No.77(2006年5月号)
真珠物語➀
Mahāsāra jātaka(No.92)
これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎におられた時のお話です。
ある時、コーサラ国王の侍女たちが、このように考えました。
「ブッダが世に出現されるというのは、実に有り難い、めったに出会うことのできない幸福です。私たちが人間として生まれるというのも、たいへん貴重であり、その上に心身も穏やかなことは得難いことです。私たちはこれほどの希有な機会に恵まれながら、自らの求めるままに精舎へ赴いて法を聞いたり、供養したり、お布施したりすることができません。まるで箱の中に閉じこめられたような生活をしています。私たちは王様にお願いして、私たちのために法話をしてくださるお坊さまにお城に来ていただき、法を説いていただくことにしましょう。そして学べることをすべて学び、その教えにしたがって、布施行などの善行為をしましょう。それでこそ、私たちがこの貴い機縁に出会えたことが実りあるものとなることでしょう」と。
彼女たちは王に自分たちの考えを述べました。王は、「よろしい。そなたたちの望みのとおりにするが良いだろう」と、同意しました。
ある日、王は、御苑で遊ぼうと思い立って家臣を呼び、準備を命じました。家臣たちが御苑を掃除していると、お釈迦さまが一本の樹の下で坐っておられるのを見かけました。家臣は城に戻り、そのことを国王に報告しました。王は、「では我は釈尊のもとに詣で、お話を聞こう」と豪華な車で御苑に乗りつけ、車から降りてお釈迦さまのおられるところに近づきました。
ちょうどその時、チャッタバーニという名の在家信者(ウパーサカ)が、お釈迦さまの傍らに坐ってお話を聞いていました。チャッタバーニは、不還果(三段階目の悟り)を得た人でした。彼はブッダへの尊敬の気持ちから、王の姿が見えても、立ち上がって敬礼したり、うやうやしく挨拶の言葉を述べたりすることはありませんでした。王は不審に思いましたが、「この男が悪人であるならば、世尊の側に坐って法話をお聞きするようなことはないだろう」と思い、釈尊のところに来て礼拝し、自らも傍らに坐りました。
しかし王は、王に対して礼を尽くさないチャッタバーニを快く思いませんでした。お釈迦さまは王の気持ちに気づかれ、チャッタバーニの徳をほめて、「大王よ、彼は博学であり、教えに通じ、諸々の欲を離れている」とおっしゃいました。王は「釈尊がこのようにほめられるのであれば、優れていない者であるはずがない」と思い、「在家信者よ、何か必要なものがあれば余に何なりと申し出よ」と言いました。チャッタバーニは丁寧に礼を述べました。王はお釈迦さまの法話を聞いてから、右回りの礼をし、城に戻りました。
ある日、コーサラ王は、チャッタバーニが朝食を終え、傘を持って祇園精舎に向かうのを見かけました。王が声をかけると、彼は丁寧に礼を尽くした態度で挨拶をしました。王は、チャッタバーニに言いました。「汝は法に精通していると聞いている。我が城の宮女たちが法を学びたいと言っているのだが、汝が城に来て法を説くことはできるだろうか」「大王様、在家の者が王様の内殿で法話を説いたりすることは、よろしくありません。しかし、出家されている尊者方であれば、それにふさわしいと存じます」。
王は「あの男の言うことは筋が通っている」と思い、城に帰って宮女たちを呼んで言いました。「宮女たちよ、余は世尊を訪ね、おまえたちのために法を説いてくださる長老を城に招待しようと思う。ブッダには八十人の大弟子がおられるが、どなたにお願いするのがいいだろう」。宮女たちは皆で相談し、「法の宝庫であるアーナンダ長老にお願いしていただきたいと存じます」と王に伝えました。
コーサラ王は釈尊を訪ね、礼拝して傍らに坐り、「世尊、我が宮殿の宮女たちが、アーナンダ長老から法を聞き習いたいと申しております。どうかアーナンダ長老は、我が宮殿で、法を説いたり語ったりしてくださいますように」とお願いしました。釈尊は承諾されました。
