No.86(2007年2月号)
一四の裁決物語②
Gāmaṇicaṇḍa jātaka(No.257)
(前回までのあらすじ)
先代の国王に仕えていたガーマニチャンダは、王の死後、引退して農業を始めた。ところが、借りた牛を返した直後に牛が盗まれたことから、その補償を要求され、訴えられることとなった。新王(菩薩)の裁定を仰ぎに城へ行く途中、友人の妻の流産、馬の骨折、籠細工師の死という不幸な事件に遭ったガーマニチャンダは、いずれも訴えられることとなる。五人に膨れた一行は城へ向かった。
彼らがある村を通りかかると、そこの村長がガーマニチャンダを見て、「チャンダおじさん。どこに行くのですか」と呼びかけました。「王様のところへ」「それではぜひ、私の問題をお尋ねしていただけませんか。私は以前は美しく、財産も名誉もあり、体も健康でした。それが今は貧しくて、黄疸を患っています。いったいどうしたわけか、お訊きしたいのです。新しい王様は賢者だという評判です。きっと答えてくださるでしょう」と頼みました。ガーマニチャンダは承知しました。
さらに進むと、一人の娼婦が彼を見かけ、「チャンダおじさん、どこに行くのですか」と呼びかけました。「王様のところへ」「それではぜひ私の悩みをお訊きしてくださいな。以前、私にはたくさんの実入りがあったのに、今は誰も私のところに来なくなり、椰子の実ほどの蓄えもない有り様です。これはどうしたことなのか。若い王様は賢者だという評判です。きっと答えてくださるでしょう」と頼みました。ガーマニチャンダは承知しました。
さらに進むと、ある村の若い女が彼を見かけて同じように話しかけ、「私は夫の家にいることもできず、父母の家にいることもできません。いったいどうしたことでしょう。王様にお訊き下さいませ」と頼みました。ガーマニチャンダは承知しました。
さらに進むと、道の端の蟻塚に住んでいる蛇が彼を見かけて同じように話しかけ、「私は食物を探しに穴から出る時には、腹が減ってやせているにもかかわらず、なかなか穴から出られません。やっとの思いで這い出します。しかし、食事を済ませて穴に戻る時には、満腹で体が肥え太っているのに、スルスルと穴に入れます。これはいったいどうしたわけなのか、王様に訊いてください」と頼みました。ガーマニチャンダは承知しました。
さらに進むと、一匹の鹿が彼を見かけて同じように話しかけ、「私はある木の根元でだけ草を食べることができます。他の場所では草を食べることができません。これはいったいどういうことか、王様に訊いてください」と頼みました。ガーマニチャンダは承知しました。
さらに進むと、一羽のオウムが、彼を見かけて同じように話しかけ、「私はある蟻塚の麓で坐って鳴くと、愉快になっていくらでも鳴けるのに、他の場所では鳴くことができません。これはいったいどうしたわけなのか、王様に訊いてください」と頼みました。ガーマニチャンダは承知しました。
さらに進むと、ある樹神が彼を見かけて同じように話しかけ、「私は以前は人々から崇拝され、多くの供物を受けていた。しかし、今は一握りの若枝さえも供養されません。これはいったいどうしたわけなのか、王様にお尋ねしてください」と頼みました。ガーマニチャンダは承知しました。
さらに進むと、龍王が彼を見かけて同じように話しかけ、「以前はこの湖の水は清らかで宝玉のごとくであった。しかし、その水が、今は濁って汚い浮き草で覆われている。これはいったいどうしたわけなのか、王様に訊いてもらいたいのです」と頼みました。ガーマニチャンダは承知しました。
さらに進むと、ある園の苦行者たちが彼を見かけて同じように話しかけ、「以前はこの園の果実はこの上なく美味でしたが、今ではまずい実しか実りません。これはいったいどうしたわけなのか、王様にお訊きください」と頼みました。ガーマニチャンダは承知しました。
そこからさらに進むと、街の門の近くのお堂にいる若いバラモンたちが、彼を見かけて同じように話しかけ、「以前は、学んだ聖典の箇所ならどこでも、私たちには明らかでした。しかし、なぜか今では、穴の開いたビンに入った水のように、学んだことが少しも頭に残らず、わからず、真っ暗な有り様です。これはいったいどうしたわけなのか、王様にお訊きください」と頼みました。ガーマニチャンダは承知しました。
