ジャータカ物語

No.84(2006年12月号)

クサナーリ物語

Kusanāli jātaka(No.121) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これは、シャカムニブッダが、コーサラ国の首都サーワッティ(舎衛城)郊外の、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のお話です。

その頃、サーワッティには、アナータピンディカ長者という、祇園精舎をお布施したことで人々に知られる大富豪が住んでいました。長者の友人、仲間、親族たちは、「大長者よ、あなたが親しくしている人の中には、生まれ、家柄、財産などが、あなたより優れてはおらず、等しくもない人々がいるでしょう。なぜそんな劣った人々と親しくするのですか。彼らと親しくするのはやめなさい」と、何度もいさめました。しかしアナータピンディカ長者は、「友情というのは、劣っている者とも、等しい者とも、優れている者とも結ぶべきものだよ」と言って、その言葉を受け入れませんでした。

アナータピンディカ長者にはカーラカンニ(不吉)という名前の幼馴染みがいました。二人は若い頃、同じ師のもとで学んでいたのです。その後、カーラカンニは落ちぶれ、生計が成り立たなくなって困り果て、アナータピンディカ長者を頼って来ました。アナータピンディカ長者は彼を慰め、彼に給料を払って自分の財産を管理させました。

アナータピンディカ長者の周りの者は、彼がカーラカンニを雇うことに反対でした。なぜなら、「カーラカンニ」という名前は「不吉」という意味で、彼が来てからというものアナータピンディカ長者のところでは「不吉」という言葉がよく聞かれるようになったからです。たとえば「カーラカンニ(不吉)、いらっしゃい」「カーラカンニ(不吉)、座りなさい」「カーラカンニ(不吉)、入りなさい」という具合に、「不吉、不吉」という言葉が耳に入るのです。友人たちは、「あんなに『不吉、不吉』という声を聞いたなら、鬼でさえ逃げてしまうよ。あの男は貧乏で、格が低い。あんな名前の人を雇うのはやめなさい」と、長者に言いました。

しかしアナータピンディカ長者は、「名前は単なる呼び名でしょう。賢き者は、名で人を判断することはしません。私は名前のせいで友達を捨てるようなことはしないよ」と、人々の言葉に耳を貸しませんでした。

ある日、アナータピンディカ長者は自分の所有する村に出かける用事ができて、カーラカンニに留守をまかせて旅立ちました。長者が家を留守にすることを聞きつけた盗賊たちは、留守中を襲おうと武器を持って夜中に集まり、長者の家を取り囲みました。しかしカーラカンニは、盗賊たちの来襲を予測して、ちゃんと眠らずに見張っていました。盗賊の気配を察したカーラカンニは、「おまえはホラ貝を吹け、おまえは太鼓を打ち鳴らせ」と、大勢の人がいるかのように大声をあげて、家中を歩き回りました。盗賊たちは「たくさんの人々が屋敷にいる」と驚いて、武器を捨てて逃げ去りました。朝になってたくさんの武器が捨てられているのを見た人々は震え上がり、「長者の賢い友人のお陰で、怖ろしい危難を免れた」とカーラカンニを褒め讃えました。

アナータピンディカ長者が家に戻りました。友人たちは、長者にカーラカンニの手柄を話しました。長者は、「あなた方は、これほども私の家を護ってくれる私の友人を、追い出そうとしたでしょう。もし私があなた方の忠告を聞いて彼を追い出していたら、私の財産はなくなっていました。名前は人を判断する基準にはなりません。有能な心こそが基準になるのです」とカーラカンニを褒め、今まで以上の給料を出して優遇しました。

アナータピンディカ長者は、「このような良い話は説法の種になるだろう」と思って祇園精舎に行き、お釈迦さまにそのことをお話ししました。釈尊は、「長者よ、親友は、決して劣れる者とはならない。友人を護ってくれる友が、親友なのだ。そういう友人がいたら、たとえ自分と等しい格の者や、劣っている格の者であっても、皆、優れている者だと思うべきである。なぜなら、彼らは、自分の上にかかってくる重荷を、必ず取り除いてくれるのだから。あなたは今回、親友によって家を護ることができたが、過去にも、親しい友によって天宮の主となった者がいたのだよ」と言われ、長者に請われるままに過去の話をされました。

昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は宮殿の庭に茂っているクサナーリ(吉祥草)に宿る神霊でした。宮庭の中心には、幹がまっすぐに高くそびえて枝が四方に広がった立派なルチャ(幸い)の樹がありました。そのルチャ樹は、王の家来たちから神木として崇められているほどの、堂々としたすばらしい大樹でした。この樹にはたいへん威力のある女神が住んでいました。クサナーリの神霊は、この女神と、とても親しくしていました。

ある時、ブラフマダッタ王の御殿の柱が揺れました。王は大工を呼び、「大工よ、御殿の柱が揺れた。新しい丈夫な柱をつくれ」と命じました。大工は「王様、かしこまりました」と承り、御殿の柱となるべき材木を探すことにしました。しかし、御殿の柱になるほどの樹木は、なかなか見つかりません。ある時、宮廷の庭でルチャ樹を見つけた大工たちは、「これは御殿の柱になる立派な樹木だ。しかし、神木を切ることはできないだろう」と考えました。

大工たちは王に会いに行きました。王が「大工よ、御殿の柱にふさわしい樹は見つかったか?」と訊くと、大工は「王様、樹は見つかりました。しかし、その樹を切ることはできません」と答えました。「大工よ、なぜか?」「王様、御殿の柱にするほどの樹はなかなかありません。宮庭のルチャ樹であれば、柱にできるでしょう。しかし我々は、神木を切ることはできません」「もしあの樹しか他にないのであれば、あれを切って柱にせよ。神木のための樹は新しく植えることにしよう」「王様、仰せの通りにいたします」。

大工たちは供え物を持って宮庭へ行き、「明日、この樹を切ることにしよう」と言いながら、ルチャ樹を供養して去りました。ルチャ樹の女神はそれを聞き、「私たちの住んでいる樹は天宮なのだ。しかしここも、明日にはなくなってしまう。私は子供たちを連れてどこかへ行かなければならない。いったいどこへ行けばいいのだろう」と、子供たちを抱いて涙を流しました。ルチャ樹の女神の友人である森の樹神たちが、心配して集まってきました。女神は事情を話しましたが、樹神たちにも、どうすればよいのかわかりません。樹神たちは、しかたなく、女神と共に泣き始めました。

この時、菩薩であるクサナーリの神霊が、ルチャ樹の女神を訪ねてきました。事情を聞いた菩薩は、「心配しないでください。私はあなたの樹が切られるのを黙って見ていることはしません。明日、大工たちが来たら、わかるでしょう」と、女神を慰めました。

翌日、大工たちがルチャ樹のところに来ると、菩薩はカメレオンに化けてルチャ樹の根本に姿を見せました。そして、樹の中にある空洞を通ったようなふりをして上方の枝から姿を現し、そこで頭を振りながらじっとしていました。大工の棟梁はカメレオンの様子を見て、手で樹を叩きながら、「どうもこの樹は中に空洞があるようだ。空洞のある樹を柱に使うことはできない。昨日はそんなこととも知らず、供養までしてしまった」とブツブツ腹を立てて、そこを立ち去りました。

ルチャ樹の女神は、菩薩のお陰で、再び天宮の女主人となりました。彼女の無事を祝って、たくさんの樹神たちが集まりました。女神は菩薩の徳を讃え、「神々よ、私たちは大威力を持っていても、智慧が足りず、事が起こるとどうしていいかわかりませんでした。クサナーリの神霊は、智慧によって、私を天宮の主(あるじ)に留まらせてくれました。自分より格の優れたる者だけでなく、等しい者も、劣る者も、友は、それぞれの力で、友達に起こった苦しみを除いてくれ、安楽にしてくれるのです」と、友情を賛嘆して次の詩を唱えました。

等しき友も、優れたるのごとくせよ
劣れる友もまた、まったく同一にせよ
彼らは危難にあたり、最上の利を与えん
我がルチャ樹における、クサナーリの助けのごとく

ルチャ樹神は、その後も菩薩とつきあって、業に従って生まれるべきところに生まれ変わっていきました。

釈尊は「その時のルチャ樹神はアーナンダであり、クサナーリの神霊は私であった」と言われ、話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

