施本文庫

仏教の「無価値」論

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

悩みを大事な宝物にしている 

わたしたちは、こころのどこかで、その考えることを、妄想したり雑念したりすることを、「すごくありがたい」と思っています。「とても大切なことだ」と思っています。「考えなかったら、大変なことになるのだ。家のことを忘れたら、これは大変だ。仕事のことを忘れたら、これまた大変だ」と思っているのです。「自分の病気のことだって、忘れたらどうなることでしょう」と。 

このようにわれわれは、われわれの悩み苦しみを高く評価して、それらにひどく執着しているのですね。「捨てるなんてとんでもないことだ」と思っているのです。それで実際のところ、われわれはこれが(悩んだり、苦しんだり、妄想したり、雑念をしたり、一日中夢を見たりすることが)「宝物だ」と思っています。 

この自分の悩み、自分の苦しみ、自分の欠陥、自分のこころの汚れ、自分の弱み、自分のだらしないところ、それが「とても大事な宝物だ」と、こころの底で思っているのです。信じているのです。それが「自分だ、自分だ」と、自分と一体化しているのです。 

たとえばなにか勉強したなら、「あっ、わたしはこういう勉強をしているこういう者だよ。〇〇研究家、〇〇専門家」と言って、それを自分と一体化するのです。それを宝物にしてしまうのですね。
だから、宝物だと思っているかぎり、自分と一体化しているかぎり、決して捨てられないのですね。それは、もうあたりまえのことです。 

宝物から生まれるものは苦しみ 

もう一つ例を考えましょう。 

たとえば買物をしたら、買った品物をポリ袋に入れてもらいますね。家に帰るまでは、それは必要なのですね。「家の中にまで持っていかなくても、ポリ袋はゴミだから、店の中のポリエステルなどを捨てるゴミ箱に捨てたほうが楽ではないか」とわたしが無責任なことを言っても、それは店の中では捨てられませんね。買った品物を家まで運ばなくてはなりません。袋に入れて持たないと運べませんから。
それで家に帰ったら、ポリ袋はもうゴミになる。ゴミになったら、なんの躊躇もなくゴミ箱に捨てる。 「あっ、ちょっと待って。これはまた使えそうだ。まだ何回か使ったほうが節約になるのではないか。ゴミを減らして自然を守ることにもなるでしょう」と思ったら、たたんでどこかにしまっておく。 

ものに価値をつけると捨てられないということは、このように普通の、あたりまえのことなのです。そして、その価値があるもの、捨てられないものに執着するのです。それらをなんとしてでも守るのです。 

わたしたちにとって価値あるものといえば、なんでしょうか?まさかポリ袋のようなものだけではないでしょう。家族、家、仕事、財産などは、価値があることがわかりやすいですね。サイン入りの野球ボールとか、初めて外国旅行に行ったときの搭乗券とかにも、価値をつけて大事にすることもあります。 

このようなものは自分にとって宝物かもしれませんが、自然法則に照らしあわせてみると、なんの価値あるものでも特別なものでもないのです。地震、火事などが起こると、跡形もなく壊れる場合もあるのです。 

人は年齢に、性別に関係なく死んでいくのです。これは、とても悲しいことです。悩みの、憂いの竜巻につぶされるのです。会社を首になると、自分の会社をライバルに乗っ取られると、腹が立ってしまうのです。一所懸命育てた子どもが自分から離れて独立すると、寂しくてたまらないのです。宝物だと思っていた家族が自分をあてにしなくなったとき、「いったいわたしの人生はなんなのか」と空しくなるのです。 

宝物を守るのも大変です。維持することも大変です。なくなることも憂い、悲しみ、苦しみのもとになるのです。かりに宝物がなくならなかったとしても、すべてを置いて自分がこの世を去るのです。大事なものから離れて死ぬことも、悲しいことです。自分にとって価値あるものの価値が高ければ高いほど、この悲しみ、苦しみが増していくのです。 

自分と自分の周りにあるすべてのものは、かならず変化して消えていくのです。ですから、宝物から幸福を感じることは確かではないのに、不幸、苦しみを感じることになることだけは折り紙つきなのです。 

結局計算してみると、わたしたちはなにを宝物と思っているかというと、自分のこの限りない悩みの原因になるものなのです。
言い換えれば、「この限りない苦しみこそがわたしの宝物だ」ということになるのです。 

いままで、宝物として家族、仕事、財産などの具体的なことを話しました。これらは生きるためには欠かせないものです。
でも「これらに執着すると、幸福を得る代わりに苦しみを味わうことになるのだ」と理解していただきたいのです。財産、家族などにあまりにも執着しすぎると、これらはより早く自分から離れて逃げていくのです。 

物質的なものは、「たとえ自分が死んでも離したくない」と思うものであっても、出て行くときは出て行くのです。なくなるときはなくなるのです。悩み苦しんでも、時間が経つと癒される場合もあります。 

ですから、中道的に、執着しないで、また理性を失わないように、慈悲にもとづいて、生きるうえで欠かせないものとつきあうべきです。 

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仏教の「無価値」論
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2001年5月13日