パティパダー巻頭法話

No.344(2023年11月号)

自由を保証する道徳

道徳は人間の束縛になってはならない Secular morality or self-discipline

アルボムッレ・スマナサーラ長老

今月の巻頭偈

Dhammapada 4.Pupphavaggo
ダンマパダ(法句)第四章 華の章

  1. Na pupphagandho paṭivātameti
    Na candanaṃ tagaramallikā
    Satañca gandho paṭivātameti
    Sabbā disā sappuriso pavāyati
  • 栴檀【チャンダナ】・タガラ・茉莉花【マッリカ】も
    風にさからい薫り得ず
    人の徳こそ吹く風に
    さからい四方【よも】に薫り行く
  1. Candanaṃ tagaraṃ vāpi
    Uppalaṃ atha vassikī
    Etesaṃ gandhajātānaṃ
    Sīlagandho anuttaro
  • 栴檀【チャンダナ】・タガラ・青蓮華【ウッパラげ】
    はたヴァッシキーとさまざまに
    香りの類【たぐい】あるなれど
    戒の香りぞ無上なる
  1. Appamatto ayaṃ gandho
    Yāyaṃ tagaracandanī
    Yo ca sīlavataṃ gandho
    Vāti devesu uttamo
  • タガラ・栴檀【チャンダナ】薫るとも
    その香僅かに微かなり
    無量なる持戒の香
    天に薫じて至高なり
  1. Tesaṃ sampannasīlānaṃ
    Appamādavihārinaṃ
    Sammadaññā vimuttānaṃ
    Māro maggaṃ na vindati
  • もろもろの戒成満し
    不放逸【アッパマーダ】に安住し
    正智解脱をせし者に
    魔王【マーラ】も近づく道を得ず
  • 参考和訳:江原通子 ※下線部はスマナサーラ長老の改訳

道徳の話

人は誰しも、道徳は大事だと思っています。ただ、それは知識的な話の場合に限られます。我々、生きている人間の立場から見ると、状況は変わるのです。もちろん、建前では皆、道徳に大賛成だと言います。しかし、本音は道徳賛成派ではないのです。かといって、反道徳主義が本音というわけでもありません。人の本音は曖昧なものです。道徳を認める場合も、無視する場合もあります。時には道徳に反する行為をする場合もあるし、道徳的な生き方を人の自由に付けられた足枷のように感じることもあります。かように、人の本音は曖昧なのです。

これとは違った考えもあります。人間とは、社会を築いて、社会の中に生きる生命体であることから、「社会の人々と対立しないでスムーズな関係を保つことが道徳である」と定義するのです。ある人が人間社会から離れて、誰にも見られない、聴こえない場所に孤立しているとしましょう。その人は裸でいても、逆立ちしていても、一人で罵詈雑言を叫んでも、ご飯を箸、スプーン、手などの道具を使わず犬のように皿から直接食べても、問題ありません。なぜなら、人間社会から離れているからです。しかし、その人がいる場所に他の誰かが訪ねてきたら、その瞬間に道徳が成り立つのです。道徳とは人間社会の決まり、規則であると定義すれば、そう言わざるを得ません。

管理システム

人間の社会では、道徳・決まり・規則・法律・文化などがあります。それらによって人を管理するのです。何かを信仰したい、何かにすがりたい、という気持ちは、ほとんどの人々にあるものです。そこで、人を救済すると称する思想集団が現れます。簡単にいえば、宗教・信仰・迷信などの組織です。それら「救い」を謳う諸々の思想集団も、道徳体系を作るのです。これも人を管理するシステムの一部になります。

このように、個人の人生はあらゆるシステムに管理されているのです。決まりを破ると、罰を受けたり、非難されたり、社会から疎外されたりするので、生きられなくなります。社会にある管理システムは、数えられないほど多種多様です。そのうえ、新しい管理システムも日々、現れるのです。一方で、時代を経て古くなって、機能しなくなる管理システムもあります。システムに従うならば、人は問題を起こさず生きられます。たとえ電車に乗ろうとしても、そちらに設定されている管理システムに従わなくてはいけないのです。人間とは、手綱【たずな】と鞭【むち】が無ければ生きられない生命体なのでしょうか? さらに鞍【くら】と鐙【あぶみ】まで付けられていると考えれば、人間とは他人に使役される生命体である、ということにもなるのです。

