あなたとの対話(Q&A)

過去に犯した過ちについて/目標を立てるということ/「マインドフルネス」のブームについて/解脱するために出家したほうがよいのか

パティパダー2016年7月号(205)

過去に犯した過ちについて

教えてください。これまで煩悩にとらわれ、いろいろな過ちを犯してきました。これから三帰依して進んでいきたいと思います。今後は過ちを犯さないようにと思いますが、過去に犯した過ちについて、どのように対処したらいいのでしょうか? 仏道を歩んでいった場合、過去の過ちというのはどうなるのでしょう。

過去に足を引っ張られない

 過去に足を引っ張られると、全然こころが治りません。過去の過ちは「いい勉強をした」と捉えてください。終わった出来事ですから、それは自分にとって勉強のための材料です。あまり気にしないでください。「過去に過ちを犯しました」という素直で謙虚な態度でいいのです。「過去、私は結構ひどかった」と自分で認められると、こころが治っていきます。過ちを認める・口に出すことで、二度とその過ちを犯せなくなってしまうのです。

 ですから、過去の過ちを自分で認めて、友達としゃべっているときでも「昔はいろんなことをやったものですよ」と言った時点で、その人は過去の過ちを繰り返さない人間になっているのです。そのように自分を治してみてください。


目標を立てるということ

未来はわからないということですが、「目標を立てる」ということは、どう考えればいいでしょうか?

目標は現実的に

 未来はわかりませんが、目標は立てなくてはいけないのですね。とにかく、目標がなければ体も動かないのです。ややこしいですね。いまやることの結果は、やってから現れるものです。ですから、いつでも我々は将来・未来がわからないのに、いろいろなことをしなくてはいけない。生きることは、本当に面倒なことなのです。

「未来のことをはっきりわかっているなら、しっかりやることができるのに」と思っていますが、ところがそれは勘違いなのです。未来がはっきりわかっているなら、やる気は無くなるのです。本当は未来がわからないからこそ、やる気が出てくるのです。

 ですから、普通に目標を立てても構いません。しかし、あまりにもヘンテコリンで、観念的で、現実離れした目標というのは、失敗してしまいます。ということで、ある程度までデータを調べ、可能性を高くする。そして「これぐらいなら実行可能だ」という程度の目標を立てるなら問題ありません。データを取る時にも感情的にならないで、現実的に観る。「このようにすれば、こんな結果になるだろう」ということで、「では、この結果を目指して頑張ろう」というふうに目標を立てるのです。

未来は読めないからこそ楽しい

 未来は読めないからこそ楽しいのです。必ず試験に合格すると決まっていたら、誰が勉強するのですか? 勉強する気になりませんね。「あぁ、試験がヤバイな」と、例えば国家資格の試験とか、試験の競争率が上がれば上がるほど、頑張ろうと思うのです。

 例えば、弁護士などで必要な司法試験がありますね。政府が一年に百人しか許可しないと決めたとする。それで今年は、試験を百人しか受けない。当然、みんな合格します。でも、それで面白いでしょうか? あるいは、政府が司法試験の定員を百人だと決めたところで、二千人が試験を受ける。合格するためには、相当頑張らなくてはいけないのですね。将来を知らないことは、そんなに悪くないのです。

 私たちは、ただ勘違いしているだけなのです。将来を知らないことで世の中が成り立っています。それが現実です。だからこそ、みんな頑張っているのです。動物園の動物たちは、自分の人生が面白くないと感じていると思いますよ。なぜなら、時間になったらエサをもらって食べなくてはいけないのですから。そんなのは、動物にとって超つまらないと思います。

 なぜ刑務所をみんな嫌なところだと思っているのでしょうか? 答えは、すべてが決まっているからなのです。寝る時間も起きる時間も、朝ご飯・昼ご飯を食べる時間も食べる量も、運動する時間も、何から何まで決まっている。動物園のように誰かに飼われているような感じです。きちんと面倒はみてくれますが。

 日本の刑務所に入って出てきた人で、不健康になって出てきたということはないでしょう。みんな娑婆にいた時より健康な体で出てきます。しかし、刑務所には入りたくないでしょう。面白くないからです。「挑戦」がないのです。

ですから、晩ご飯が食べられるかどうかという不安な状態でいいのです。そうすると、何としてでも晩ご飯を食べてやるぞという気持ちが湧いてきますし、何とか頑張るのです。

そういうわけで、未来はわからない・知らないということが現実であり、それはどうすることもできませんし、未来を知る方法は存在すらしない。それでも何の問題もありません。私たちは未来を知らないからこそ頑張っているのです。

