ジャータカ物語

No.121(2010年1月号)

カッカールの花輪物語

Kakkāru jātaka(No.326) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のお話です。

デーヴァダッタは、出家してまだ間もない比丘たちを上手く言いくるめて彼らに釈尊のもとを離れさせ、共にガヤーシーサ(象頭山)に移り住んで、サンガの分裂という大罪を犯しました。その後、サーリプッタ尊者とモッガラーナ尊者が修行僧たちに法を説いて仏陀のもとに連れ戻すと、デーヴァダッタは絶望のあまり口から血を吐いて、怖ろしく苦しみました。

ある時、法話堂で比丘たちが、デーヴァダッタが自分の悪行為の報いを受けて苦しんだことについて話をしていたところ、お釈迦さまが来られ、「比丘らよ、デーヴァダッタが自分の悪い行いの報いを受けて怖ろしく苦しんだのは今だけではない。過去でも、デーヴァダッタは、自分の悪い行いの報いを受けて大変な苦しみを受けた」と言われ、皆に請われるままに過去の話をされました。

昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩は三十三天に住む神のひとりでした。

ある時、バーラーナシーで盛大なお祭りが開かれ、国中からたくさんの人々が都にやって来ました。祭りを見に集まったのは人間だけではありません。たくさんの龍や金翅鳥(こんじちょう)、地上の神々など、ありとあらゆる有情(生命)が、バーラーナシーにやって来ました。

三十三天からも、四人の神々が、祭りを見に訪れました。四人は、それぞれ、天界の妙なる香りを漂わせた美しい花輪を頭に飾っていました。十二由旬(ゆじゅん)もの広さのある都が、その花のすばらしい香りで充たされました。人々は、「この香りはいったい何の花だろう?このすばらしい香りの花の持ち主は誰だろう?」と、香りの主を捜しました。

三十三天の神々は、人々が自分たちを捜していることを知り、王宮の庭から神通力で空中に浮かび上がり、人々の前に姿を現しました。たくさんの人々がそちらの方に集まって、上を見上げました。報告を受けた王も、副王、大臣たち、家来たちと共に、そちらにやって来ました。

人々は、「あなた様は、どちらの天界から来られたのですか?」と四人の神々にたずねました。「我々は三十三天からやって来ました」「何のためにいらっしゃったのですか?」「お祭りを見に来たのです」「このすばらしい香りをもつ美しい花は何という花ですか?」「天界に咲く、カッカールという花です」「天界には美しい花がたくさんあるでしょう。その花を私たちにいただけませんか?」。

人々は、その花の妙なる香りのすばらしさに魅せられて、花輪を譲ってくれるようにと、神々にお願いしました。しかし、神々はその願いを断って、「この花輪は、大徳のある天界の神のみが飾る資格をもつのです。卑しく、愚かで、心が貧しく、品行の悪い人間界の者に、この花輪を飾ることはできません。しかし、たとえ人間でも、この花にふさわしい徳を備えている人であれば、この花輪を飾ることができます」と言いました。

そして、四人の中の最年長の神が、次の詩句を唱えました。

身で盗むことなく
口で嘘を語らず
名声を得ても意で酔わぬ者
カッカールの花は彼にこそ相応しい

それを聞いた一人の宰相(さいしょう)が、「私にはそれらの徳は何ひとつ備わってはいない。しかし、この花輪を飾れば、人々は私のことを、すばらしい徳の備わった人格者だと見上げるにちがいない」と考えました。

彼は、「私はそういう徳を備えている者です」と名乗りを上げて、神から花輪をもらい、頭に飾りました。

次に二番目の神が、詩句を唱えました。

道に外れず正しく財を求め、
偽(いつわり)にて儲けることなく
財を得ても、こころ酔わぬ者
カッカールの花は彼にこそ相応しい

宰相は、「私はその徳も備えています」と再び嘘をついて、神から花輪をもらって頭に飾りました。

次に三番目の神が、詩句を唱えました。

こころは欲に染まることなく
信から離れることもなく 
富を独り占めにしない者
カッカールの花は彼にこそ相応しい

宰相は、「私にはその徳もあります」とまた嘘をついて、神から花輪をもらって頭に飾りました。

次に四番目の神が、詩句を唱えました。

おおやけでも わたくしでも
仙人をののしらず
言葉に行動が伴う者
カッカールの花は彼にこそ相応しい

宰相は、「その徳も私にあります」と今度も嘘をついて、神から花輪をもらって頭に飾りました。

神々は花輪を全部その宰相に与えると、三十三天に帰っていきました。

神々が見えなくなると、宰相の頭に激痛が走りました。鋭い刃物で頭を刺されたような、鉄の器械で押しつぶされるような、猛烈な痛みでした。宰相はあまりの痛みに正気を失い、ぐるぐる回りながら大声で泣き叫びました。

