」と名づけられる解脱に達することが、「覚り」です。お釈迦さまのこの経験にも、dhamma(ダンマ)・法と言います。解脱の経験より優れたものはあり得ないと、この偈で説かれています。禅定に達したお釈迦さまは、「解脱」に達しました。禅定の経験は他の人々にもあったが、誰も解脱に達することはできなかったのです。仏教徒もサマーディ(禅定)を経験したがるが、サマーディは仏教の目標ではありません。サマーディの力は、解脱を経験するために必要なものなのです。そのサマーディに達したお釈迦さまは、煩悩を滅尽して「解脱」を経験し、ブッダとなって世にあるすべての宗教を乗り越えました。そういうわけで、ブッダの教えを実践して解脱をめざす人々は、皆、幸福になるのです。

第五偈

Yaṃ Buddhaseṭṭho parivaṇṇayī suciṃ
ヤン、ブッダセットー、パリワンナイー、スチン
Samādhim ānantarikañ ñam āhu
サマーディマーナンタリカンニャマーフ
Samādhinā tena samo na vijjati
サマーディナー、テーナ、サモー、ナ、ヴィッジャティ
Idam pi Dhamme ratanaṃ paṇītaṃ
イダン、ピ、ダンメー、ラタナン、パニータン
Etena saccena suvatthi hotu
エーテーナ、サッチェーナ、スワッティ、ホートゥ

最勝たる佛陀が、清浄なりとせし
禅定は「無間」とよばるる。
彼の禅定に等しきものは存せず。
此は法が勝宝たる由縁なり。
此の真実により、幸いがあらんことを。

最勝の(seṭṭho)佛陀が(Buddha)賞賛した(parivaṇṇayī)清浄なるもの(yam suciṃ)、
それを(ñam)無間の(ānantarikañ)心統一(samādhim)と言う(āhu)。
その(tena)心統一と(samādhinā)等しいものは(samo)存在しない(na vijjati)。
これも(idam pi)法における(dhamme)勝れた(paṇītaṃ)宝(ratanaṃ)[である]。
この(etena)真実によって(saccena)幸せが(suvatthi)あれ(hotu)。

覚りのサマーディについて

「最勝のブッダが清らかであると誉めたたえた瞬間のサマーディ、その覚りの瞬間のサマーディと等しいものはどこにも見出されません。それゆえに、勝れた宝とは法(ダンマ)のことです。この真実によって幸せでありますように。」

解脱は最高の境地だとお釈迦さまが説かれています。解脱に達するためには、こころを統一しなくてはいけないのです。統一したこころは、最大の力を発揮します。最大の力を発揮するところまで、こころを統一することがサマーディです。ブッダの説かれた冥想方法を実践して、サマーディに達するならば、次の瞬間に解脱を経験するのです。煩悩が無くなると同時に「覚り」なのです。煩悩の滅尽と覚りに隙間が無いということがānantarika_samādhi(アーナンタリカ、サマーディ)です。このサマーディより優れた境地は存在しません。この真理によって、生命は幸福に達するのです。この真理をめざして、すべての生命が幸福に達して欲しいと願います。

第六偈

Ye puggalā aṭṭha sataṃ pasatthā
イェー、プッガラー、アッタ、サタン、パサッター
Cattāri etāni yugāni honti
チャッターリ、エーターニ、ユガーニ、ホンティ
Te dakkhiṇeyyā Sugatassa sāvakā
テー、ダッキネッヤー、スガタッサ、サーワカー
Etesu dinnāni mahapphalāni
エーテース、ディンナーニ、マハッパラーニ
Idam pi Saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ
イダン、ピ、サンゲー、ラタナン、パニータン
Etena saccena suvatthi hotu
エーテーナ、サッチェーナ、スワッティ、ホートゥ

仙人たちが称賛せし者は、
彼の八輩即ち四双の者たちなり。
彼ら善逝(ブッダ)の弟子たちは、布施供養を受くに値す。
彼らに施せし者には大果あり。
此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。
此の真実により、幸いがあらんことを。

善き人々が(satam)賞賛した(pasatthā)八つの(aṭṭha)輩(puggalā)のものたちは(ye)、これら(etāni)四つの(cattāri)対(yugāni)であり(honti)、
彼らは(te)供養されるべき(dakkhiṇeyyā)[人々]であり、善逝の(sugatassa)弟子たち(sāvakā)[である]。
これらの[人々]に対する(etesu)布施は(dinnāni)大果が(mahapphalāni)[ある]。
これも(idam pi)僧団における(saṅghe)勝れた(paṇītaṃ)宝(ratanaṃ)[である]。
この(etena)真実によって(saccena)幸せが(suvatthi)あれ(hotu)。

サンガとは誰のこと

「善い人々が称賛するのは四双八輩の人々です。このブッダの弟子たちは供養に値する者たちです。彼らに布施すれば大果になります。それゆえにサンガは勝れた宝なのです。この真実によって幸せでありますように。」

お釈迦さまの弟子たちであるサンガ(僧伽)も、生命にとってこの上のない宝です。お釈迦さまと個人的につきあうのは無理な話です。しかし最上の宝であるサンガとなら、つきあえます。だからといって、仏教を学んでいる、仏教が気にいっている、仏教徒になっているなどといっただけで、その人々が私たちの模範になるのでしょうか。指導者になるのでしょうか。我々を幸福へと導くことができるのでしょうか。