ガーマニチャンダは、これらの一四の問題と共にお城に着き、法廷に坐っている王のもとに行きました。王はガーマニチャンダを見て、「彼は余の父王の従者であり、余が幼い頃に遊んでくれた者だ」と懐かしくなって、「おお、チャンダよ、長い間見かけなかったが、いったいどこにいたのか。何の用事でこちらに来たのか?」と話しかけました。「はい、王様。先王様がお隠れになり、私は田舎に引退しました。そこに牛の事件が起こり、『王の使い』の言葉によって、こちらに連れて来られたのです」「そういうことでもなければ、汝はここには来なかったであろう。再び会うことができたのは喜ばしいことである。汝を連れてきてくれた男はどこにいるのか」「王様、こちらにいます」
「友よ、チャンダをここに連れて来たのは本当か」「王様、左様でございます」「それはいったいどういうわけか?」「彼は、私の二頭の牛を返しません」「チャンダよ、それはまことか?」。ガーマニチャンダは牛の一件について、一部始終を話しました。王は牛の持ち主にたずねました「友よ、汝は牛が家に入るのを見たか?」「王様、私は見ていません」「友よ、余は鏡王と呼ばれている。余に嘘をつくことはできない。こちらを見てはっきりと述べよ」「私は見ました」「チャンダよ、汝は牛をしっかりと持ち主に手渡さなかった。ゆえに牛は汝の負債である。しかしこの男は牛を見たのに、見ていないと嘘をついた。したがって、汝は、この男の両目を取り出すがよい。そして牛の代価として24カハーパナを彼に支払え」。これを聞いた牛の持ち主は驚き、「チャンダさん、牛の代金はあなたに差し上げます。その上にこれも受け取ってください」と、数カハーパナをガーマニチャンダに渡して逃げ去りました。
次に、二番目の男が訴えました。「王様、彼は私の妻を流産させました」「チャンダよ、それは本当か?」。ガーマニチャンダは事情を話しました。王は訴えた男に「汝は流産した胎児を元通りにすることができるか?」「王様、それはできません」「では、どうせよと言うのか?」「私は子供がほしいのです」「ではチャンダよ、汝は彼の妻を家に連れ帰り、子供をつくってから、妻を彼に返すがよい」。男はそれを聞いて驚き、「私の家庭を壊さないでください」と、数カハーパナをガーマニチャンダに渡して逃げ去りました。
次に、馬丁が「王様、チャンダは私の馬の足を折りました」と訴えました。王はガーマニチャンダから事情を聞き、男に「汝はチャンダに、馬を打って留めてくれと言ったというのはまことか?」と訊きました。男は「そんなことは言ってません」と述べましたが、王に嘘は通用しません。嘘がバレたところで、王は、「チャンダよ、この男は嘘をついた。汝はこの男の舌を切り取り、馬の代償として1000カハーパナを支払うがよい」。それを聞いた馬丁は、数カハーパナをガーマニチャンダに渡して逃げ去りました。
次に、籠細工師の息子が訴えました。「王様、この悪党は私の父を殺しました」。王はガーマニチャンダから事情を聞きました。「籠細工師よ、汝はどうしてもらいたいのか?」「私は自分の父親を取り戻したいのです」「チャンダよ、この男は父を求めている。しかし死者を連れ戻すことはできない。汝はこの男の母と一緒になって、この男の父になるがよい」。それを聞いた籠細工師の息子は、「どうぞ私の家庭をメチャクチャにしないでください」と、数カハーパナをガーマニチャンダに渡して逃げ去りました。
すべての事件が無事に解決し、ガーマニチャンダはたいへん喜んで王に言いました。「王様、来る途中でいくつかの伝言を頼まれました。お許しをいただければ、それらの問題をお訊きしたいのですが、よろしいでしょうか?」「よろしい、申し述べよ」。チャンダは頼まれた伝言をそのまま語り、王は最後に聞いたバラモンたちの伝言から順を追って、一つ一つ答えを解き明かしました。
