仏教の「無価値」論
アルボムッレ・スマナサーラ長老
価値をつけずにいられない
話は脱線しますが、少々価値について考えてみたいのです。
われわれのこころは、価値をつけずにいられないという性格です。価値をつけたがる感情が、こころにはあります。この感情に汚染されたら、ゴミにでも高い鑑定結果がつきます。
「うちの子が初めてご飯を食べた箸ですよ」と大事にする。
旅行したとき食べた駅弁の包み紙でも、集めて価値をつける。
富士山の頂上で日の出を拝んで拾った小石だとして、価値をつけて大事にする。
ただその人の勝手で、「これがわたしにとって世界一価値がある」というものもあります。
「わたしの高校の入学時、父が自分の腕時計を質屋に預けて買ってくれた万年筆です」と価値をつけて、一生大事に使うことにする。使えなくなったら、「わたしの宝物だ」と置いておく。もしも自分の家に泥棒が入って金を探すとき、このボロ万年筆が踏まれて壊れたとしましょう。警察に被害届を出すとき、世界で一本しかなかったその万年筆が頭から離れないことになります。それにどれぐらいの値札がつけられますか?常識では「ただのゴミ」ですが、自分では「一千万円だよ」と言いたいところでしょう。自分だけの価値だから、他人にはわからない。
このような場合でも、世界でだれにでもゴミとされるものなのに、自分だけが一千万円を失った苦しみを味わうことになるのです。
このように、いろんなよけいなことを考えて、ものに価値をつけているのですね。
価値あるものは慈しみのこころ
それで、ものに、人に、自分に束縛されて、こころの自由を失って、悩み、苦しみ、心配に満ちた生き方をしなくてはならないのです。こころは、このような性格なのですね。
皆さんは、この世俗世界で「なにかひとつでも価値あるものはないのか」と、不満な気持ちになっていると思います。
じつは、ないのです。「いままで価値をつける生き方をしてきたから、どうしてもなにか大事にするものがなければ不安だ」と思うならば、一つだけあげられます。それは「生命にたいする慈しみのこころ」です。
ほかの価値観を捨てられるように努力してみましょう。
自分の知識、財産、体力、地位、権力、仕事などが人の役に立つものであるならば、その分、価値が生じます。観念ではないのです。
こころに慈しみを植えて育てる目的で、知識、財産、体力、地位、権力、仕事などを使用するならば、前よりも高い価値が生じます。慈しみの人間になるために、仕事、知識などを使用する場合は、当然、仕事、知識などに価値が生じます。しかし、それは二次的な価値であると理解しなければならないのです。このように成り立つ価値は、悩み苦しみにはつながらないのです。
この施本のデータ
- 仏教の「無価値」論
- 著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
- 初版発行日:2001年5月13日