ここで「サンガの資格」を知る必要が出てきます。ブッダは仏教を学ぶ人ではなく、真剣に解脱を目指して実践する弟子たちを賛嘆します。ブッダの教えを実践する人は、仏法の意味も理解するのです。実践しない人々は頭で理解しようとします。しかし頭で考えることは、仏教ではそれほど評価されていません。仏道を実践する人々が最初に達する覚りは預流果と名づけられています。次の覚りは一来果です。それから不還果に達して、最後に阿羅漢果に達します。それで解脱は完了です。だから正しく聖者といえる弟子たちは、四種類です。それぞれの覚りを目指して必死に努力する弟子たちも四種類になります。修行の道に乗ってしまえば確実に、また間もないうちに目的の覚りに達するから、道に入った聖者たちも四種類になります。預流道、一来道、不還道、阿羅漢道です。預流道の方はたちまち預流果になるのです。それから順番に、一来道・一来果、不還道・不還果、阿羅漢道・阿羅漢果に達するのです。四双八輩と言われている聖者たちです。生命の宝物になるサンガは、この八種類の人格者のことです。この方々は、人類に幸福をもたらします。八種類の本物の聖者たちがいることを理解して、その方々とつきあうことで誰でも幸福になります。仏弟子たちに期待すること、仏弟子たちを信頼することが、幸福を実現する道なのです。

第七偈

Ye suppayuttā manasā daḷhena
イェー、スッパユッター、マナサー、ダルヘーナ
nikkāmino Gotamasāsanamhi
ニッカーミノー、ゴータマサーサナンヒ
Te pattipattā amataṃ vigayha
テー、パッティパッター、アマタン、ヴィガイハ
Laddhā mudhā nibbutiṃ bhuñjamānā
ラッダー、ムダー、ニッブティン、ブンジャマーナー
Idam pi Saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ
イダン、ピ、サンゲー、ラタナン、パニータン
etena saccena suvatthi hotu
エーテーナ、サッチェーナ、スワッティ、ホートゥ

固く決意し、
ゴータマ(ブッダ)の教えに基づきよく励み、
欲から離れている彼らは達すべき境地に達して、不死なる境地を体得し、
その涅槃を余すところなく享受せり。
此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。
此の真実により、幸いがあらんことを。

堅固な(daḷhena)意(こころ)によって(manasā)善く努力し(suppayuttā)、
ゴータマの教えにおいて(gotama sāsanamhi)欲を離れた(nikkāmino)ものたち(ye)、
彼らは(te)得達すべきもの(涅槃)を得たものたちであり(pattipattā)、不死(涅槃)に(amataṃ)入って(vigayha)ただで(mudhā)得て(laddhā)寂滅を(nibbutiṃ)享受しているものたち(bhuñjamānā)である。
これも(idam pi)僧団における(saṅghe)勝れた(paṇītaṃ)宝(ratanaṃ)[である]。
この(etena)真実によって(saccena)幸せが(suvatthi)あれ(hotu)。

阿羅漢たち

「強固な気持ちでお釈迦さまの教えに勤しんで修行し、欲から離れている彼らは、不死の境地に達して涅槃を体験し、大変喜んでいます。それゆえにサンガは勝れた宝なのです。この真実によって幸せでありますように。」

七番目の偈で、最終解脱に達した阿羅漢の聖者たちを紹介します。強固な意志で修行しないと最終解脱には達しません。阿羅漢より下の覚りに達した聖者たちは、苦しみの大半を無くしていますが、残った煩悩から生まれる悩み苦しみはあるのです。最終解脱に達した阿羅漢たちには、精神的な苦しみは一切ありません。人々に説法したり、冥想指導したり、弟子たちを育てたりするときは、阿羅漢たちも疲れます。しかし、自由自在に涅槃という究極の安らぎを経験することができるのです。

仏弟子たちの顔形を見て、阿羅漢か否か一般人に発見することは無理です。阿羅漢に達した方々は、いかなる理由があっても他人にそれを報告しません。もしサンガの命令を受けたならば、サンガには報告します。一般の方々にも、観察能力があれば「この方は不動の精神的な安らぎがあるようだ」と何となく推測することができます。お釈迦さまによれば、それでも一般人は誤解する可能性が多いようです。誰もが悩み苦しみに陥って混乱してしまう状況の中でも、ある人だけは冷静にいることを発見できたならば、いくらかは信頼できるデータになるでしょう。しかし残念なことに、誰もが悩み苦しみに陥って、混乱してしまう状況なら、観察する人も悩みに陥って混乱しているはずです。その時は、自分のことで精一杯です。他人のこころの中身を観察する余裕はなくなっているのです。ですから、実際に「阿羅漢狩り」をしようなどと思わずに、精神的に落ち着いている修行方法に詳しい指導者のもとで修行に励んだほうが安全です。
それでも、世に阿羅漢がいるならば、それは人間の世界に完全な聖者が存在することになります。その方とつきあうことができる人々は、みな安らぎを感じるのです。

1 2 3 4 5 6

この施本のデータ

「宝経」法話 
Ratanasuttaṃ 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2002年9月