施本文庫

わたしたち不満族

満たされないのはなぜ? 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

2 生命を生かしているもの

 ◇誰に生かされているのか

日本の方々は「生かされている」という言葉をよく使っていますが、わたしたちを生かしているものは何でしょうか。神様でしょうか、何か外部の存在でしょうか。

わたしたちを生かしているものは「不満」なのです。不満がわたしたちを生かしているのです。
不満が「ああしなさい、こうしなさい」と命令して、わたしたちの生きるパターンを形作っているのです。
不満はエンジンのようなものです。ジェット機が動くためにはエンジンが必要でしょう。いくら大きな両翼がついていても、エンジンがなければ一ミリたりとも動きません。

人間には「不満」というエンジンがついています。そしてそのエンジンがわたしたちを生かしているのです。
不満というエンジンがどういう方向に行くかによって、人生が変わります。知識人になるか、商売人になるか、芸術家になるか、遊び人になるか、浮浪者になるかということは、不満のエンジンの方向性で決まるのです。

たとえば、音楽が好きな人は、音楽の分野で不満を感じて「もっとうまくなりたい、満足したい」とがんばるでしょうし、料理が好きな人は、料理を作ることに不満を感じてがんばります。
「自分は頭が悪いから良くなりたい」と思っている人は、学問の方にニンジンをぶら下げて、そちらの方向へ進むのです。この場合、「頭が悪い」というのが不満、「頭が良くなりたい」というのが希望であり満足です。

そこで、「頭が良くなりたい」と思っている人に「一日ぐらい遊んだらどうですか」と誘っても、なかなか遊ぼうとしません。その人にとって遊ぶことは面白くないし、すごく退屈なのです。
反対に「遊ぶことが人生だ」と思っている人に分厚い本をあげると、つまらなくて眠りこんでしまうのです。

わたしたち一人ひとりが「不満」というエンジンを持っています。そのエンジンが「こっちの方へ行きなさい」「あっちのほうへ行きなさい」と指示を出し、それによって人生の方向性が決まるのです。
ですから、わたしたちは神様に生かされているのではなく、不満に生かされているのです。

 ◇生かされているという実感

「神様に生かされている」と言う人は、本当に経験や実感があって、そう言っているのでしょうか。そうではないでしょう。いくら熱心に信仰しても、それは単なる妄想にすぎません。ですから、神様というものを実感することはできないのです。

わたしたちを生かしているものは神様ではなく、不満です。不満なら、わたしたちが日々感じていることですから、どなたにでも実感できるでしょう、不満は誰にでも実感できる普遍的な事実です。こころにある不満のエネルギーが、わたしたちを生かしているのです。

哲学や宗教の世界では「神は愛に満ちている」と言っていますが、その根拠はどこにあるのでしょうか。

現実の世の中は弱肉強食で、悪人が成功し、善人は犠牲者になっているという全く不公平で不平等な世界です。そんな世界を、愛に満ちあふれた大慈悲の神が作るでしょうか。
そこには大きな矛盾があるのです。

一方、仏教が説く「生命を生かしているのは不満である」ということなら、世の中の不公平や矛盾をすべて理解することができます。
不満だから、わたしたちは争い、戦い、苦しんでいるのです。
世の中のいかなることも「不満」ということですべて説明できるのです。

たとえば、ある母親が「わたしはこんなに子供のためにやってあげているのに、なんで子供はわたしに反抗するのか」と悩んでいるとしましょう。
子供が反抗するのは、子供に何か不満があるからですし、母親が悩んでいるのも、母親なりの不満があるからです。それぞれの不満が、親子関係をぎくしゃくさせているのです。
親子関係は「2+2=4」のように計算どおりにいくものではありません。「母親が愛情込めて子供を育てれば、子供は母親を敬い、感謝し、立派な大人になる」という結果になることは、ほとんどありません。

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わたしたち不満族
満たされないのはなぜ? 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2006年9月23日