施本文庫

何が平和を壊すのか?

争いの世界を乗り越えるブッダの智慧 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

宗教を恐れず客観的に観ると……

◎行為の結果を否定する教え

お釈迦さまの時代のインドには、「行為の結果を否定する宗教」がありました。彼らは「何かを期待して特別な精神的修行をしても、何も効果がない。例えばある人がインドの東側から西側までずっとお布施をして回ったり、宗教的な儀式、儀礼を行ったり、修行したりして遊行しても何の徳にもならない」と主張しました。また、「西側から東側まで強盗したり、人を殺したり、だましたり、邪な行為をしたりして歩き回っても何の罪にもならない。また善行為は意味がない。人に物を与えたり、親を敬ったり、目上の人々を敬ったりとか、そんなことをしても何の意味もない」という教えです。つまり、この世もあの世も私たちが思っているように存在するわけではない、と考えていたようです。現代にもそういう宗教があるか否かちょっとわかりませんが、古代インドにはあったのです。

そのような「行為の結果を否定する、または存在を疑問とする宗教」の立場に対して仏教ではこう考えます。「この世もあの世もないというが、万が一あったなら、道徳を否定して好き勝手な生き方をした人は大変なことになる。また、世の中では親を敬うこと、目上の人々を尊敬すること、善行為をすることをみな認めている。だからあの世があろうとなかろうと、道徳を認めて生活した方が良いのだ。嘘をつかず、悪いことを為さず、親を敬って生活すれば、あの世がなくてもそれで損することもないし、この世で生きている間、よい人間としてみなが協力してくれる。もし死後の世界があるならば、良いことをして生きてきたのだから、死んでから良い処に行くのは確実だ。このように考える人に『行為の結果を否定する宗教』は何の影響も与えません。だから、そんな思考に悩むことなく捨てましょう」という結論になるのです。

◎行為に倫理価値はないという教え

あの世もこの世も存在しないという、存在に疑問を投げかける立場の人々と違って、「行為には倫理価値がない」と主張する宗教もありました。彼らは、「いろいろな悪行為をしても罪はない。たとえば殺しても、殺させても、人をいじめても、いじめさせても、脅しても、脅しを人に言わせても、泥棒しても、強盗しても、いろいろ邪な行為をしても、嘘を言っても、言わせても、それは罪ではない」というのです。それに対して、お釈迦さまはこう応えます。「ある宗教家が善悪はない、罪もないという。しかし一方では善悪がある、行為には結果がある、と主張する宗教もある。お互いに全く真っ向から対立しているではないか。その辺りも考えてほしい」と。

真理について、もし真っ向から反対する意見が世の中にあるならば、どちらが正しいか分かりません。人々にとって「悪行為をしても罪にならない」と説く宗教は、聞こえがいいかもしれない。しかし、その主張を敷衍すれば、人は努力しなくても構わない、精神的に優れた人物にならなくても良いという結論に達します。宗教家が修行を勧めることは当たり前なのに、その教えを聞くと修行そのものが成立せず、どのように生きていても構わないことになる。しかも、その宗教を説く彼ら自身はまじめな修行者で、その教えを人に真剣に広めている。「行為には倫理価値がない」という教えには、そのような矛盾があるのです。

それとは反対に、「行為には倫理価値があるのだ。この世で善いことをするのは正しい。悪いことをしてはいけない」と説く知識人もいますね。ふたつの意見が対立した場合、どちらが正しいと結論が出なくとも、後者の「道徳を認める知識人」に従ったほうが勝ちなのです。
もし行為に倫理価値がないとしても、この世で悪い行為をしたら知識人から強く非難されます。この世だけでも、道徳を守ってまっとうに生活することは、知識人によって賞賛されるのです。反対にもし行為に倫理価値があったならば、悪いことをした人はこの世で非難されるばかりか、あの世でも悪い処に生まれるはめになる。善いことをした人はこの世で賞賛され、死後も善い処に生まれるのだとブッダは説くのです。