宗教は未来を語る

 この課題を説明すると、宗教の世界にも少々、触れなくてはいけなくなります。世界の宗教は派手に未来のことを語るのです。未来は決して知りえない現象なので、信仰しなくてはいけないのです。そこで、信仰するという条件は、宗教の世界では欠かせないことです。信仰を持っている人々は、神様・仏様などなどを信じて、将来がわからないという現実をバイパスするのです。神様の恵みで必ずうまくいくと信じるのです。これは正しい生きかたではありません。信仰を盾にすると、理不尽な、大胆な、反社会的なこともできます。また、なんの仕事もせず、「神様、私を億万長者にしてください」と一生祈りに耽ってしまうこともできます。信仰が決定権を握っている世界では、悩み、苦しみ、落ちこみ、争いが多いのです。原理主義者が現れて、社会に迷惑をかける場合もあるのです。

 理性を重んじるお釈迦さまは、決して信仰を判断材料にはしません。ですから仏教徒は、「お釈迦さまが助けてくれるから大丈夫」というふうに思わないのです。自分自身で客観的にものごとを考えて、データを調べてから、目標を立てるのです。データを調べることと客観的に判断することで、目標に達せられる確実性が高くなります。将来は知りえない現象なので、決して百パーセントの確実性にはならない、ということも憶えておきましょう。


「マインドフルネス」のブームについて

最近「マインドフルネス」のブームが起こっているみたいなのですが、内容を覗いてみますと、二種類あるように思います。ひとつは、スピリチュアル(神秘的、宗教的)なもの。もうひとつはアメリカから入ってきた、ストレス低減法というもので、社員のストレスを低減して収益を上げるとか、仕事の能率を上げるとか、そのような俗世間的な目的を持ったもののように見えます。どちらも疑わしく、それらのマインドフルネスは、自我を益々大きくさせるような懸念があります。どうでしょうか?

流行に乗るのは危険

 私も同感です。私たちはアメリカから何か入ってくると、すぐに乗ってしまいます。アメリカ人というのは、何でも商売にする能力を持っています。元々仏教からマインドフルネス・トレーニングを学んで、それを品物として売り出すのですね。アメリカの社会システムから観ると、それも仕方ないことではあります。参加する人からお金を取らなくてはいけないし、教える人も収入がなくては生きていられないし、人は目の前に結果がなければお金を払わないでしょう。解脱に達する冥想を教えると言っても、誰もお金を払わないでしょうね。

 ですから、アメリカの社会問題ですね。みんな精神的にすごく混乱していて、落ち着きがなくて、怯えていて、極端な不安を抱えて生きているのです。日本の社会とは、ずいぶん違いますよ。その上で、アメリカは自由な社会であると言っているのですから。自由と言っても、相当ヤバイ社会なのです。外に出たら命の危険が高くて、無事に帰れるかどうかもわからない。みんなピストルを持っているしね。

 ですから、みんな酷い精神状態で、いくらか落ち着くためにということでやっていることですから、日本のような社会にはアメリカと同じやり方は必要ないと思います。日本の社会はいたって平和でしょう。外に出てもそんなにビクビクしなくてもいいでしょう。精々、日本人にあるのは仕事でいくらか業績を上げたいとか、業績が上がらないと会社が成り立たないとか、そんな程度だと思います。

「人の役に立つ」という気持ちで働く

 もし日本人がみんな慈悲を実践し、会社や自分が儲かるためではなく、私たちは人を助けるために、人の役に立つために、バリバリ仕事をするのだ、品物を開発するのだ、人助けを第一として考えるのだ、というふうに気持ちが変わったら、すごい国になるでしょう。もともと皆さん能力を持っています。研究する能力、勤勉に働く能力など、いろいろ国民性として持っています。そこを上手く使えば。

 いま世界の大国と比較すると、日本はすごく遅れています。以前は、遅れてはいませんでした。そこは何とかできると思いますけど。いま品物で「made in japan」というのは、ほとんどありません。それは、あまりいいことではありません。「人の役に立つ」というふうに心が変われば、物事は上手くいくと思います。

俗世間の成功に留まってはいけない

 それから「マインドフルネス」というのは、昔も一時期流行っていました。アメリカでは仏教をずっと教えていたのですから。仏教の冥想としてずっと教えていたことが、仏教から取り上げられてしまって、その方法は自分たちのものだとも言って、俗世間で儲けるために使っているのです。最初は上手くいくかもしれませんが、そのうち壁にぶつかると思います。

 一応、何をするにしても物事が上手くいく場合は、必ず「マインドフルネス(気づき)」ということが必要なのです。やることに集中すること、雑念をやめること、それで物事は上手くいくのです。ですから、商売繁盛という汚れた目的であったとしても、成功したければ「気づき」で実行しなくてはいけない。子育てを成功させたいと思ったら、「気づき」で成功するのです。どんな目的でも同じです。