道徳は破ってみるもの

人間は社会に支配されている存在です。自由に生きる野生の馬も、人間に飼われるとその自由を失います。人間の決まりに従って生きることになるのです。馬にだって、手綱を振りほどいて、野原で自由に走り回りたいという気持ちは起こるでしょう。同じく、人間のこころの中にも、自由になりたいという気持ちが潜んでいるのです。しかし、社会の管理システムは容易に振りほどけるものではありません。そのうえ、自由な生き方とは何かと誰も知らないのです。それでも、チャンスがあれば社会の管理システムを破ってみようとします。バレないとわかったら、やってはいけないこともやってみようと挑戦します。人から倫理・道徳を教わる場合は、「社会が見張っているから守るべきものだ」と理解します。建前では納得するが、本音ははてな(?)を抱えているのです。人類の精神状態を総合的に表現すると、「道徳は破ってみるもの」なのです。

そういうわけで、法律を守ってもらうために国が苦労します。お金をかけて、司法と警察のシステムを構築しているのです。学校・会社・クラブなどの組織も苦労しています。宗教組織も色々と脅しをかけて、信者さんに道徳を守ってもらうことに苦労しているのです。学校でも、人気のない授業といえば道徳だ、と聞いたことがあります。

説得力がない

これは簡単な話です。「嘘をついてはいけない」という戒めは、どんな国でも認める基本的な道徳です。しかし、大統領からホームレスまで皆、嘘をついているのです。「なぜ嘘をついてはいけないのか?」と説得力をもって教えることは、誰にもできなくなっています。人の本音を納得させることが不可能になっているのです。道徳の教えは、おしなべて建前だけに終わっています。そもそも道徳を教える先輩の方々も納得していないのです。偉そうに他人を躾するくせに、自分はチャンスがあったら道徳を破ってしまう性格のままなのです。

もっとも大事な問題は別にあります。それは、道徳・規則などを使って人の生き方を管理するべきだと、皆が思っていることです。道徳が人の生きる自由を奪う手段に成り果てているのです。人は無意識的に、「自由になりたい」という本音を持っています。だから、誰が道徳を教えてもそれは不完全であり、説得力のない話になるのです。人から自由を完璧に奪いたければ、首と両手両足に鎖をつけることです。自由に生きることと尊厳を守りながら道徳を語る場合は、どうしても不完全な道徳システムになってしまうのです。

道徳の抱える問題について理解したところで、ここからはブッダの教えを参考にして、問題の解決に取り掛かることにしましょう。

自由を目的にする

ブッダは自由を推薦しています。しかし、管理されてロボットのように考える人間に、真の自由を発見することができなくなっているのです。ですから、まずは自由について語るのです。肉体は地球の物質なので、物質の法則によって変化します。肉体の自由はほどほどで良いのです。たとえば、呼吸もせず、栄養も摂らないで生きることは不可能です。衣服も、住むところも必要です。そうやって、何かに依存することで成り立つ肉体には、少欲知足程度の自由があれば充分です。政治家が人々の自由を奪うならば、政治システムを変えれば良いのです。すべての人間に衣食住薬が行き届く社会システムが理想的です。残念ながら、理想とはなかなか実現できないものでもあります。

こころの自由

こころには自由が必要です。そして、こころには努力すれば自由に達することが可能なのです。こころは、眼耳鼻舌身意に触れる色声香味触法という刺激によって回転しています。刺激によって回転するこころには、瞬間たりとも自由を経験することができないのです。ブッダはこころの自由を「解脱・涅槃」と名付けられています。人間にとって、それが何なのかと理解することが不可能なのは、当然なことです。色声香味触法に触れない瞬間はないからです。

仏教では、こころの自由に達するために、三つのステージで成り立つ実践方法があります。それは、皆様がよく知っている戒・定・慧【かい じょう え】(sīla samādhi paññā)です。個人が学び、実践して達するステージなので、三学と名付けられています。三学を卒業すると、自由に達しているのです。その人のことを「無学者」と言います。まだ実践中の人は「有学者【うがくしゃ】」です。言葉の遊びになりますが、自由を目指す三学を実践しない人は「非学者」と言っても構わないでしょう。非学者は実践しない者です。無学者は実践を完了したので、実践を要しない者になるのです。

戒学 sīla sikkhā

世間でも見られる道徳・倫理の話は、三学の一番目である戒学に相当します。要するに、仏道を実践する人も道徳・戒を守ることから始めなくてはいけないのです。個人の好みで一つを飛ばして、他の一つを選ぶことはできません。たとえて言えば、三階だての建物をつくる場合は、一階の工事から始めなくてはいけないようなものです。