「友情」
仏教では友情は何よりも大事にしています。ですから、友情について詳しく説明されています。「友達なら誰でも良い」というのは、正しい。しかし、それで済むわけではありません。友人として誰でも良いのですが、問題は「友情」にあるのです。人々は、いろいろな目的で互いにつきあうのです。気をつけるべきは、その目的です。良い目的も、悪い目的もあります。悪い目的で築く友情は、明らかに悪い結果になるのです。絶つべき友情なのです。

仏教が認める友人のことを Kalyāṇa mitta(カルヤーナ ミッタ)といいます。Kalyāṇa は「善い」という意味です。「良い」という意味ではありません。「善友」です。善友たちの間の友情は、断言的にすばらしいものです。

ある日、アーナンダ尊者が「善友に出会えば、仏道の半分が進みます」と釈尊に言いました。釈尊が、「アーナンダ、そのように言ってはならない。善友に出会えば、仏道は完成します」と答えられたのです。ということは、完全たる悟りを開いて輪廻の苦しみから脱出するところまで、善友が人を導くという意味になります。そして、この世で現れる真の善友は如来である自分自身だと、釈尊が説かれたのです。「つきあうために信頼できる友人がない」とひとりぼっちで困っている人々に、朗報です。お釈迦さまが皆の友達なのです。仏陀の言葉を学んだり、理解したり、実践しようと励んだりすると、自分にはこの上のない優れた味方が常に側にいてくださることを体験できると思います。

Kalyāṇa mitta の反対は、pāpa mitta(パーパ ミッタ)です。「悪友」という意味です。悪といえば貪瞋痴です。悪友は貪瞋痴の感情を互いに刺激し合って強化する人間関係です。欲目的の仲間、怒り目的の仲間、無知目的の仲間というように、この世では似た者同士で仲間を作るのです。そこまでは、世間に見られる普通の現象です。

それだけではありません。悪友には友人もどきもいるのです。表面的には信頼できる友人の面を被っているが、本音は自分の利益のためにつきあうか、相手を不幸に陥れるためにつきあう。たとえ悪友の仲間同士でも、時々喧嘩したり意見が分かれて一時的につきあいを停止したりすることはよくあります。友人は、喧嘩して別れても、後で寂しく感じたり相手に失礼なことをしたと後悔したりして、仲直りするのです。それが普通です。しかし、友人もどきとは喧嘩にもならないし、なかなか発見できないのです。いつも自分の機嫌を取ってくれるのです。それがとても危険です。つきあう自分が必ず不幸になります。お釈迦さまが、友人もどきの悪友は敵だと思って離れるべきだと説かれたのです。

だからといって我々一般の悪友たちとのつきあいが認められているという意味ではありませんが、俗世間ではそれは避けられないのです。ギルド、組合、組織、社団、法人、政党、集団、PTA、NGO、NPO、同窓会、幼馴染みなど、名前を挙げるときりがないのです。しかし、この世の仲間グループは皆すばらしいとは言えない。不必要だとも言えない。例えば労働組合や経営側の組織などは社会が必要とするでしょう。しかし、それぞれ自分の目的に達するためのつきあいだから、仏教的に「欲の仲間、怒りの仲間」とも言えないわけではないのです。

人の容色、財力、権力、などに惹かれて仲良くするのは、友情ではありません。本当の友情は不思議なものです。本当の友情には性別も容色も民族の差も家柄も、その他の差異も全然関係ないのです。単に、一人の人がもう一人の人と仲良くしているだけです。心が通じているのです。気持ちが通じているのです。互いに心配するのです。互いの幸福を期待しているのです。相手のためになるなら、文句を言わず喜んで助けるのです。相手から何も期待しないが、自分が困っているとき親より先にその人に協力を頼むのです。裏切らない人間関係なのです。たとえ夫婦でも真の友情があったりなかったりです。真の友情は、一切の区別・差別を超えるものなのです。