 仏教では、「それで止まるな、終わるな」ということを言っています。仕事が上手くいったとしても、死ぬまで職業として仕事をするわけでもないでしょう。流行りとか世の中の流れもありますし。ある仕事ではものすごく能力があったのだけど、その仕事が要らなくなってしまう場合もありますから。社会の移り変わりは速いのです。

 ですから、いつでも「マインドフルネス(気づき)」という能力だけ身につけていれば、たとえ社会がどうのように変わっても生き延びる方法があるのです。

 そういうことで、「マインドフルネス」とは本当はこころを清らかにする方法です。そこを忘れてはならないと思います。


解脱するために出家したほうがよいのか

修行する人には、出家向きか在家向きかというものがあるのでしょうか? あるとしたら、何が基準なのか教えてください。質問した理由は、解脱という目的を果たすには出家した方がいいのではないかと思ったからです。よろしくお願いいたします。

いまの条件・状況でどこまで頑張れるか?

 その悩みは、理論的に合っていません。

 例えば、しっかり勉強したい学生は必ずアメリカに留学するべきかどうか、というような類の質問です。そんなことに困らなくていいのです。いまここでビシビシと勉強していく延長に、「やっぱり、あなたはアメリカに留学した方がいい」という答えが自動的に出てくるのです。そうすると全部条件は揃っています。

 大学側もすごく応援してくれて、こういう大学に行ったほうがいいとか、もちろん留学先にも話をつけてくれて、親も「この子はアメリカの大学に留学した方がいい」と、自然に次のステップを踏むだけです。ですから、余計なことを考えてなくてもいいのです。

 解脱を目指すことは正しい目的ですが、我々はいまの条件・状況でどれぐらい頑張れるのか? というところを卒業しないで、次のステップを踏むことはできません。

出家は組織、解脱は個人の仕事

「組織」というのは排他的ですよ。ただ出家という組織のメンバーになりたいのなら、その組織の条件に合っていれば、それはそれで構いません。しかし、それでは「解脱」とは関係なくなってしまいます。「解脱」というのは、あくまでも個人の仕事なのです。

 個人が自分の宿題をやったら、自然に次の宿題が出てくるのです。ですから、自然の流れで出家する人もいるし、出家する前に自分の仕事・宿題を完了している人もいます。英語が達者になりたければ、かならずアメリカやイギリスに行かなくてはいけない、というわけでもないでしょう。一度も外国に行ったことがない人でも、ものすごく流暢に英語を使いこなしている人もいますよ。そうすると、余計な苦労をしなくても済みました、ということになります。アメリカやイギリスに一度も行かないで英語で博士号を取る人もいます。

 そういうことで、修行するにあたって出家した方がいいかというのは個人の問題です。自分の宿題をしっかりとやることです。「解脱」というのは個人の宿題ですから、どんな組織・クラブに所属しているか、メンバーかということには関係ありません。

 世間的には組織・クラブに入った方が、いくらかやりやすいと思っていますが、それもわかりません。時々、クラブに入ったせいで上手くいかない場合もありますよ。例えば、お琴を弾きたくて教室(クラブ)に入った。そこで習っているお婆さんたちは、お琴がものすごく下手で、訓練をしても楽譜は読めない、指は動かない、すぐに忘れる、全然上達しない。習いたいと思った本人には能力があった。やればすぐに上達し、演奏できるようになる。そうすると本人にとっては、お琴教室に入ることが却って邪魔になってしまうのです。それならば、止めた方がいい。

 組織・クラブに入って上手く場合も、いかない場合もありますから、あなたは自分で自分の宿題をしっかりとやってください。その結果によって、次のステップが決まります。その時、悩む必要はありません。条件や周りの環境も、「では、次にこれをやってください」ということになってくるのです。

自分のこころに騙されないこと

「出家したほうがいいのかな? 在家のままでいた方が、どうなのかな?」と悩んでいるなら、止めておいてください。「出家しないと解脱に達しませんよ」と謳っている人は、はじめから修行していない。ただ修行しないための言い訳を探しているだけです。こころはそのように働くものなのです。

 例えば、「明日やります」というものは、結局はやりませんね。私もそうです。憶えておいてください。何かやることがあって、私が「じゃあ、これは明日やります」と言ったら、それはやらないということですから。しかし、「明日」という締め切りだったらやりますよ。でないとやりません。

 修行でも同じことで、「出家したら修行します」と言ったら、その人は在家でも修行しませんし、たとえ出家したとしても修行しないのです。こころに騙されないように気をつけて、頑張ってください。

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