ジャータカ物語

No.125(2010年8月号)

苦いマンゴー物語

Rājovāda jātaka(No.334)  

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のお話です。

ある時、コーサラ王は、お釈迦さまに会ってお話を聞きたくなって、祇園精舎を訪れました。

お釈迦さまは、「大王よ、王たるものは、必ず、正しく国を治める者となるように気をつけなければなりません。不正な王となってはならない。なぜなら、不正な王に仕える者も、皆、不正な者となってしまうのですよ。死んだ後で頼れるのは、自分が為した善い行いだけなのです。それゆえ、何人も、劣った者に仕えることだけは、決して、してはならないのです。たとえ人々がどれほど貴方を褒め称えようと、いい気になって怠ってはなりません。常に怠らず、正しくあることにつとめるべきです。過去にも、賢者の話を聞いて国を正しく治め、死後は天界に生まれた王がいました」とおっしゃって、コーサラ王に請われるままに、過去の話をされました。

昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はバラモンとして生まれました。成人して学芸を学んだ菩薩は、あらゆる学業を修めた後に、出家しました。熱心に修行をして禅定と神通を得た菩薩は、仙人となって、出家生活に満足しつつ、ヒマラヤの山奥で暮らしていました。

その頃、バーラーナシーの国王は、「苦情探し」に興味を抱いたのです。他人のことではなく、自分に対して誰かが苦情を申し立ててはいないかと、非難しているのではないかと、何か自分の気づいていない不正はないものだろうかと、知りたくなったのです。そして、どこかに王を非難する者はいないかと、探し回りました。

しかし、王宮内の人々からも、王宮の外の人々からも、国王の不徳について、わずかなことさえ聞き出すことはできませんでした。

王は、「地方に行けば、私の徳の足らぬところを語る者がいるかもしれない」と、変装して自ら地方に出かけ、王の評判を聞き歩きました。しかし、どこに行っても、王の不徳を語る声を聞くことはなかったのです。人々が語るのは、王の徳を褒める話ばかりでした。

王は、ヒマラヤにまで足を伸ばして山の中を歩き回り、山奥で暮らす菩薩の庵を見つけました。王は菩薩を礼拝して親しく挨拶を交わし、菩薩の傍らに座りました。

ちょうどその時、菩薩は森からマンゴーの実を採ってきて、食べようとしているところでした。そのマンゴーの実は糖がまぶしてあるのかと思うほど甘くて、とってもおいしかったのです。

菩薩は王に、「福徳のある方よ、熟したマンゴーはいかがですか?」と勧めました。王はマンゴーを一口食べて、「おお、なんと甘くておいしいマンゴーだ!」と驚き、「このマンゴーはなぜこれほど味が良いのでしょう」と思わず菩薩にたずねました。

「福徳のある方よ、マンゴーがこれほどおいしいのは、この国の国王がよほど正しく国を治めておられるのでしょう」

「尊師、王が正しくなければ、マンゴーは甘くなくなるのでしょうか?」

「そのとおりです。福徳ある方よ。国王が不正であるならば、マンゴーだけではありません。油、蜜など、どんなものもひどい味となり、森の木の実も、果実も、滋養がなくなって、ひどく不味くなってしまいます。それだけではありません。国中の力が抜けて、居心地が悪くなり、嫌な雰囲気になります。しかし、国王が正しく良い政治をしている国は、木の実や果実も甘く、滋養深くなりますし、国中に活気が出て、すべてにおいて明るく、良い雰囲気になるのです」。

王は、「おっしゃるとおりなのでしょう」と言って、自分の身分は明かさずに、菩薩に礼拝して、山の庵を発ちました。

バーラーナシーの都に帰った王は、「あの行者が言ったことは本当だろうか?ひとつ試してみよう」と思い、わざと不法な政治を行いました。

しばらく不正な政治を続けた後、王は再び、ヒマラヤの菩薩のもとを訪ねました。

菩薩は前と同じように、山で採ってきたマンゴーを、王に勧めました。王がマンゴーを一口食べてみると、あまりの苦さに驚きました。王は、そのマンゴーを口に入れておくことができず、ぺっぺと吐き出してしまいました。

「尊師、すごく苦くて、ひどい味です」

「福徳ある方よ、この国の王が正しく国を治めず、不正な政治を行っているのでしょう。王が不正な政治をすると、木の実も果実もひどく不味くなり、滋養分もなくなります」そして菩薩は、次の詩を唱えました。

川を渡る牛の群れ
牛のおさが泳ぎを乱せば
すべての牛が泳ぎを乱す
導く者に従いて

人間界も異ならず
上に立つものが非法を行えば
民衆の行いは言わずもがな
法に従わぬ王が
国全体を苦に陥れる

川を渡る牛の群れ
牛のおさが正しく泳げば
すべての牛も正しく泳ぐ
導く者に従いて

人間界も異ならず
上に立つものが法に従えば
民衆も当然、法に従う
法に従う王が
国全体に楽を齎(もたら)す

それを聞いた王は、自分の身分を菩薩に明かし、「尊師、以前はマンゴーの果実を自らが甘くしておりましたが、今度は自らが苦くしてしまいました。これからは、甘くすることにします」と言って、菩薩を礼拝し、城に戻りました。

王は、その後、正しく公正に国を治め、秩序正しい政治を行いました。 お釈迦さまは、「その時の国王はアーナンダであり、ヒマラヤの仙人は私であった」と言われ、話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