驚いた人々が、「いったいどうなさったのですか?」と訊くと、宰相は泣きながら、「私は、本当は神々の言ったような徳など全くないのです。それなのに大嘘をついて神々から花輪を受け取ってしまいました。お願いです、誰かこの花輪を取って下さい」と懇願しました。

人々は何とかして花輪をはずそうとしましたが、花輪は打ち付けられた鋼のように、びくともしません。人々は、仕方なく、泣き叫ぶ宰相を抱きかかえて、彼の家に運びました。

宰相が家でひどく苦しみながら泣き暮らしているうちに、七日間が経ちました。王は、大臣たちを呼んで、彼らに相談しました。「あの罰当たりのバラモンは、あのままでは死んでしまうであろう。いったいどうしたものだろう」「大王様、神々しか彼を救うことはできません。もう一度盛大なお祭りをすれば、神々を呼び寄せることができるかもしれません」。

王は、再び、盛大な祭りを催しました。三十三天の四人の神々は、前と同じようにすばらしい香りで都中を満たしながら、美しい花輪をつけて、祭りに現れました。人々は、死にそうになっているバラモンを家から運んで来て、神々の前に横たえました。

宰相は泣きながら「どうぞ私を助けて下さい」と神々に懇願しました。

神々は、「このカッカールの花は、あなたのような品行の悪い、道に外れた者にはふさわしくないのです。あなたは我々をうまくだましたつもりだったのだろうが、自分の虚言の報いは自分に返ってくるのですよ」と、大勢の人々の前で彼を叱りつけて人々に訓戒を与え、宰相の頭から花輪をはずしてあげてから、天界に帰って行きました。

お釈迦さまは、「その時の嘘つきの宰相はダイバダッタであり、四人の神々は、マハーカッサパ、モッガラーナ、サーリプッタと、私であった」と言われ、話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

人間は昔からも、神々に感謝するために様々なお祭を行ってきました。古くから行ってきた祭は、後から出来上がった宗教に乗っ取られることにもなりました。豊作への感謝などの祭は、宗教に乗っ取られたことで現在まで続いたのです。「この祭は豊作への感謝だ」というだけならば、おそらく現代人はとっくの昔に祭を止めていたことでしょう。しかし、神に願いをする、神に感謝をする、というニュアンスが入っているから、みなお祭には真剣になるのです。

今月のジャータカ物語は、祭と神々に関わりがあることをうまく使用したエピソードになっています。仏教が語る物語では、神々がちゃんと降りて来て、祭に参加するのです。もしかすると、「みな大騒ぎをして迷信に凝り固まってお祭をするが、神々が来るわけじゃないでしょう」と言いたかったかもしれません。ですから、仏教が語る物語では、神々に実際に降りて来てもらうのです。しかし残念ながら、その神々は、人間の供養を受けて祝福をして、豊作祈願を叶えてあげて、帰るものではありません。人間たちに、理性に基づいて倫理を守って生活しなさいという、しつけを与える存在なのです。

この物語のしつけは、特に政治家をターゲットにしているものです。悪役は王様の閣僚の長である宰相(さいしょう)です。宰相という職には、必ずバラモン人が就任します。宰相は王様の祭司でもあり、王様に対して倫理道徳に関するアドバイスをするカウンセラーでもあります。決して悪いことをしてはいけない立場にいる政治家が、自分を尊敬してもらうために悪いことばかりをして、国民を騙すのです。

ただしい政治を行う人は、国の財産どころか他人のものも盗みません。嘘は言いません。閣僚という高い名声を得ていても、謙虚に生活するのです。その人は違法行為によって財産を求めません。一般人よりは富豪ですが、傲慢にならないのです。こころを欲で染めないで、道徳を大事にします。自分の富を恵まれていない人々にも分けてあげるのです。人々にただしい生き方を教える修行者を非難冒涜しないのです。