先ほど述べた道徳の問題を踏まえると、ここで疑問が起こると思います。世間の道徳システムは人の自由を制御するものです。自分の自由を抑えて、世界が語る道徳システムに従わなくてはいけないのです。仏道の実践も道徳・倫理の実践から始まるのだとすれば、結局は人の自由を阻害することになるのではないでしょうか? このように思う人は俗世間にたくさんいます。仏教徒のなかでも、戒を守ることで自由を失うのだと考える人々がいます。その人々は、「戒を破ったら死後、不幸に陥る」と信じるがゆえに、戒を守るのです。それでは、他の信仰宗教システムと同じランクの道徳のままです。決して、ブッダが推薦する三学における戒学にはならないのです。

自由を目指す道徳

ブッダはこころの自由に達するための道のスタートとして、道徳を守ることを推薦しました。こころは絶えず色声香味触法に依存して回転しているから、自由が成り立たなくなっているのです。この問題は、実践の最後のステージでクリアするので、初心者は困らなくても大丈夫です。一般人は、否応なしに眼耳鼻舌身意に色声香味触法が触れていることを知っています。しかし、もう一つの働きを理解してほしいのです。人には感情があります。仏教用語で、感情のことを煩悩と言います。「こころを汚す」という意味です。色声香味触法が触れると、感情が生じてきます。それから、感情が人を支配するのです。感情を掻き立てるために、さらに色声香味触法を探し求めます。たとえば、見えるものを見て落ち着くのではなく、「見たいもの」を探すのです。

仏教の伝統では、感情は千五百あるのだとされています。とはいえ、お釈迦さまが説かれた経典では、千五百煩悩はリストアップされていないのです。釈尊は語るテーマに合わせて、煩悩の数を変えています。「無明」という一語に、すべての煩悩をまとめることもあります。誰にでも一般的に理解できる感情としては、貪・瞋・痴という三つを説かれています。貪のカテゴリーには、いろんなタイプの欲が入っています。瞋のカテゴリーには、怒り・憎しみ・恨み・妬み・後悔・落ち込みなどが入ります。また、痴のカテゴリーには、怠け・眠気・無気力・無関心になる・無視などが入ります。このような心理状態は、誰にでも理解できるものです。

奴隷になる

ひとたび感情が起動したら、人は感情の奴隷になるのです。たとえば、怒りが起動したら人は怒りの司令で行為をします。やるべきこと、やってはいけないことの区別ができなくなります。欲が起動すると、何としてでも欲を掻き立てた対象を自分のものにしようとします。要するに、感情が起動している時、人は感情の奴隷なのです。やるべきこと、やってはいけないことの区別をしないので、理性を失います。ブッダは、感情の司令でおこなう行為を悪行為と名付けます。悪行為には二つあります。感情が激しい場合の行為は、理性が停止状態なので、罪の行為として区別します。人はふだんから感情に支配されているので、人の行為は不善行為と名付けられます。罪の行為も不善の行為も避けることが道徳なのです。ですから、ブッダの説かれたとおりに道徳を守るとは、人が自由を目指して戦うことになります。要するに、感情の奴隷になることに反抗しているのです。

仏教徒の道徳は、社会の道徳システムに管理されて自由を失う行為ではなく、自ら生じる感情の奴隷にならないようにする反逆行為です。自由を目指す戦いは、簡単ではないのです。それでも、ブッダの説かれた道徳を守る人は自由を目指して戦う人になります。社会で言われるから道徳を守るという人は、社会に抑えられたままの人で終わります。

矛盾はない

ここまでの話から、「社会の道徳とブッダの道徳は対立するのか?」という問題が生じます。人間に可能な行為は無限にあるわけではないのです。社会システムに言われてやれることも、感情の司令でやれることも、限られています。ブッダはすべての行為を身・口・意の三つに分けています。身体の行為、話す行為と、考えるという行為です。社会の道徳では、身体の行為と話す行為について善し悪しを決めています。そして恐ろしいことに、考えるという行為に関しては「思考の自由」を謳っているのです。しかし、思考の自由は成り立たないものです。人は教えられた情報と感情の刺激によって思考するので、そこに自由はないのです。世界の理性ある人々が「やってはいけない」と言う身・口の行為については、仏教でも不善行為または罪だと認めています。とはいえ、世間の道徳は未完成なので、時代によって変化したりします。一方、仏教の道徳は個人中心なので、もう既に完成されています。時代に合わせて改良する必要はありません。また、個人と社会の関係にかかわる道徳について、仏教は柔軟です。

