仏教の「無価値」論
アルボムッレ・スマナサーラ長老
価値観から離れる道
ですから、このブッダの道でがんばってみてください。この道で努力してみると、大変なこころの安らぎ、平安が得られるのです。
ですから、これからここで皆さま方、この冥想実践会で、皆さまの人生の何日間か、決して比較できないほど大事な生き方をしようとしているのです。
時間というものは、決して戻るものではありません。なにひとつも、世の中で「やり直し」は成り立ちません。すべては、瞬間瞬間に消えていくのです。皆さまの人生の一秒でも、戻ってはこないのです。一秒でも経たものは、一回かぎりで終わるのです。時間に関するこの重大性を感じてください。この時間を、妄想で浪費しないように気をつけてください。
ここで冥想実践のために使うこの時間こそ、皆さまにとって徹底した、絶対的な、大事な時間なのです。
なぜかというと、この時間だけ、皆さまはこころの苦しみをなくそうとしているのです。いままで苛めにいじめてきたこころの悩みを、傷を、この時間だけ、このほんのわずかの時間内で治そうと、こころを少々でも慰めてあげようとしているのです。
ですから、この修行を実践するために費やす時間だけが、なによりも大事なのです。いかなるものにも正の価値も負の価値もつけてはいけませんが、ここで努力が実るように、修行に費やす時間を大事にするのです。がんばってみると、この意味が皆さまによく理解できると思います。
どんなものでも、やっている途中には、いろいろときついことがあります。病気を治そうとするならば、苦い薬を飲む、危険な手術もする、痛い注射も打ってもらう。決して気持ちがいいわけではないのです。
たとえば五、六年間、からだの内臓のどこかに悪いところがあって、ずっと苦しんできたとします。それで医者に診察してもらって、からだの患部を発見する。「これを治したら楽になる」と医者が言う。これに同意する患者が、手術のために入院する。それで患者は、手術の前にいろんな段階で薬を飲んだり、いろいろと生活をコントロールしたり管理したりします。
これらすべてが、きついことなのです。手術すること自体も、からだにとってきついし、手術した後も、治るまではきついことになる。
しかし、それでも治ったら、いままであった病気は、それで消えてしまうのです。いままで何年間もつづいた苦しみが消えるのです。少々の苦しみを忍耐したことで、大きな幸せを味わうのです。その患者の入院はたった一週間かもしれませんが、それで自分の一生の問題が解決したことになるのです。ですから、この短い入院期間が、とても大事なのです。
もし、その患者があまりにもわがままな人だとしましょう。「いままでタバコを吸ってきたのだから」と、病院でもタバコを吸う。「いままで自由に食べていたのだから」と、好き勝手にいろいろなものを食べたり飲んだりする。「毎日、酒を楽しんできたのだから」と、酒も飲む。夜、友達と遊びに出かけたりもする。そのようなことになったら、どうなることでしょう? 病院から追い出されるか、一生、その病気は治らないか、というどちらかになってしまうのですね。その人の病気がさらに悪化して、早死にする可能性もある。
ですから、「いままでやってきた」という理屈で、そういうことは入院中、やらないほうがいいと思いますね。入院したのだから、日常生活でなさることはなにひとつもやってはいけない。病院でもわがままなことをして、そのうえ病気まで治してくれるというような話は成り立たないのです。
道場も、病院のようなところです。ここで「こころの病」を治すのです。ですから、いままでマンネリ的になさってきたことは、修行中はしてはいけないことになっているのです。少々きついかもしれませんが、それを忍耐することで最大の幸福が得られるのです。
ですから、ここにいるあいだは、世界のすべてを忘れるのです。「いまだけしか実際に生きていないのだ」と理解するのです。「実際にあるのはいまの瞬間だけ」と如実に理解し、なにを思い出しても「それはいま実際にあるものではなく、たんなる過去の思い出のみ」と理解するのです。
家のことを思い出しても、いま、ここに家はないのです。仕事のことを思い出しても、それはまた過去の思い出のみです。いま、ここに仕事があるわけではないのです。このように理解して、「いま、ここに」あるもの、起こるできごとを見ながら、観察しながら、修行をがんばってみたほうが、早いうちにこころが治ると思います。
お釈迦さまは『大念処(だいねんじょ)経』で、「7日間、努力しただけでも真理の理解ができる」とおっしゃっているのです。わたしたちは、どう計算してもそういうわけにはいかないかもしれないけれど、精進してほしいのです。
修行をスムーズに進める目的で、延々と「ゼロ価値」の話をしたのです。妄想を引き起こして集中力を壊すのは、この非合理的な価値観です。解脱に厚い蓋をかぶせたのは、この価値観です。執着で、煩悩で、こころを汚したのは、この価値観です。
無価値の生き方は、簡単ではないのです。無知な人には、決してできません。われわれには、「なにを言っているのか」と理解することもむずかしいのです。だから7日では無理だとしても、仏道の結果はそれぐらい早いものだと憶えておいてください。
おそらくお釈迦さまは、「この実践方法の結果は確実だ。また早いのだ」とおっしゃりたかったでしょう。安心して試してみたほうがよいでしょう。
では、修行する方々が、1日で、2日3日で、1週間で、1年で、または10年で、覚りという結果を出せますか?みんなが成功はしませんね。早い人もいて、かなり遅い人もいます。先が見えない人もいます。この修行の道には障害が多いのです。障害さえなければ、7日でも十分です。だれでも成功します。
今日は、これらのもろもろの障害のおおもとを、現代の言葉で説明しようと努力しているところです。障害のおおもとは、さきほども詳しく説明した「価値観」ですね。少々、質問のリストをつくってみましょう。
あなたにとって、価値とはなんですか?
価値があるもの、ないものと区別できるものはありますか?
かつて価値があったが、いま価値がないものはありますか?
かつて価値がなかったが、いまになったら価値があるものはありますか?
あなたにとって、価値あるさまざまなものの中で第一はなんですか?
あなたにとって、絶対的に価値があると思うものはなんですか?
などです。
このようなアンケートに答えてみると、自分の価値観が理解できると思います。
仏教は、人間の限りのない苦しみの原因は、この価値観にあると説いています。価値観はこころにあるもので、ものにあるのではないのです。価値観からこころが解放されたら、それが覚りの境地です。
われわれの普段の生き方というものは、価値観から離れる道ではなく、強引にでも、無理やりにでも価値をつけることです。いわゆる苦しみが増える生き方です。
この施本のデータ
- 仏教の「無価値」論
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2001年5月13日