王様の性格によって、国の農作物や食品の味と滋養素が変わってしまう。と言えば誰でも現実的にはあり得ない話だと思うに違いありません。しかし現実そのままではストーリーになりません。昔も今も、物語・小説というのは、どこかで現実と違うレイアウトにするものです。

昔から、インドの至る所で大量に採れる果物といえばマンゴーなのです。しかしマンゴーの味と香りと大きさと量は決して一定しないのです。去年、美味しいマンゴーが実った樹であっても、今年のマンゴーの味が悪くなってしまうことはよくあります。マンゴーを栽培する人々は、品質を一定にするために、いろいろ工夫しているのです。もしかするとこのエピソードに、マンゴーの気まぐれな性格がタネになった可能性があります。

しかしパーリ経典では、国の政治と、経済的な豊かさと、自然の恵みとに、相互に不可分の関係があると示されてあります。これは科学的に立証できる話ではない、神秘的な話だ、としても構わないのです。お釈迦様が強調したかったのは、国を統治する人々は、真理に従って、法を犯さない、正直で真面目な人間であるべき、ということです。

自分の政治の仕方によって、国がおかしくなるだけではなく、季節のめぐりまで乱れると信じたほうがよいのです。たとえ迷信であっても、構わないのです。そうでないと私たちは、まともな政治家には一人として巡り会えなくなります。表向きに何を言っても、政治家という人々は自分の権力を維持することを第一に考えるのです。政権を取れるならば、何の躊躇もなく事実をねじ曲げるのです。バレないように違法行為もするのです。

昔は、選挙制度がなかったことは言うまでもありません。王政の場合は、子孫が生得権で国を治めるのです。隣の国に攻められるか、国民が暴動を起こして王を追放するか、でない限り王の権力は安定するものです。そういう王の立場から考えれば、自分が好きなように政治をすればいいと思ってしまうのです。国民の幸福のためにわざわざ苦労するのは面倒くさい、と思ってしまうのも簡単です。

お釈迦様は、そのような心理傾向にメスを入れています。神秘的な話だと思ってしまうような言葉で忠告すれば、王たちはわがまま好き勝手にふざけた生活は避けるべきだと思うのです。時期に雨が降らなかっただけでも、一般国民に「これは王様のせいだ」と文句を言える権利を与えているのです。それが独裁権力を持っている王たちを戒める方法なのです。

人間とは単独行動できない生き物です。社会を作って、社会の一員として生存することしかできないのです。人間の社会には、リーダーの存在が不可欠なのです。組長、会長、議長、発起人、議員、大臣、総理、などのリーダーたちが数えきれないほどいるのです。人間は自由だ、独立している存在だ、とうかつに謳ってはならないのです。それは現実的な話ではないのです。一人ひとりが、社会という組織の中で管理されているのです。

それで必要なのは、社会組織を片っ端から破壊することではないのです。組織がなぜうまく行かないのか、なぜ皆が期待通りの幸福になれないのかと、その原因を調べて、取り除くことです。社会が不幸になる原因は、ほとんどリーダーの責任になるのです。国民が言うことを聞かないならば、法律に従わないならば、それもリーダーの責任です。その理由をとても分かりやすく、この物語の偈で語っているのです。おさの牛の泳ぎが乱れれば、群れのすべての牛の泳ぎも乱れてしまうのです。たとえ一頭の牛が泳ぎ方がおかしいと気づいても、群れ全体に囲まれているので、どうしようもないのです。社会の発展と幸福のために、政治家が果たすべき役割はとても重大なのです。

独裁政権、王制の問題を解決するために、徐々に民主主義の政権が現れてきたのです。しかし民主主義政権も、社会の問題を解決しないのです。それには理由があります。人間という生き物は、リーダーがいて、リーダーに導かれて、群れで生活するものです。この本能を変えることはできないのです。選挙に立候補する人々は、自分たちはどのように政治をするのかと一般人にアピールします。立候補者たちは、互いに競って選挙活動をするのです。有権者は、誰のアピールが気に入ったか、という基準で投票する。その人に国を統治する能力があるかないかは、やってみなくては分からないことになっているのです。ということで、民主主義政権も、いつでも国民の不満をかきたてる存在になっています。

完璧な民主主義は、理論的には成り立たないのです。国民みな均等に、明確な判断能力のある人々でなくてはならないからです。もしそうなったとしても、それから自分の仲間からどうやってリーダーを選ぶのでしょうか? みなの能力は均等でしょう。リーダーには一般人より優れた能力が必要なのです。管理能力のある人と、管理能力のない人という差異がないと、民主主義も成り立たないものです。要するに、民主主義政権も完璧な政治システムではないのです。

王制、独裁制、共産主義、社会主義、民主主義、資本主義などなど政治経済の主義はたくさんありますが、一つも完全なものはないのです。お釈迦様は、中道(超越道)の立場で解決法を教えているのです。それはリーダーたるものが、法に、真理に従って統治するべきである、ということです。もしリーダーの統治が正しくないならば、国民みな不幸に陥るだけではなく、農作物の味も、滋養素も、それから季節のめぐりも乱れてしまうのです。国を統治する人々は、自分の行いが国民全体のみならず国土の全体にも影響を与えるのだと、責任を感じることです。ですから、仏教では特定の政治システムを応援していないのです。