ここで大事なポイントは、「ブッダが語られた道徳とは、個が自由を目指す戦いである」ということです。感情の現れかたは、一人ひとり違います。それでも、どんな人にも起こり得る感情は千五百ほどです。一人の人間のこころが、千五百の煩悩から攻撃を受けるわけではないのです。誰にでも現れる煩悩といえば、貪瞋痴です。個々人で、自分のこころにはどのような形で貪瞋痴が現れるのかをチェックして、その都度、感情の奴隷にならないように戦うのです。

道徳リスト

経典では、道徳理論・道徳に関わる心理システムを教えるのと同時に、道徳リストを教える場合もあります。この場合は、戒律と言います。五戒、十戒、二二七の比丘戒などがあります。在家戒と出家戒があるので、戒律項目はそれほど大げさな問題ではないのです。律蔵にある戒律を数えると、百万を超えるそうです。お釈迦さまは戒律項目を定めたくはなかった、というエピソードも遺されています。すべての戒律は「個人のこころに起こる貪瞋痴の感情に負けない」というワンフレーズに集約できます。言葉を替えて言うならば、「感情の奴隷にならない」「理性に基づいて行為をする」「貪瞋痴が掻き立てられないような生き方をする」などのフレーズになります。

貪瞋痴の感情が完全に消えるのは、解脱に達する慧学に挑戦する時です。それまで、人に貪瞋痴があるのです。ご飯を食べる時は、美味しいものを選ぶ。服を買う時は、気に入ったものを選ぶ。住処を探す時は、環境の良いところを選ぶ。収入が必要なので商売を営む。これらは普通な行為です。日常生活では、罪にならない程度に貪瞋痴が働いているのです。そこで、仏道の人が最初に戒学を実践する場合は、「異常欲」と「異常怒り」を制御するようにします。それで、道徳的な生き方になるのです。貪瞋痴の痴も危険ですが、理性に基づいて思考することで制御できます。あるいは、仏教を学んで真理として納得しようと努力するならば、それが痴の制御になります。道徳とは、自由を目指して進む道のスタートなのです。

道徳を文学的に

人は貪瞋痴の奴隷になって生きているのです。動物たちには、貪瞋痴以外の感情はありません。感情の奴隷で生きるとは、動物と同じ次元で生きている、という意味です。ここで、「貪瞋痴とは臭いものだ」と文学的に表現してみましょう。要するに、貪瞋痴を制御しない、道徳を守らない人々は、悪臭を放っているのです。感情の衝動を抑えて、理性を活かして生きるとは、人格向上を目指すことに他なりません。その人は動物どころか、他の俗世間の人間よりも優れた生き方をしているのです。貪瞋痴の衝動が悪臭だとすれば、その衝動を抑えて理性を働かせて生きることは、芳香を放つ生き方になります。

栴檀や花などの香りを放つものがあります。それらにたとえて、お釈迦さまはこう語ります。栴檀、花などの香りは風上には届かない。しかし、善人が放つ香りは、四方八方に届くのです(ダンマパダ五四偈)。道徳を守るとは、人類に良い香り(良い影響)を放つ人間になることです。

インド社会では、最高の香りだと思う品物があります。栴檀、タガラ、青蓮華、ジャスミンなどです。道徳を守る人の香りは、それらより遥かに優れているのです(五五偈)。自然に道徳を守っている人は、皆に愛されて、尊敬されます。その人の影響を受けたくて、人々が近寄ってくるのです。激怒している人よりは、生命を慈しむ人のほうが自然と愛されます。

道徳を守る善人の香りは、天界まで届くものです(五六偈)。ブッダの説かれたとおりに道徳を守るならば、神々が喜んでその人のところに来て、影響を受けるのだ、という意味です。俗世間の人間は、神々にさまざまな供養をして、祈りを捧げて、幸福をお願いするが、祈る人に神々が近寄ったという話は聞いたことがありません。それに対して、仏教的に道徳を守る人のそばには、神々が喜んで寄ってくるのです。この偈では、道徳を守ることが如何に大事かと、俗世間の人々に向けて文学的に語られています。

道徳を完成して、不放逸(気づき)を実践して、智慧によって解脱(真の自由)に達した人は、現象の世界の次元を超越しているのです。如何なる現象によっても、動揺することは決してありません(五七偈)。現象の世界は、文学的に「魔王の領土」と表現されています。

今回のポイント

  • 俗世間の道徳は人を管理します
  • 道徳に逆らう気持ちは人の本音です
  • 仏教の道徳は自由を目指す戦いです
  • 仏教の道徳を守る人は、人格者になります
  • 道徳・倫理は自由を目指す道のファーストステップです