No.110(2009年2月号)
蓮根物語
Bhisa jātaka(No.488)
これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)で、修行に対するやる気がなくなった一人の比丘にちなんで語られたお話です。
昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は億万長者のバラモンの家に生まれました。菩薩には六人の弟たちと一人の妹がいました。菩薩が学芸を学び終えると、両親は菩薩に結婚を勧め、家を継がそうとしました。菩薩は「私にとって、この世は、火が燃えさかっているように恐ろしく、牢獄のように窮屈で、糞の山のように嫌なものに感じられます。女など、夢の中でさえ欲したことはありません。家は弟たちの誰かに継がせてください」と断りました。両親は友人たちに説得を頼みましたが、菩薩の気持ちを変えることはできませんでした。友人が「君はそんなに利得を拒んで、いったい何をしたいのか?」と訊くと、菩薩は出家する決意を語りました。両親はあきらめて弟たちに家を継がせようとしました。しかし弟や妹も、結婚して家を継ぐことを断りました。
そのうちに両親が亡くなりました。菩薩は、両親の葬式をすませると、出家することにしました。弟たちと妹も、菩薩の弟子となって出家することを強く望んだので、莫大な財産はすべて貧しい人々にお布施することにしました。菩薩たちは、他に出家を望んだ下男と下女と一人の友人と共に、皆で山に入りました。美しい蓮池の側に庵を構えた菩薩たちは、修行生活を始めました。
最初の頃、彼らは、果実や木の実などの食料を探すために毎日皆で山に入り、にぎやかに食物を集めていました。菩薩は、「せっかく財産を捨てて出家したのに、このように貪欲に支配され、食を求めて村市場のように騒がしくすることは出家にふさわしくない。これからは私が一人で食べものを集めよう」と考えて、皆に話しました。弟たちは、「いいえ、先生はここで修行していてください。これからは、我々が毎日一人ずつ食を探します。妹は下女と共にここにいなさい。食探しは我々男たち八人で分担します」と言って、菩薩の承諾を得ました。
それからは、食事当番となった者が一人で皆の食料を集め、それを十一に分けて一人分ずつ所定の場所に置き、鐘で合図をしてから自分の取り分を持って自分の庵に入りました。皆、静かに自分の分を自分の庵に持ち入り、一人で食を摂りました。そのうちに彼らは、近くの蓮池で採れる蓮根を毎日のように食べるようになりました。そのようにして、十一人の修行者たちは、様々な苦行で己の感覚器官を静めつつ、熱心に修行生活を送っていました。
その頃、彼らの戒を保つ力によって帝釈天の宮殿が震えました。天眼で地上を眺めて菩薩たちが真剣に修行をしているのを見た帝釈天は、彼らが本当に欲を離れて修行しているか試すために、三日間、菩薩の食事を隠すことにしました。
一日目、自分の食事がないことに気づいた菩薩は、「当番の者が私の分を置くのを忘れたのだろう」と気にしませんでした。二日目は「私は何か彼らに悪いことをしたのかもしれない。師である私に言葉で言うのを遠慮して、行為で示したのだろう」と思いました。三日目には「私が何か彼らに悪いことをしたのであれば、彼らに謝ることにしよう」と思い、夕方に鐘を鳴らしました。
皆が集まったところで菩薩が事情を尋ねると、当番の三人は「私はそんなことはしていません。ちゃんと先生の蓮根も置きました」と言いました。菩薩は「では誰かが私の蓮根を食べたことになる。欲を捨てて修行生活を送る者が、たとえ蓮根であれ、他人のものを盗むことは彼のさまたげとなる。いったい誰の行いなのか知らねばならない」と言って、皆で輪になって座りました。
彼らの庵の近くには古い大木があり、そこに一人の樹神が住んでいました。その樹神も皆の輪に加わりました。また、その山には、王の軍隊の訓練中、苦痛に耐えられずに脱走して来た象が住んでいました。庵の近くには、蛇遣いに捕らえられて蛇と曲芸をさせられていた猿も逃げて来て住んでいました。彼らは、よく菩薩たちを訪れて、修行者を尊敬して礼拝していました。その象と猿も輪の片隅に座りました。帝釈天は、ことの成り行きを見届けようと、姿を隠して、輪の近くに座りました。
まず、菩薩のすぐ下の弟が立って菩薩に礼をし、「先生、まず私から身の潔白を証明したいと思いますがいいでしょうか?」と菩薩に承諾を得、「もし私があなたの蓮根を食べたのなら、このようなていたらくとなると誓います」と詩句を唱えました。
次男 馬、牛、金銀、魅惑的な妻を得て
子孫に囲まれて暮らすはめに陥れ バラモンよ、あなたの蓮根を盗んだ者は
皆は、「そこまで言うあなたが盗みをはたらいたはずはない」と彼を座らせました。そして弟たちは、次々と立ち上がって詩句を唱えました。
三男 花飾りとカーシーの白檀香を身につけよ 多くの子に恵まれてあれ
諸欲に強い希望あれ バラモンよ、あなたの蓮根を盗んだ者は
四男 豊かな耕地と名誉を得、子孫多き財産家となれ
老いを気にせず、欲を楽しむ在家になれ バラモンよ、あなたの蓮根を盗んだ者は
五男 力を持つ王家に生まれ 帝王として崇められ
四方に広がる大地を統治するはめに陥れ バラモンよ、あなたの蓮根を盗んだ者は
六男 欲に富むバラモンになれ 占星術に優れた司祭になれ