◎因果の代わりに運命を立てる教え

また、当時のインドでは「原因を否定する」宗教もありました。人は何の原因もなく、自動的に精神的に成長してゆく。つまり宗教家が心を清らかにするため自分の力で修行して頑張ったとしても、そんなことで心は清らかにならない。輪廻転生を繰り返すことで自動的に心が清らかになると言うのです。その教えでは輪廻も認めていて、人々が輪廻転生しながら、やがて究極的な幸福に至るとした。だから、特別に努力する必要はないのだと説いていました。

その教えに対してお釈迦さまは、「でも世の中で、努力したら心は清らかになると説く教えもあるではないか」と疑問を出したのです。そうすると、正反対の教えが二つ成り立ちます。また、その宗教家は自分の行動と矛盾したことを教えているのではないかという疑問も起こりますね。修行が無駄だというなら、みなと一緒に楽しく遊んで、欲に溺れて生活すればいいのに、何の為に一生懸命修行したり苦労したりしているのかとわからなくなります。インド文化では、このような批判の論理が簡単に成り立つのです。インドの宗教家たちは単なる思想家ではなく、みな何かの修行者でした。宗教家たちは、みな質素な生活をしていました。バラモン教の出家者たちさえも、ものを持たない生活して出家の道徳を守って頑張っていた。ですから自分の宗教の教理にしたがって世の中の道徳を認めないからと言って、贅沢三昧することはなかったのです。

「原因を否定する」教えでは、善悪行為に特別な効果がない、修行しても覚りはない、生まれ変わり続けていく過程で自動的に覚ってしまいますよ、と教えます。しかし、自分たちは楽に生活することをせずに、他の宗教家たちと同じような修行を中心とした生き方をしているのです。そこで矛盾が成り立っています。さらに、このような教えに従っても、先生たちは弟子の人格を育てる指導はしません。嘘をついても、「嘘をつくのはやめなさい」とは言ってくれないし、怠けていても「怠けてはいけません」と教えてくれない。指導をしたら自分の教えに逆らうことになりますから。そんな教えに従っても、人間の精神的な状態は決して向上することはありません。因果関係を否定する宗教を実践する必要はありません。ひたすら、輪廻転生すればいいということになるのですから。

◎苦行や生け贄を勧める教え

自分が苦しみながら、他人にも苦しみを与える宗教もあります。心を清らかにするために苦行は欠かせない、という教えです。その場合は飲まず食わずで修行しなくてはいけないから、自分が苦しむのです。当然、他人にもその教えを広めますから、他人も苦行で苦しむはめになります。また、神様を褒めたたえる目的、あるいは来世の幸福を求める目的で、生け贄を修行の一部として勧める宗教もありました。修行者が生け贄のために山羊などを殺すと、殺される動物にとってはとんだ迷惑です。また、自分の信者さんたちにも生贄を勧める。そうなると、信者さんたちも殺生することになるし、他の生命に苦しみを与えることにもなる。お釈迦さまの時代では生け贄も宗教の一つの行事でした。バラモン教では牛を生け贄にする儀式がありましたし、旧約聖書にも神様に羊一頭を差し上げなさいという記述がありますね。もしも神様に羊を生け贄として奉納することが必要だという宗教があって、世の中で広く認められたならば、世の中の羊たちが可哀相なのです。他人に苦しみを与える宗教も、自分に苦しみを与える宗教も、お釈迦さまはどちらも自分としては気に入らないのだと説かれました。

本物の修行は決して苦ではありません

正しい宗教とは、自分は苦しまないし、他人にも苦しみを与えません。自分がひとりで修行するのです。それは自分にとって楽しいことだし、幸福を感じる。修行そのものも他人の役に立つ行為でもある。自分が修行をすることで、他人もいくばくか幸福になってしまう。このような教えを他人にも広げれば、幸福な人間はどんどん増えていく。このような宗教があるならば、世界は何のことなく幸せになります。それは論理的に成り立つでしょう。