そのようにして、アーナンダ尊者は、時々お城へ行って、宮女たちに法を説かれるようになりました。
ところがある日のこと、王の冠に飾られていた大粒の真珠がなくなるという事件が起こりました。王は大臣に、「城にいる者、雇われている者を一人残らず捕らえて調べ、必ず宝石を探し出せ」と命じました。大臣は、城にいるすべての者を調べ上げ、真珠を見つけようとしました。しかし、真珠はなかなか見つからず、人々は皆、たいへんな迷惑を被りました。
ちょうどその日は法話の日でした。いつもは、アーナンダ長老がいらっしゃると、宮女たちはとても喜んでお話を聞きに集まります。しかしその日は、皆、沈みがちで、浮かない様子でした。アーナンダ長老が不審に思われて、「なぜあなた方はそのように、憂いに沈んでいるのですか」とたずねられると、宮女たちはそれまでのいきさつをお話ししました。そして、「真珠はなかなか見つかりません。これからいったいどうなるのか、誰に何が起こるのかを思うと、とても不安で、皆、気持ちが沈んでいるのでございます」と打ち明けました。アーナンダ長老は「心配することはない」と彼女たちを安心させ、コーサラ王のところに行きました。
アーナンダ長老はそちらに用意された座に坐られて、王と会話を交わしました。「大王よ、王冠の真珠がなくなったと聞きました」「尊師、その通りです。宮殿にいる者を残らず捕らえて調べさせたのですが、見つかりません」「大王よ、良い方法があります」「尊師、どのような方法でしょうか」「大王よ、束を与えるのです」「尊師、どのような束ですか」「大王よ、城にいる人々の数だけのワラ束を作り、一人一人に渡すのです。そして、朝早くこのワラ束を持ってきて門のところに置くようにと命じるのです。真珠を奪った者は、束の中に真珠を入れて持ってくるでしょう。一日目に見つかればいいのですが、もし見つからない場合は、二日目にも同じことをするのです。それでも見つからなければ、三日目にも同じことをするのです。そうすれば、きっと真珠を取り戻せることでしょう」。長老はそう言って、帰られました。
コーサラ王は長老の言葉にしたがってワラ束を城中の者に配らせ、次の朝に門のところに置くようにと命じました。一日目は真珠は見つかりませんでした。二日目も見つからず、三日目にもやはり真珠は見つかりませんでした。
三日目に、アーナンダ長老が城に来られました。長老は再び王と会話を交わしました。「大王よ、真珠は戻りましたか」「いいえ、尊師、真珠はまだ戻りません」「それでは大王よ、広い庭の真ん中に水を入れた大きな瓶(かめ)を置き、四方に幕を張らせるのです。そして、『城の者は全員、一人ずつ幕の中に入って瓶の水で手を洗って出てこい』と命じるのです。真珠を盗んだ者は、皆に見つからないように瓶の中に真珠を落とし、なくなった真珠が見つかるでしょう」。長老はそう言って、帰られました。
王は長老が言われた通りに、庭の真ん中に水を張った瓶を置き、周りに幕を張らせ、城の者は全員、一人ずつ幕の中に入って手を洗うように、と命じました。真珠を盗んだ者は、「アーナンダ長老は、この事件を引き受けて、真珠が見つかるまでこういうことを繰り返すつもりなのだろう。そろそろこの辺で真珠を返した方がよさそうだ」と考えました。彼は、自分の番が来ると、真珠を隠し持って幕の中に入り、瓶の中に真珠を落として立ち去りました。全員が手を洗った後で瓶の水を捨てると、真珠が出てきました。
コーサラ王は、「長老のお陰で、誰にも迷惑をかけずに真珠を取り戻すことができた」とたいへん満足し、とても喜びました。城の者は皆、「長老の徳によって、我々は大きな苦しみから逃れることができた」と安堵して、たいそう喜びました。「アーナンダ長老の徳によって、王様の王冠の真珠が無事に戻ってきた」という噂は、瞬く間に広がりました。
