2021年4月号
見解の素材に気づく
私たちが意見すなわち見解を作るためには、考えなくてはいけません。考えて結論に達することで見解を作るのです。考えるために使うブロック(材料)が概念で、仏教用語では「想 saññā〔サンニャー〕」と言います。一般的に概念(想)の働きに気づくことは難しいと思います。サンニャーは無意識的に瞬時に働くのです。例えば眼を閉じ開けると、眼に何かが映ります。映ったと同時に「これは花だ」と思います。つまり、「これは花である」という見解ができたのです。
見解を作るためにデータが必要です。それには眼から入ったありのままのデータではなく、サンニャーとして自分がストックしていた概念のひとつを用いているのです。そして、「あなたは花についてどう思うか?」と聞いてみると、その人はまたサンニャーのストックから花に関わるものを取り出して、いろんな形に組み立て見解を作っていくのです。
「考える」というのは、ちょっとしたブロック遊びのようなものです。子どもたちがレゴ・ブロックで遊ぶことと同じです。ブロックを美しい芸術作品に仕上げる人もあれば、何とか形に見えるように組み立てる人もいます。ブロックをたくさん持っているだけで何も組み立てられない人もいるでしょう。とはいえ世の中にも、立派な見解はあるのです。
見解の材料となるブロックは概念です。ブロックと言っても決して不変で独立したものではありません。サンニャーという概念自体が、感覚という入力データから因縁によって組み立てられる相対的・一時的な現象なのです。新たなサンニャーを組み立てる場合は過去のサンニャーから強い影響を受けるし、過去のサンニャーも新たなサンニャーの影響で変化します。
簡単なたとえで説明すると、なにかのモノを見て「高い」と言ったら理解した気がしますね。しかし「高い」という理解のためには、どうしても「低い」という概念がセットで必要なのです。ですから、一人ひとりの「低い」という概念のストックによって、相対的に「高い」という言葉の意味が構成されるのです。
そうなると、一人ひとり異なる概念ストックを持っている他者とのコミュニケーションは成り立つか怪しいものです。実際、100%完全なコミュニケ-ションというものは世界のどこにも存在しません。相対的で一時的な概念を材料に組み立てられた無数の見解が正しいのかどうかということも当然、相対的・一時的です。
見解とはサンニャーを素材につくられた現象であると理解すれば、見解に対する執着が減ります。見解をめぐって対立することがいかに愚かであるかと納得し、心がとことん落ち着くのです。