No.31(『ヴィパッサナー通信』2002年7号)
キンスカの喩えの話
Kiṁsukopama jātaka(No.248)
この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、「キンスカの喩え」という経典(*)について語られたものです。
四人の比丘が如来のもとにおもむき、自分に適した「集中瞑想の対象」を与えて下さいとお願いしました。お釈迦さまは、彼らに瞑想の対象を教示されました。彼らは瞑想の対象を得て、各自の夜と昼を過ごす場所へそれぞれ出掛けて行きました。彼らのうちのある者は(瞑想の対象として)六種の触処を得て、悟りをひらきました。ある者は(瞑想の対象として)五蘊、ある者は物質を構成する「地・水・火・風」の四元素、またある者は十八界を得て、悟りをひらきました。彼らは各自が与えられた瞑想対象のすぐれた点をお釈迦さまにお話ししました。
そしてひとりの比丘は自分が疑問に思った点を、お釈迦さまに質問しました。「悟りは同一の筈ですが、これらのさまざまな瞑想対象からどのようにして皆が悟りをひらいたのでしょうか」と。
お釈迦さまは、「比丘よ、おまえはキンスカの樹を見たある兄弟たちと、なんら変わるところがありません」と言われました。そして、「世尊よ、そのわけをお話しください」という比丘の求めに応じられたお釈迦さまは、過去のことを話されました。
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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたときのことです。王には四人の王子がありました。
ある日彼らは御者を呼んで、「我々はキンスカを見たいと思っている。我々にキンスカの樹を見せてくれ」と言いました。御者は、「かしこまりました。ご覧に入れましょう」と言って、四人に一度に見せることはせず、最初に最も年長の王子を車に乗せ、森に連れていき、「これがキンスカでございます」と言って、大株が芽吹く頃にキンスカを見せました。他の王子には若葉の出た頃に、他の王子には花の開いた頃に、もう一人の王子には実を結んだころに見せました。
後日、四人の兄弟は一所に集まって、「キンスカとはどういう樹か」という話を始めました。年長の王子は、「焼け焦げた柱のようだ」と言い、第二の王子は、「ニグローダ樹(花は咲かず、たくさんの葉に覆われている美しい大樹)のようだ」と言い、第三の王子は、「ちょうど肉片(キンスカの樹は、花が咲くとき真っ赤な花のみで葉は一枚もなく、藤の花がぶらさがっている様子と似ている)のようだ」と言い、第四の王子は、「シリーサ樹(たくさんの大きな鞘がぶら下がっていて、わずかに破れて種が見えている。しかし、葉は一枚もない)のようだ」と言いました。
彼らは、おたがいの話が合致しないことに満足出来ず、父王のもとにおもむいて、「王様、キンスカというのはどのような樹でございましょうか」と尋ねました。王に「おまえたちはどのように話したのか」と問われて、王子たちは自分たちがした説明の仕方を話しました。
王は、「たしかにおまえたち四人ともキンスカを見たのだ。だがしかし、御者がおまえたちにキンスカを見せているときに、『この時期のキンスカはどのようであるのか』『この頃にはどうであるか』というように、区別して尋ねることをしなかった。そのために、おまえたちに疑問がおこったのだ」と言って、第一の詩句を唱えました。
皆がキンスカを見たとしても
なぜ疑いを起こさぬのか
あらゆる場合について
なぜ導師に尋ねぬのか
お釈迦さまはこの理由を示して、「比丘たちよ、四人の兄弟が区別して尋ねなかったために、キンスカについて疑問が生じたように、おまえたちもまた、この法について疑いを起こすのである」とおっしゃって、現等覚者として、
第二の詩句を唱えられました。
完全な智慧についても
未だ理解せざるところにおいては
疑問が生じる
キンスカについて疑問を抱いた
兄弟のように
お釈迦さまはこの説法をされた後、過去と現在を結び付け「そのときのバーラーナシーの王は実にわたくしであった」と話されました。
(*)「キンスカの喩え」…相応部経典(南伝大蔵経 第15巻 299頁)
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
キンスカ樹の変身ぶりは、激しいものです。冬は焼け焦げた柱のようで、生きている感じもしない。春になると真っ赤な花が咲き乱れ、肉屋で肉の切り身がぶら下がっているような感じです。花が落ちると、緑の葉に覆われるのです。秋になると葉が落ちて、鞘だけぶら下がっているのです。一側面だけ見た人は、決して同じ樹だとは思わないでしょう。
ものごとを理解するときは、疑ってみることは必要です。「これがキンスカです」と言われただけであっさりと納得してしまったことを、このエピソードでは批判しています。何かについて知識を得るときには、あらゆる側面から疑問を解決して全体的な知識を得る必要があるのです。中途半端な知識では、何の役にもたたないのです。
仏教は何かを勉強するときには、納得いくところまで努力するように勧めます。経典の中でも、修行するときは少々上手くいっただけで満足してはいけないと戒めています。完全に納得いくところまで、完全な悟りをひらくところまで、妥協せずに努力する人が完全な解脱を得るのです。
不完全な知識を恥じるのではない。隠す必要もない。こつこつと努力して、完成すれば良いのです。世の中で驕慢な人々は、僅かな知識を得てもこの分野について詳しく知っているように振る舞うのです。そういう人々は、他人にも間違った知識を与えるし、自分でも知識を完成しようとはしないのです。世の人々は、曖昧な知識しか持たない人々のリーダーシップのお陰で、嫌になるほど苦労しているのです。
「騙された、詐欺にあった、損害を被った」というような被害報告はしょっちゅう耳に入ります。それは、十分検討しないで、言われただけであっさりと納得する人の問題です。仏教はこのような曖昧な生き方は否定しているのです。