比丘たちが法話堂に集まって、アーナンダ尊者を賞賛し、「友よ、アーナンダ長老は、ご自分の博識と智恵と巧みな方便を使う力によって、誰にも迷惑をかけず、問題を解決された」と話していました。釈尊が来られて何の話をしているのかとお訊きになったので、比丘たちがお答えすると、釈尊はアーナンダ尊者をほめられ、「過去においても、賢者は、誰にも迷惑をかけずに盗品を取り戻した」とおっしゃって、皆に請われるままに、過去の話をされました。(次号につづく)
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
「方便」という仏教用語があります。しかし、意味はよく理解されていないようです。方便は、サンスクリット語ではupāya(ウパーヤ)+kauśalya(カウシャルヤ)という二つの単語でできています。ウパーヤは方法という意味ですが、下手な方法ではなく、正しい方法というニュアンスがあるのです。カウシャルヤは上手という意味です。何をするにしても、正しいやり方、有効なやり方、望む結果を出すやり方というのがあるのです。やり方は見事でも、結果がゼロなら、ウパーヤと言わないのです。このウパーヤ(方法)という語にはズルいやり方も含まれるので、パーリ語では別な単語を使うこともあります。仏教を学ぶ、実践する人々に、仏陀が「理性」を要求します。仏教の実践にかかわらず、いかなる物事も、行う場合は、正しい、効率的な方法で行わなくてはならないのです。それが俗に言う才能なのです。パーリ語でpaṭibhāna(パティバーナ)といいます。
パティバーナがない人々にはいつでもマニュアルが必要です。あるいは、常に誰かが見張って命令してやらせなくては良い結果が出ないのです。このような生き方は惨めで暗いものです。こころは、何か新しいものを発見すると、喜びを感じます。活発にもなります。ですから、パティバーナはとてもありがたいことなのですが、皆に平等についてこないのは残念です。それでも仏教の世界では、たくさんのエピソードを駆使してパティバーナ(方便)を味わってもらうのです。これを理解すると、自分の周りで何か問題が起きたら、自分も効率の高い方法で解決しようとする気持ちになるのです。
試行錯誤でやってみると、また客観的に観察してみると、パティバーナ(方便)という能力が現れてきます。こころを常に明るく楽しく保つことができれば、パティバーナ(方便)は自ずと出てくるものなのです。いわゆるユーモア一杯で生きることです。皆がユーモアの人なら、生きることは楽楽になります。仏教ではゲラゲラ笑ったりするのは品性を欠く行為だと禁じていますから、仏典のエピソードで笑いを見出すのは少々難しいかもしれません。昔のお坊様方が、物語の調整をして、仏陀の真理のみをハイライトしようとしたからです。もちろん、笑い話として仏教の物語を読むことになったら困るのです。しかし調べてみてください。日本で読まれている禅語録にはユーモアが一杯です。
ある日、あるバラモンが釈尊を訪ねてこう言いました。「私は『誰の考え方も気に入らない』という考えです。」(本人は仏陀を貶したつもりでしたが)釈尊は「それでは、あなたには『誰の考えも気に入らない』という考えも気に入らないでしょうね」と答えたのです。この答えの中に、仏陀のユーモアのセンスと、鋭い智慧が見えてきます。例えば、「バラモン、あなたが言っていることは矛盾です」と言ったならば、喧嘩みたいで、相手も攻撃したくなる。しかし彼は、仏陀の一言で負けてしまったのです。激しい笑いを徹底的に抑えていても、経典にはユーモアが溢れています。それも発見しながら仏典をお読みになると、パティバーナ(方便)という才能が上がってくると思います。
ここまで話したのは、アーナンダ尊者のパティバーナ(方便)をなんとか賞賛しようと思ったからです。結果を出すまで何日もかかったから今一歩だと言ったら、罰が当たるかもしれませんから言わないことにします。私なら、盗人の藁が一晩で一センチ伸びますようと言っておきます。次の日藁の短い方が犯人になる。やっぱりこの方法は、仏教的にまずいのです。
アーナンダ尊者は、犯人ではなく、盗品が見つかることを考えたのです。人の命を助けてあげたのです。