(バラモンたちの疑問)「以前、彼らが住んでいた場所では、毎朝早朝に時を知らせる賢い鶏がいた。ゆえに彼らは規則正しく目覚め、聖典を読みあげるうちに陽が昇り、学んだことが失われることはなかったのだ。しかし今の鶏は正しく時を告げることがない。鶏が真夜中に鳴くと、彼らは真夜中に目覚め、聖典を読もうとしても眠くて寝てしまう。陽が昇ってから鳴くと、遅く起きた彼らには聖典を読む時間がない。ゆえに学んだことは頭に留まらず、わからず、真っ暗になっているのだ。再び賢い鶏を手に入れるようにと、彼らに言いなさい」と。
(苦行者たちの疑問)「彼らは以前は沙門の務めを為し、冥想修行に熱心であった。しかし今は、為すべきことを為さず、為すべきでないことに専念し、園の果実を人々に与えて不法な施物を得て生活している。ゆえに彼らは、おいしい果実を得ることはできなくなったのだ。以前のように沙門の務めを果たすことを彼らに説くがよい」と。
(龍王の疑問)「龍王たちは互いに争っている。ゆえに湖の水が濁っているのだ。以前のように互いに仲良くすれば、水はまた清くなるであろうと彼らに説くがよい」と。
(樹神の疑問)「その樹神は、以前は森に入った人々を守護していた。それゆえ多くの供物を得た。今は人々を護らなくなった。それゆえ供物を得ることもできなくなってしまった。彼らに、以前のように、森に入った人々を護るようにと言うがよい」と。
(オウムの疑問)「そのオウムが愉快に鳴く蟻塚の下には、宝物がいっぱい入った壺が埋まっている。汝はそれを掘り出し、宝を取るがよい」と。
(鹿の疑問)「その鹿が草を食べることができる木の上にはたくさんのハチミツがある。彼は蜜のこぼれた草のおいしさに慣れ親しみ、他の場所の草を食べることができないでいる。汝はそこのミツバチの巣を取って、ハチミツの最上のところを余に送り、残りは自分で食べるがよい」と。
(蛇の疑問)「その蛇の住む蟻塚の下には、たくさんの宝の壺がある。蛇はそれを知っていて、出かける時にはその財欲によって、体を穴にしっかりつけて嫌々出て行く。食を得て戻る時には、財を愛する気持ちから、スルスルと急いで穴に入り込む。汝はその宝の壺を掘り出し、それらを取るがよい」と。
(若い女の疑問)「かの若い女の夫の住む村と父母の住む村の中間の村に、彼女の愛人がいる。彼女はその愛人のことを思って夫の家にいることができず、『父母に会いに行く』と言って愛人の家に行く。そこに数日滞在してから父母の家に行くが、そちらにも落ち着けず、『夫の家に行く』と言っては愛人の家に行く。彼女に『夫の家に住め。さもないと王様が汝を捕らえ、汝の命はないだろう。注意深くせよ』と言い聞かせなさい」と。
(娼婦の疑問)「その娼婦は、以前は、一人の男の手から金を受け取ると、その金に見合う仕事を果たす前に、他の男から金を受け取ることはなかった。しかし今はその習慣を捨て、一人の手から金を受け取ると、その男を満足させずに、次の男のところに行く。それゆえ誰も彼女に近づかなくなったのだ。以前通りの自分の習慣を守るなら、彼女の収入は元通りになるだろう」と。
(村長の疑問)「その村長は、以前は正しく公平に裁判を行っていた。したがって、人々から尊敬され、人望も厚く、多くの贈り物を得ていた。しかし今や、彼は、賄賂(わいろ)を喜ぶ不正な者となった。ゆえに、貧しく、惨めになり、黄疸を患っている。彼が以前通り正しく行動するならば、再び以前のようになれるだろう」と。
そのように王は、ガーマニチャンダによって伝えられた問題や疑問に対し、一つ一つ、智慧によって、あたかも正覚者のごとく明確に説き示しました。その後、王は、ガーマニチャンダに多くの施物を与え、彼の住んでいる村まで彼に与えて、村へ帰しました。
ガーマニチャンダは、帰る途中で、菩薩から聞いた伝言を、若いバラモンたち、苦行者たち、龍王、樹神に正しく伝え、オウムが坐っていた場所から宝物を掘り出し、鹿が草を食べた木の上からハチミツを採って王に最上の蜜を送りました。そして、蛇が住んでいた蟻塚を壊して宝物を掘り出し、若い女、娼婦、村長に王の言葉通りの伝言を伝えて、大いなる財産と名声を得て村に帰り、そちらで一生を過ごしました。その後、ガーマニチャンダは、その業に従って、生まれるべきところに生まれ変わっていきました。菩薩である王は、それからも善政を敷き、布施を行い、善業を積んで、死後、天界に生まれました。