たとえば、「私は決して人を騙すことはしない」という修行を自分でする。人を騙さない人は、世の中で生きやすいでしょう。修行を始めたときから、その人の人生は楽になります。なぜなら、他を騙すためには色々なカラクリをする必要があるので、かなり緊張するのです。いつばれるかという心配に、怯えて生活しなければならない。脱税の例でも考えてみれば、発覚すると大変なことになりますね。五年あとからでも見つかると税金を全部払わなくてはいけないし、もし払わなかったら罰金まで付け加えて払う羽目になるでしょう。ですからちょっとでもごまかしをしたら、自分の人生が苦しく緊張するようになる。不安定になって怯えることになるのです。

自分は人を騙さないぞ、という修行するならば、自分に関係ある人々を騙すことも裏切ることもないので、人間関係において気楽で幸せな気分になります。相手の人も、「あの人正直だから、商売する上で何の問題もない。あなた方もあの人と商売しなさいよ」と周囲に勧めることになる。ですから「騙してはいけません」という一項目は、確実に幸福を与えてくれる。自分が幸福になって他人にも幸福を与える、そのような教えは宗教になくてはならないものです。お釈迦さまはサーラのバラモンたちに、「私ならば、このような宗教は好きですよ」と説かれたのです。

道徳は価値観ではなく真理です

この長い経典には、様々な宗教の話が出てきます。しかし、お釈迦さまはひとつひとつその宗教の教えについて、いとも簡単明快に論理で欠点を見せてしまう。今まで見てきたように、お釈迦さまは殺すことも殺させることも認めないし、苦行も認めません。正しく真理に則って商売をして家族を養うことや、王様がしっかりと法に則って政治を行うことを勧める。不法なことは絶対しないという修行をすれば個人的にも幸せが得られるし、周りの人々もそれで幸福になると教える。ですからお釈迦さまのアパンナカダンマの立場を聞いたところで、あのサーラのバラモンたちが「ああ、なるほど」と納得して、その教えを信じるようになってしまった、そこでこの経典は終わります。

お釈迦さまは自分の答えを押し付けてはいません。論理的に、「異論があるなら真理ではありません。そこには戦いだけ生まれて来る。少し考えれば、異論が成り立つ教え自体が間違っていて、実行すると不幸になると分かる。だから止めなさい」と間接的に仰っているだけ。
ブッダの立場では、異論が成り立つならば分かっていないのだ、ということになります。異論は間違っているということにはなりませんよ。相反する考え方の場合はもしかすると一方は真理かも知れない。しかし両方とも決定的な証拠を持っていないから、異論が成り立つのです。それだけ憶えておいてください。

例えば皆さまも「嘘をついてはいけない」ことを知っているでしょう。それは道徳です。ブッダは真理として、嘘をついてはいけないと教えている。だからブッダから見れば私たちの意見も正しい考え方ですが、私たちはなぜそれが正しいのかは分かっていない。嘘をついてはいけないと思っているだけ。だから真剣に守れないで、しょっちゅう嘘をついてしまう、そんな状態なのです。

真理だという決定的な証拠を知ったならば、決して嘘はつかないと思います。ですから世にある諸々の意見の中で、正しい意見はいくらでもあるかもしれない。しかし、私たちはそれらが真理か否かは判っていない。だから実行する気持ちにはなれないのです。

「嘘をついてはいけない」という道徳が真理だと私たちにも発見できる方法があります。自分は嘘をいうべきか、言わざるべきかと冷静に損得の基準で考えてください。ある人々の考え方に乗せられて嘘をついてしまうと皆に批判されます。すぐ社会的な信用を失い、自分の幸福がなくなる。他人にも迷惑をかけてしまう。これはとんでもない損ばかりです。しかも万が一、来世というものがあったならば大変な結果になるでしょう。ですから無難で疑問が成り立たない選択は、自分が悪を止めて善行為をすることであり、悪事を勧める人々を信仰しないことだと分かります。このように「損得の基準」で考えていけば私たちにも真理が発見できるとブッダは教えたのです。

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この施本のデータ

何が平和を壊すのか?
争いの世界を乗り越えるブッダの智慧 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2003年5月