智慧の扉

2015年2月号

世界を支配する二つの衝動

アルボムッレ・スマナサーラ長老

 生命は「生きていきたい」という存在欲と、「死にたくない」という恐怖感、この二つの衝動に動かされています。「生きていきたい」「死にたくない」という気持ちが、私たちの生きる原動力であり、あらゆる悩み苦しみを作り出す元凶でもあるのです。ひとは誰でも、その存在欲と恐怖感を実感していると思います。しかし、この衝動を無くして自由になることもできないのです。直接、仏教的にこの問題を観察してみましょう。

 理性で考えるなら、誰だって死んでしまいます。ですから「死にたくない」というのは、あまりにも愚かな希望なのです。如実に、ありのままに観るならば、「どうしても生きていきたい」というその期待は成り立たない、きっぱり捨てるべきだと分かるはずです。

 ということで、「死にたくない」という恐怖感は、無意味で、無駄な感情ということになります。すべての恐怖感の親玉は、「死ぬのは怖い」ということなのです。インフルエンザにかかるのは怖いでしょう。それは死ぬのが怖いからです。しかし、「どうしても死んでしまう」「死は避けられない」とありのままに事実を観られれば、怖がって怯えて、頭がおかしくなるまで恐怖感に苛まれずとも、心はしっかりと落ち着きます。

 生きることは苦(ドゥッカ)です。しかし、誰だって苦は避けたいでしょう。世間の人間は、死ぬのが怖くて、死から逃げたいのです。仏教では「だったら、苦しみから逃げるようにしてください」と言っているのです。「永遠の魂が救われますように、永遠の天国に逝けますように、神様にお祈りしてください」と勧める俗世間とは、アプローチが違います。

 生まれたということは死ぬこともセットになっています。それは変わらない、決まっていることです。であるならば、その生きている間は、苦を避けて生きることです。このようにシンプルに考えると、心に理性が現れます。とても簡単でしょう。難しくはないでしょう。「私は必ず死にます。だったら死ぬまでの間、苦しまないで幸福に生きよう」と決めたら、その瞬間に理性が現れるのです。存在欲と恐怖感に突き動かされて生きることは、もうしません。「永遠に生きるなんて、バカバカしい、成り立たない話だ」と、ありのままの事実を認めるのです。そう認めた時点から、世にある宗教や神秘的なことに対する怯えや尊敬も泡のように消えて無くなってしまいます。心の自由とは何かと、その時はじめて知ることになるのです。