過去の話を終えられたお釈迦さまが、四つの真理について法話を続けられると、それを聞いていたたくさんの比丘たちが、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果の悟りを得ました。
釈尊は、「その時のガーマニチャンダはアーナンダであり、鏡王は私であった」と言われ、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
智慧がある人に、理性もあります。理性があるといえば、論理的、具体的、実践的ということにもなります。この物語は、智慧に関するこの特色を解明しています。菩薩であるアーダーサムカ・クマーラ(鏡王子)は、智者の役を演じています。智慧のある人の優れたところは、判断能力なのです。正しい判断が瞬時にできることを、仏教は高く評価しています。好み、欲、怒り、主義(見解)、無知などの感情が微塵でも心に入り込むと、判断能力が衰えるのです。感情が主導権を取ると、判断能力がなくなるのです。智慧のある人は、常に客観性、具体性、有効性を重視して正しい判断をするのです。
智慧のない人は、あれこれ理屈を言うかもしれませんが、理性的ではない。人が論理・理屈を羅列して、気持ち悪くなることがよくありますね。それは、その人に理性が、智慧がないからです。理性ある人の論理は、驚くほどおもしろいのです。
子供を流産したケースを考えましょう。待望の子供が亡くなったことは、父親にとっては納得のいく我慢できる事故ではありません。当然悲しくなるし、激怒もする。これはどうにもならない感情です。それで本人は「理屈」を語る。しかしそれは屁理屈にすぎないのです。妻がガーマニチャンダにごちそうを作ろうとして事故を起こし、流産した。だから原因はガーマニチャンダにあると思う。これは自分の怒りのはけ口でもあります。論理的に見えても、そちらに論理はありません。そして、損害賠償として子供を欲しがったり、無理なことを要求する。ガーマニチャンダが死ねば、自分の気が晴れると思ったでしょう。
そこで鏡王は大胆な判決を下す。それは論理的な思考の結果です。子供を産むのは妻です。亡くした子供の代わりに別な子を与えろというならば、それはガーマニチャンダの責任になる。そこでガーマニチャンダは妻を家に連れて行きなさいという判断をする。原告にとっては理不尽な判決ですが、これは理不尽な訴えに対する適切な判断なのです。現代的に「これは事故です。被告人は無罪です」と決めても、子供を亡くした父親の気持ちは収まらないでしょう。鏡王は、大胆な判断で、二度と愚かなことができないようにしてしまったのです。他の訴えのケースも似ているので省略します。
何人か、王に調べてほしい問題がありました。それらの物語は、ついでに仏教的な道徳を説明しようとしているところです。売れなくなった娼婦は、娼婦なりに定めていた決まりを破っていたのです。客を一人だけ取るのが決まりでしたが、この人は一度に何人かから金を貰って、その人々を待たせたのです。どんな仕事であっても、それなりのルールがあり、マナーがあります。それを守るべきなのです。
財産に余計に執着すると苦労するのだという戒めは、蛇さんです。餌を食べて太っているのに穴にすっと入れる。しかし、ガリガリにやせていても穴から出るのはとても難しかった。そこまで執着すると、その財産は他人のものになるのです。人に「必要」なものが財産であって、何でもかんでも財産ではないのです。財産が隠れていた場所で声高く美しく囀(さえず)るオウムは、財産を自慢する人間を思わせる。この場合も必要でないものは他人のものになるという論理です。
戦いは自然破壊の元であると龍王に教える。苦行者たちの問い、樹神の問い、村長の問いなどは、それぞれ自分たちの義務を正しく果たすべきだという意味です。聖典の暗記ができなかったバラモンたちに言われたのは、しっかりしたスケジュールを立てて勉強するべきだということです。闇雲に徹夜して勉強しても、理解できないなら、覚えられないなら、勉強しなかったことと同じ結果なのです。
理性に基づき、具体的に判断して生きるべきだと、このジャータカは教えているのです。