ジャータカ物語

No.38(『ヴィパッサナー通信』2003年2号)

水牛と猿の話

Mahisa jātaka(No. 278) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、不躾な猿について語られたものです。

サーヴァッティーのある家で、一匹の猿が飼育されていましたが、その猿は象の小舎へ行って徳高い象の背中に坐って大小便をたれ、遊び戯れていました。象は善い性格と、忍耐力という徳をそなえていたために、何もしませんでした。そんなある日のこと、この象のかわりに別の悪い象の仔が立っていました。猿は、「これは例の象だ」と考えて、悪い象の背によじ登りました。そのとき、象は猿を鼻で捕らえ、地上に叩きつけて足で踏み潰してしまいました。

この出来事はサンガに知れわたりました。ある日、修行僧たちが説法場で話を始めました。「友よ、不躾な猿が、徳高い象の背であると考えて、悪い象の背に乗りました。そのとき象は猿を殺してしまいました。」そこへお釈迦さまがおいでになってお尋ねになりました。「比丘たちよ、いま一緒に坐って何を話しているのですか。」「これこれの話でございます。」そこでお釈迦さまは、「比丘たちよ、この不躾な猿がこのような振る舞いをしたのは今だけではありません。昔もこのように振る舞っていました」と言って過去のことを話されました。

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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、ヒマラヤ地方の水牛の子として生まれました。

成年に達し、力をそなえ、山の麓・洞窟・山嶽・こえ難い密林のなかを彷徨って、とある快適な木の根を見つけ、餌を食べてから、昼間その木の根のところに立っていました。そこへ、一匹の不躾な猿が木から降りて来て、水牛の背に乗り、大小便をして、角をつかんで、ぶらさがり、しっぽをつかんで揺すり動かして遊びました。しかし菩薩は忍耐・慈愛・憐愍の情をそなえていたので、猿の狼藉ぶりを意に介しませんでした。猿は再三再四同じように振る舞いました。

するとある日、この木に住んでいた神が、木の幹に立って、彼に、「水牛の王よ、なぜあなたはこの悪い猿の侮辱に耐えているのですか。猿にやめさせなさい」と言って、その意味を説明しつつ、最初の二つの詩句を唱えました。

望みに応える人を擁護するが如く
軽薄で信頼を欺き屈辱を与える者を
堪え忍んで擁護することが
汝に何の意味があるのか

角で突き刺して殺したまえ
足で踏みつけて殺したまえ
悪しき者を処する者がなければ
愚か者の行為は
さらに増すであろう

それを聞いて、菩薩は、「木の神よ、もし私が、猿の生まれ・種姓・力等を蔑視し、その罪過を耐え忍ばないならば、どのようにして私の願望を成就させることができるのでしょうか。この猿は他の水牛も私と同じと思いこんで、同じように狼藉を働くでしょう。そこでこの猿が、常に怒りっぽい他の水牛たちにこんなことを仕掛ければ、猿はどのみち殺される羽目になるでしょう。その時私は、猿の屈辱からも殺生罪からも免れるでありましょう」と言って、第三の詩句を唱えました。

この者は
私だと思いこんで
他の水牛にも悪戯するでしょう
そのとき彼らは彼を殺すでしょう
私も自由になるでしょう

数日後に菩薩は別のところへ去りました。別の怒りっぽい水牛がその場所にやって来て立っていました。悪猿は、「これは例の水牛だ」と勘違いして彼の背に乗り、そこで狼藉を働きました。そこで水牛は猿を振り落して地上に叩きつけ、角で心臓を突きさして、足で踏みつけて粉々にしてしまいました。

師はこの法話をされて、真理を説き明かし、過去を現在にあてはめられました。「そのときの悪水牛はこの悪象であり、そのときの悪猿はいまの悪猿であり、徳高い水牛の王は実にわたくしであった」と。

スマナサーラ長老のコメント

正義の味方の悲哀

誰でも正義の味方になりたがります。不正や犯罪などの悪いことを容認する人々は、それほど多くないのです。悪を嫌うことは、素晴らしいことです。悪を嫌って避ける考え方は、「正思惟」になります。悪を嫌う人こそ、善の道を歩む人です。

しかし、感情的に「私は曲がった事は大嫌いだ」と叫んでも、善人になるとは限りません。理性に基づいて悪を嫌うべきです。悪を嫌うという正思惟は、自分自身の人格を正すために必要不可欠な思考です。ところが、感情的な人は悪を嫌う気持ちだけで、自分が完璧で正しいと思いこむのです。それは正思惟ではなく、反対に「邪思惟」になります。自分のことは後回しにして棚に上げ、世直しに奮闘するのです。結局は人を裁いたり、責めたり、殺したりすることで忙しくなるのです。

人の行為が善か悪かを判断することは、落ち着きのない感情的な人に出来ることではありません。ですから、曖昧な判断で他人を責めることになるのです。そうなってしまうと、「曲がった事が嫌い」「正義感から」などと考えながら実際に行う行為は、罪そのものになります。さらにまずいのは、自分が正しいことをしたと信じ込んでいるので、犯した罪を反省して、罪から免れることもできなくなることです。木の神は正義の味方になれと勧めましたが、罪を犯したくない菩薩は断るのです。

仏教は人に善悪の区別を親切に教えてあげて、その人自身が善を行う手助けをします。しかし、「悪人を懲らしめる」という、余計なことはしないのです。

人格者の道

道徳的に優れている人を、仏教では人格者と言います。俗世間では、高貴な生まれの人、お金がある人、知識がある人、権力者、そういう人々は一般人よりも優れていると考えられています。しかしこのような俗世間の人格者も、世の中からは攻撃の的になるのです。泥棒は金持ちの家に入る。マスコミは政治家や人気者を批判する。暗殺者は権力者を付け狙う。美人はストーカーされる。このように、優れた人はそうでない人に批判されたり、攻撃されたり、屈辱を受けたりするのです。

しかし本物の優れた人は、このような侮辱などはあって当たり前の出来事として受け止めて、落ち着いて行動するのです。報復しようとして自分の人格を汚すことはしないのです。自分はたまたま恵まれた状況に置かれているだけだと謙虚に理解して、他人に対していつも優しく憐れみ深く接するのです。差別思考などは、ひとかけらも起こさないのです。

これが、人格者が自己を守る方法です。それによって、さらに優れた人間になるのです。優れた人格を作りたいと励んでいた菩薩の水牛は、品格のない、性格の悪い、体力のない愚かな猿から受ける屈辱を、意に介することは全くしないで堪え忍んだのです。犬が人間を噛んでも、人間は犬を噛まないのです。