大王に敬われる身になれ バラモンよ、あなたの蓮根を盗んだ者は
七男 ヴェーダの大学者になれ 修行の成就者と世間に認められよ
民衆に深く敬われる身になれ バラモンよ、あなたの蓮根を盗んだ者は
下男 四つの富(人々、穀物、材木、水)を満たした最上の村を 帝釈天から賜れ
欲を喜びながら死を迎えよ バラモンよ、あなたの蓮根を盗んだ者は
友人 朋友に囲まれた村長になれ 歌や踊りを喜び暮らすはめに陥れ
また、王に悩まされることなく バラモンよ、あなたの蓮根を盗んだ者は
妹 国を征服した大王の 千人の妃たちの第一妃となれ
美女の中で輝く美女になれ バラモンよ、あなたの蓮根を盗んだ者は
下女 下女たちの中で 堂々と美酒を味わい
豊かさを誇れる下女に陥れ バラモンよ、あなたの蓮根を盗んだ者は
樹神 大寺院の住職となり トンカントンカン普請する音を絶やさず
日に日に窓の数を増やせ バラモンよ、あなたの蓮根を盗んだ者は
象 何百もの枷で六カ所に縛られよ 楽しい森を出て王の都に行け
手鉤と棒で打たれ調教されるはめに陥れ バラモンよ、あなたの蓮根を盗んだ者は
猿 花輪をかけられ、耳輪で飾られ 棒で打たれて蛇に近づけ
つながれてうやうやしく道を歩け バラモンよ、あなたの蓮根を盗んだ者は
これらの詩句を聞いた菩薩は、「私がつくりごとを語ってないことを皆に示すため、私も誓いの言葉を述べよう」と、次の詩句を唱えました。
紛失せぬのに紛失したと語る者は 欲のみを享受するはめに陥れ
行者たちよ、疑い持つものは誰であれ 在家の身で死を迎えるはめに陥れ
帝釈天は「この人々は吐いた痰のように欲を嫌悪している」と知り、そのわけを訊きたくなって姿を現し、次の詩句を唱えました。
帝釈天 世界が一貫して切望するもの 大衆に歓迎されるもの、快いもの
この生命に好ましいものを 仙人たちよ、なにゆえに厭うのか
菩薩 鞭打たれ縛られる、まさに欲のゆえ 苦しみと恐れ、欲により生じる
生命の主よ、欲に酔いしれ、 愚者は諸悪を犯す
悪人は悪を積み上げ 死後、地獄に堕ちる
欲が備えるこの危機を観て 仙人たちは欲を厭う
帝釈天 仙人を試す意を持ち 我は蓮根を丘に隠せり
仙人は清らかに悪を離れ住む さあ行者方よ、こが汝らの蓮根だ
菩薩 我らは汝に踊らされる、遊ばれるべき身にあらず 親戚でも、まして伴侶でもあらず
千眼者・神々の王よ 仙人たちを弄ぶ権利は何処にある
帝釈天 我が師匠であり、父上である仙人よ 梵行者に対して犯した罪を謝ります
大智者よ、たったひとつの我が罪を許したまえ 賢者とは、怒りを力としないもの
菩薩 この一夜は有意義に過ごせた
生命の主たる帝釈天を見ることもできた
善士たちよ、皆に幸福あれ
バラモンの蓮根も無事に戻りたり
帝釈天は行者たちに礼をして天界に立ち去りました。その後、熱心に修行した菩薩たち修行者は、四禅定と六神通を得て、梵天界に生まれる身となりました。
お釈迦さまは、「私とサーリプッタ、モッガラーナ、マハーカッサパ、アヌルッダ、プンナ、アーナンダはその時の七人兄弟であり、妹はウッパラヴァンナー、下女はクッジュタラー、下男はチッタであった。樹神はサーターギラ、象はパーリレィヤ、猿はマードゥヴァーセッタであった。また、帝釈天はカールダーイであった」と言われ、話を終えられました。
スマナサーラ長老のコメント
この物語の教訓
人生を成功させたい、負け組になりたくない、と思わない人はいません。それは大いに結構です。では、成功するとは何でしょうか。それはさっぱり分からない。であるならば、成功を収めることはできるのでしょうかと、異論を立てなくてはならない。
人は成功に対して様々な意見を持つ。自分が生きている範囲で、理想の人生像を描く。音楽家の家で生まれたら、世界を圧倒させる音楽家になりたくなる。商人の家に生まれた人は、大企業を立ち上げて億万長者になりたくなる。知識人の家に生まれたら、世界に認められる知識人になりたくなる。政治家の家で生まれたら、狙いは総理大臣の座でしょう。一般人なら、性格のぴったしあう美人と結婚したがる。可愛くて頭のいい、子宝に恵まれたくなる。成功の定義は千差万別です。アメリカ人は、アメリカンドリームという言葉をよく使います。それも成功の定義です。しかし、アメリカンドリームなどは微々たるものです。ただ、金持ちになりたいだけです。
この物語は、人間が無批判的に持っている、この「ドリーム」を裏返しにしているのです。人間の欲に溺れる生き方を、完膚なきまでに笑い飛ばしているのです。一年間労働して、ほとんど飲まず食わずに苦労して金を貯めて、豪華なレストランで一回の食事で使ってしまうような、割の合わない生き方でしょう。それでも、思う存分その一晩を楽しめばいいが、一生労働者の人生でしたので、あの派手な環境に慣れなくて、しきたりや行儀作法を知らなくて、緊張しすぎて楽しむどころではなかったなら、もっと可哀そうでしょう。現代では、たとえ億万長者であっても、一日にして一文なしになり果てることは、珍しい話ではなく普通です。しかし、この話が強調しているのは、そのような誰でも分かっている苦労話、危険話ではないのです。曖昧な成功の道を歩むと、こころは汚れるのです。罪を犯すのです。不幸に陥るのです。死後、どうなるかと分かったものではありません。それなら成功の道とは、不幸のどん底に陥る一本道になるのです。